箱根駅伝の歴史

第1回箱根駅伝優勝メンバー(東京高等師範学校)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

幻の箱根駅伝と呼ばれる第22回大会|ゴールの先は戦場だった昭和18年

2025/01/03

正月スポーツ、最大のイベント「箱根駅伝」。

大手町・読売新聞社前を出発したランナーが、東京~横浜~湘南を駆け抜け、峻険の箱根までタスキを運び、再びその道を帰ってくる姿は感動そのもの。

沿道で声援を送った経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

この箱根駅伝、始まりは日本初のオリンピック選手・金栗四三の発案であり、第一回大会から数えると約100年の歴史を誇ります。

まさしく日本最高峰の駅伝大会ですが、そんな光景が“当たり前ではない”時代がありました。

昭和16年――戦争激化の影響により、中止に追い込まれたのです。

では、選手たちは諦めたのか?

と言ったらそうではありません。

若い彼らが必死に知恵を絞り、長距離以外の選手もかき集めて開催された【最後の箱根駅伝】。

幻の箱根駅伝とも呼ばれる第22回大会が、戦火の激しくなる昭和18年に開かれました。

靖国神社から始まり、靖国神社で終わり、そしてその先に待っていたのは……若きランナーたちが切り拓いた当時のコースを振り返ってみましょう。

参考文献『昭和十八年 幻の箱根駅伝: ゴールは靖国、そして戦地へ』澤宮優(→amazon

 


駅伝大会の開催など言語道断

第一回の箱根駅伝は、大正9年(1920年)に開催されました。

雪が降り、気温は零下まで下がるという真冬の箱根路を、陸上青年たちがタスキを繋ぐ――。

そんな素晴らしい物語は毎年行われていたワケですが、時代が大正から昭和に入ると、だんだん戦争の影が迫るようになります。

そして昭和16年(1941年)。

戦争激化のため、ついに箱根駅伝は中止となったのでした。

当時箱根では、物資や兵器輸送、戦車の実験が行われ、民間人の立ち入りが制限されていました。

九七式戦闘機/wikipediaより引用

駅伝大会の開催など、言語道断というワケです。

他にも、スポンサー報知新聞社の経営難や、空襲への警戒など、複合的な理由があったとされます。

『それでも、何としても、駅伝をしたい』

ランナーたちの願いを受け、箱根駅伝の代わりに開催されたのが、東京と青梅の間を走る駅伝大会でした。

ただし、名称は変えられています。

「駅伝」という名を冠すれば、軍部に目を付けられてしまうからです。

【東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会】

馴染みにくい大仰な名前となってしまいました。

参加する青年たちの気持ちは、もちろん複雑です。走ればよいというものでもありません。

実際、青梅での駅伝は2回しか開催されませんでした。

なぜなら健脚を誇る青年たちも戦地へ招集され、その身を投ずることになったからです。

コースだけはなく、ランナーも消えてしまいました。

実は昭和14年(1939年)の時点でも、「召集令状」、いわゆる赤紙を懐に入れて箱根駅伝を走るランナーがいました。

その選手は「精一杯走ったから悔いはありません」と言うと、涙をにじませながら数日後、入営しました。

戦争の影は、スポーツ青年の身にも迫っていたのです。

 


もう一度、あの箱根路を

戦況の拡大と共に、陸上競技はスポーツではなく【軍事教練】とされるようになりました。

走者は、銃と砂を詰め込んだ背嚢を背負い、ゲートル(すねに巻く布)を着用し、歩兵の軍装で走るのです。

ゲートルを巻いた陸軍兵士/wikipediaより引用

大会名は【報国団武装行軍競争】とされました。

走者は十数人ごとに、行軍さながらに移動します。陸上競技とはかけ離れたものなのです。

軍装での走行は苦痛に満ちたものであり、スポーツの喜びはそこにはありませんでした。

「陸上競技部」という名称も「陸上戦技部」に変更せねば、活動を認められません。

一部競技は廃止され、投擲系の競技は「手榴弾投げ」に変更されました。

スポーツウェアも、粗末なもの。金属を用いるスパイクは使えず、手ぬぐいは「スフ」という人造絹糸のものになり、ウェアも粗いものに限られてしまったのです。

昭和17年(1942年)。

学生の徴兵猶予もなくなり、予科と高等学校も徴兵対象となりました。

「もはや戦地に向かい、死ぬしかないのか」

ランナーたちの胸に絶望がよぎりました。

それと同時に、箱根駅伝の伝統が自分たちの代で消えてしまう恐怖もわいてきました。

「正月に箱根路を、タスキをつないで走る」

そのことに憧れ、ロマンを感じていたのですから、無念の極み。

天寿を全うできた走者の中には、亡くなるまでその無念を抱き続けた人もいたそうです。

ましてや招集されて、戦地に散った青年の無念はいかばかりでしょうか。

 

「距離の測定は尺貫法を使うように」

関東学聯に所属する学生たちは、昭和17年の夏から軍部と文部省に交渉を開始しました。

しかし、彼らの熱意は一蹴されます。

どうすれば箱根を走れるのか?

学生たちは知恵を絞りました。

「戦勝祈願という名目で走ればよいのではないか」

「コースを箱根と靖国神社の往復にすればどうだろう?」

軍部はこの案を聞くと、態度を軟化させました。

「紀元二千六百三年 靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」

そんないかめしい大会名にすることで、やっと開催許可を得たのです。

 

しかし、許可は得たものの、報知新聞社からの資金援助は期待できません。

難航しながらも、どうにか準備を進めていると、軍部が口を出して来ました。

「距離の測定は尺貫法を使うように」

明治以来定着したメートル法に馴染んだ学生にとって、これは厳しいものでした。

彼らは昼間、尺貫法で距離を計測。

夜中にこっそりメートル法で計測し直すことにしました。

軍部に根回しをして、光る目を憚りながらでなければ、開催もできない状況でした。

それでも箱根を走りたい学生たちは、あきらめなかったのです。

 


箱根路を走れる! しかし選手たちは苦しく……

その年の秋、箱根を走れると聞いてランナーたちは喜びました。

しかし、多くの大学が選手集めに苦労しました。

集めようにも、多くのランナーたちが、既に戦地に送られていたのです。出場経験のある大学でも、参加を見送らざるをえない場合が多数ありました。

やっと参加した大学も、短距離走や投擲競技といった別競技の選手をかきあつめ、準備も練習もろくにできないような状況。

物資が統制され、食料はおろか暖房もないような中で、彼らは練習を続けたのです。

不足した栄養を補うため、栄養剤を注射した学校もありました。

練習期間が限られ、カロリーすら十分に摂取できない中、どれほど厳しかったことでしょう。

それでも彼らは箱根を駆ける喜びのために、鍛錬に励んだのです。

 

昭和18年1月5日

昭和18年(1943年)の元旦、箱根は曇り空でした。

冬らしい暗い空からは、雪がちらついていました。

そして1月5日――。

大会当日は快晴。参加できたのは11校のみ。

伴走自動車は禁止され、自転車やサイドカーのみが許可されました。

朝七時半、選手たちは全員靖国神社に参拝します。ミッション系の学生もおり、誰もが複雑な胸中だったことでしょう。

参拝後、選手たちはトレーニングウェア姿となり、スタート地点に立ちました。

長距離ランナーは小柄で細身であることが多いものですが、がっちりとした大柄な選手も混じっていました。

前述の通り、投擲選手も参加していたからです。

駅伝初参加という選手もいました。

彼らの顔は神妙な面持ちでした。

この大会を最後に死ぬ覚悟を固めた者もいれば、出征したチームメイトに捧げる気持ちを持つ者もいました。

「ヨーイ、ゴ−!」

合図とともに、選手たちは飛び出しました。

寒空の中、栄養すらろくに取れない、練習すら満足にできない、死の予感すら隣り合わせの選手たち。

それでも走り出した彼らの胸には、駆け抜ける爽快感と喜びがあふれたのです。

 

箱根路のドラマ

しかしスタートして、いったん走り出せば、そこにあるのは箱根駅伝のドラマでした。

走った者しかわからない、特別な大会。

毎年正月に繰り広げられたあのドラマが、昭和18年の新春にも繰り広げられます。

全力で走れた者。

ペース配分に失敗した者。

追い抜く者、追い抜かれる者。

山を登り、坂を下る。

抜きつ抜かれつのドラマが、この年も繰り広げられました。

沿道につめかけた応援の人々も、この日ばかりは戦時下の暗い世相を忘れ、歓声を送ります。

伴走する車も、大変です。

木炭車や自転車では思う様に併走できません。何台もの木炭車が途中で止まってしまいました。

レースは日本大学、慶応大学、法政大学の三つ巴の争いとなりました。

ゴールもスタートと同じ靖国神社です。

激しい争いを繰り広げながら、最後のたすきを受け取った選手たちは、ゴールを目指しました。

真っ先にゴールしたのは……日本大学でした。

二位が慶応大学、三位が法政大学。

参加した11大学が、見事最後までたすきを繋いだのでした。

このときの大会は、チームメイトだけではなく、参加者全校の選手がゴールした選手を出迎えました。

最下位の青山学院大学は首位から3時間近く遅れ、日没近くになってゴールしています。

沿道の人々はそれでも歓声を送っていました。

ゴールでは皆があたたかく迎えました。

興奮と感動の最中、選手も監督も、皆ある予感を抱いていました。

これが最後の箱根ではないか――。

この大会が、戦前における日本陸上競技最後の、沈む夕陽の輝きであることを、皆が予感していました。

そしてその予感は当たりました。

出場選手たちは、その年10月には学徒出陣兵として、戦場へ送り込まれます。

そして箱根駅伝大会は、昭和22年(1947年)まで再開されなかったのでした。

 

箱根から、戦場へ

この年、日本の戦況は悪化の一途をたどりました。

それまで猶予されていた学生にまで、召集令状が届くようになり、次々に戦地へ送られていきます。

南洋の密林を彷徨い、餓死した者。

酷寒のシベリアに抑留された者。

特攻隊員となり、偶然から命を拾った者。

戦地にあっても、陸上部の仲間のことや、箱根のことを日記に記した者もいました。

厳しい捕虜生活を生き抜くため、鍛えた肉体が役立った者もいました。

駅伝と違って、彼らの走った道は、必ずしも往復路があるわけではありません。

復路をたどり復員した者もいれば、死へ向かう往路だけを辿った者もいたのです。

 

箱根駅伝の復活

昭和20年(1945年)夏、日本は敗戦を受け入れました。

そしてその2年後の昭和22年(1947年)、箱根駅伝は復活を果たします。

その大会には、昭和18年大会を走った選手たちの一部も、参加することができました。

戦地で罹ったマラリアの後遺症の影響を受け、疲労困憊のあまりゴール直後倒れる選手もいました。

それでも、彼らの感慨はひとしおでした。

今度の大会で、ゴールの向こう側に待っているのは戦場ではありません。

ひたむきに走る幸せを、彼らは噛みしめました。

戦争の苦しみから解き放たれ、のびのびと競技を楽しむ若者の姿が、そこにはあったのです。

戦後、昭和18年の大会は正式な大会としては認められませんでした。

戦争と死の影に覆われた同大会は、写真すら残されておらず、参加者も多くを語りませんでした。

東海道戸塚宿のマンホール

コースも異なり、事情もあまりに他の大会とは異なる――そんな昭和18年大会。

参加者たちはやがて重い口を開き始め、開催するのも参加するのも困難極めたあの大会を語り始めました。

地道な活動が実り、正式に認められたのは昭和35年(1960年)のこと。

現在では第22回大会として、記録にも残されるようになりました。

◆箱根駅伝公式サイト 第22回大会結果(→link

戦争の影に覆われた中、走ることへの情熱と機転で大会を開催し、駆け抜けた若き選手たち。

彼らの思いを知ると、改めて驚かされます。


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【参考文献】

参考文献『昭和十八年 幻の箱根駅伝: ゴールは靖国、そして戦地へ』澤宮優(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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