箱根駅伝の歴史

第1回箱根駅伝優勝メンバー(東京高等師範学校)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

幻の箱根駅伝と呼ばれる第22回大会 ゴールの先は戦場だった 昭和18年を振り返る

2025/01/03

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
最後の箱根駅伝・幻の第22回大会
をクリックお願いします。

 

箱根から、戦場へ

この年、日本の戦況は悪化の一途をたどりました。

それまで猶予されていた学生にまで、召集令状が届くようになり、次々に戦地へ送られていきます。

南洋の密林を彷徨い、餓死した者。

酷寒のシベリアに抑留された者。

特攻隊員となり、偶然から命を拾った者。

戦地にあっても、陸上部の仲間のことや、箱根のことを日記に記した者もいました。

厳しい捕虜生活を生き抜くため、鍛えた肉体が役立った者もいました。

駅伝と違って、彼らの走った道は、必ずしも往復路があるわけではありません。

復路をたどり復員した者もいれば、死へ向かう往路だけを辿った者もいたのです。

 


箱根駅伝の復活

昭和20年(1945年)夏、日本は敗戦を受け入れました。

そしてその2年後の昭和22年(1947年)、箱根駅伝は復活を果たします。

その大会には、昭和18年大会を走った選手たちの一部も、参加することができました。

戦地で罹ったマラリアの後遺症の影響を受け、疲労困憊のあまりゴール直後倒れる選手もいました。

それでも、彼らの感慨はひとしおでした。

今度の大会で、ゴールの向こう側に待っているのは戦場ではありません。

ひたむきに走る幸せを、彼らは噛みしめました。

戦争の苦しみから解き放たれ、のびのびと競技を楽しむ若者の姿が、そこにはあったのです。

戦後、昭和18年の大会は正式な大会としては認められませんでした。

戦争と死の影に覆われた同大会は、写真すら残されておらず、参加者も多くを語りませんでした。

東海道戸塚宿のマンホール

コースも異なり、事情もあまりに他の大会とは異なる――そんな昭和18年大会。

参加者たちはやがて重い口を開き始め、開催するのも参加するのも困難極めたあの大会を語り始めました。

地道な活動が実り、正式に認められたのは昭和35年(1960年)のこと。

現在では第22回大会として、記録にも残されるようになりました。

◆箱根駅伝公式サイト 第22回大会結果(→link

戦争の影に覆われた中、走ることへの情熱と機転で大会を開催し、駆け抜けた若き選手たち。

彼らの思いを知ると、改めて驚かされます。


あわせて読みたい関連記事

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)
幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)が中止になったのは本当に戦争のせい?

続きを見る

箱根駅伝の歴史
箱根駅伝は誰がいつ何のために始めたのか?金栗四三と共に歩んだ歴史を振り返る

続きを見る

金栗四三
日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~初の「箱根駅伝」も開催した92年の生涯

続きを見る

コメントはFacebookへ

オリンピック負の歴史
オリンピック負の歴史~スポーツと政治・経済・戦争は切り離せない宿命なのか?

続きを見る

Ninja
Ninja(忍者)が世界中に普及したキッカケは1964年に開催の東京五輪だった?

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】

参考文献『昭和十八年 幻の箱根駅伝: ゴールは靖国、そして戦地へ』澤宮優(→amazon

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-明治・大正・昭和

目次