明治・大正・昭和

地震にも空襲にも負けず~東京駅が現在のところに建てられた3つの理由

大正三年(1914年)12月20日、東京駅が開業しました。

現在は新幹線も発着し、都内の中心地と言えば東京駅なわけですが、日本最初の鉄道事業と一致しないのは皆さんご存知の通り。

はじめは新橋駅~横浜駅(現在の汐留駅~桜木町駅)に設置されました。

ではなぜ東京駅が後から出来て、しかもターミナル駅になったのか。
そこには大きな理由が3つありました。

鉄道を開業した横浜駅の様子/wikipediaより引用

 

繁華街・銀座に近いほうから

一つは、繁華街である銀座からの距離でした。

現在の東京駅と新橋駅で考えると、後者のほうが銀座に近いですよね。
貨物を運ぶには繁華街に近いほうが良いということで、元々大名屋敷が多かった東京駅付近は後回しになりました。

竣工当時の東京駅/wikipediaより引用

二つめは、ちょっと情けない話ですが……単純に費用が足りなかったのです。

鉄道を敷こうという話が明治時代に出たとき、そのルートを中山道にするか東海道にするか決まっていませんでした。
上記の新橋~横浜間は「とりあえずやってみよう」という実験ルートだったのです。

その後、当時の技術では中山道に線路を引くことは難しいということがわかったため、東海道を辿って線路を作ることになりました。

が、明治維新や西南戦争などのドンパチ……もといあれこれで大散財していた明治政府には、国営でやりきるだけのお金が残っていなかったのです。
結局、民間会社が新橋~東京間の線路を延伸させ、現在のような鉄道網が敷かれました。

 

「皇居の前まで線路を持ってこれますよ」

最後は国防上の理由です。

上記の資金不足を知った外国の資本家が数名、「お金出しましょうか?そうしたら皇居の前まで線路を持ってこれますよ」と話をもちかけてきたのですが、明治政府はこれを断ります。

鉄道があれば、物資や人の行き来が楽になりますよね。
しかし、それを外国の手を借りて作るということは、わざわざ侵略の道筋を作らせるにも等しいことだったからです。

しかも皇居前の大名屋敷があった区域には、当時陸軍の施設や官庁、監獄(!)がありました。
もしそこへ外国の軍がやってきたら、政府には成す術がありません。

実は既にインドでイギリスがその手法を使っており、それを知っていた大隈重信らが「国内で何とかしますのでお気遣いなく」とさりげなく拒絶したのでした。
大隈△。

大隈重信
生粋の武士だった大隈重信は右脚失いながら政治と早稲田85年の生涯

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地震にも空襲にも負けなかった

話は逸れますが、皇居の目の前に監獄があったって考えてみるとすごいですね。

天皇のご威光でマジメに服役するだろうとか思われてたんでしょうか。

その後、陸軍施設や監獄などは移転し、空いた場所を区画整理して東京駅やオフィスビルが立ち並ぶようになります。

数年後の関東大震災では多くが消失しましたが、東京駅だけは鉄骨レンガ造りだったことと、駅員達の懸命な消火もあって全焼を免れ、多くの人の避難場所として使われたそうです。
駅前の交番は、家族や知り合いを探すビラを貼る場所としても役立ちました。

空襲を受けた後の東京駅(1945年撮影)/wikipediaより引用

太平洋戦争時の空襲でも屋根は焼けてしまいましたが全焼はせず、列車の発着が出来る程度には残ったそうです。

このとき明治宮殿(明治時代に江戸城跡へ建てられた皇居)は全焼しているので、東京駅がいかに頑丈に出来ていたかがうかがえます。
優雅な外見とは裏腹に、実は男前な駅なんですね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
東京駅/wikipedia

 



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