「七転び八起き」ということわざがありますが、実際にそんなことができる人はそうそういませんよね。
ほとんどの場合、妥協して一段階低いレベルにするか、完全に諦めてしまうかどちらかではないでしょうか。
しかし世の中には「ド根性にも程があるやろ」な人もごく稀に存在します。
753年(天平勝宝五年)12月20日に来日した鑑真もその一人です。
「6回目の渡航でようやく日本に来られた盲目の僧侶」として有名ですが、彼はなぜそこまでして日本海の荒波を越えようとしたのでしょうか。
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日本仏教の行く先を憂いた僧侶たちが鑑真へ白羽の矢を
鑑真は10代半ばで仏の道に入り、以後一生他人の出家の手助けをして過ごしたといっても過言ではありません。
出家に伴う儀式の一つに「受戒」というものがあるのですが、彼の時代にこの制度ができ、確立していったからです。
日本へ来たのも、この受戒という制度を伝えるためというのが大きな目標でした。
仏教そのものは既に日本にも広まっていましたが、何事にも黎明期に良くあることで、あまり制度が整っていませんでした。
さらに当時の日本では僧侶に税が課せられなかったため、脱税のために名前だけ出家するという不届き者が多かったのです。
それこそ仏罰が当たりそうなものですけどね。
ちなみに現在でもたまに「坊主丸儲け」と言う人がいますが、現在の寺院は宗教法人として軽減はされていても、ちゃんと税金を払っていますので、お寺の関係者にイヤミを言うのはやめましょうね。
当然のことながら真面目な僧侶たちはこうした状況を憂い、本当に仏の教えを守る気がある人だけを認める制度が欲しいと考えていました。
唐(当時の中国)では既に「僧侶が戒壇(授戒をするために整えられた儀式場)で戒を授ける」というスタイルが確立していましたので、これを見た日本人の僧侶は「日本でもこれができれば、改善するかも」と考えます。
そして既に万単位の人へ戒を授けていた鑑真へ「ウチの国でも授戒をしていただけませんか」とお願いしました。
これを引き受けた鑑真はまず弟子たちに話を持ちかけますが、海を越えての長旅が命がけだった時代ですから、当然誰も行きたがりませんでした。
たぶん遣唐使たちから船旅の危険なども聞き知っていたでしょうし、当たり前といえば当たり前です。
命を惜しんで仏の道が勤まるのか?とか言わない言わない。
5回連続でことごとく失敗 心が弱り天竺行きすら考えた
仕方なく鑑真は自ら渡日を決意し、準備を進めます。
こうなるとさすがに弟子たちも全員イヤだとは言えず、21人がお供をして海を渡ることになりました。
が、往生際の悪いことに、彼らのうちの誰かが「日本の僧侶は本当は海賊で、唐をだましている」という嘘八百を並べたことにより、船の支度が難航します。罰当たりな。
さらに当時の航海技術ではすんなり日本海を渡ることができず、航路や季節を変えて5回渡航を試みましたが、ことごとく失敗し、さすがの鑑真も心が弱り始めました。
しかも第5回目の失敗のとき、渡日を依頼してきた日本の僧侶が亡くなってしまったことで、鑑真は一時日本ではなく天竺(インド)へ行こうとまで考えたそうです。そりゃこれだけポシャッたらイヤにもなりますよね。
しかし、周囲の説得により初心に返り、6回目の航海を決意します。
この間に鑑真は目を患い、視力が不自由になってしまいました。
昔は「失明した」といわれていましたが、渡日後の文書(正倉院で保管されていた)に鑑真の直筆らしきものがあるようで、そこから「完全に失明したわけではないのでは?」という説もありますね。
現代でも視覚障害はいろいろありますし、目が弱る=完全失明ではありませんし。
皇帝・玄宗が「行っちゃらめぇええええ」
こうして鑑真のやる気は蘇ったものの、ここで水を差した人物がいました。
当時の皇帝・玄宗です。後に楊貴妃とのアレコレで有名になる人ですね。
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玄宗は「鑑真はウチの国に必要な人だから行っちゃヤダ><」(超訳)という、ある意味まともなことを言い出し、渡航させないように手を回します。
ちょうど遣唐使が帰る頃合だったので、そちらにも話を通して乗船を阻みました。
玄宗、元はデキる人だったんですなぁ。
が、ここであえて命令を無視した遣唐副使・大伴古麻呂(おおとものこまろ)がこっそり自分の船に鑑真を乗せることに成功します。胸アツな展開ですね。
遣唐使は複数の船からなる船団で行き来しており、正使と副使で違う船に乗っていたのでこういうことができたのでした。
ちなみに正使の船はこのとき帰国できなかったそうです。仏罰なのかただの偶然かどっちでしょうね。
来日直後から休むこと無く受戒をスタート
こうして渡日を決意してから10年後、やっと鑑真は日本の地に降り立ちます。
年末の到着でしたが、彼は休むことなくその年のうちに授戒を始め、翌年1月には平城京に赴いて聖武天皇(このときは上皇ですが)らから歓待を受けました。
奈良の大仏を作った人ですから、唐から高名な僧が命がけで来てくれたというだけで感謝感激雨あられといったところだったでしょうね。
その娘・孝謙天皇も鑑真を信頼し、日本で授戒制度を進めることを認め、脱税目当てのエセ僧侶は少しずつ減っていきました。また、鑑真は彫刻や薬の知識も豊富に持っており、これらも日本へ伝えたといわれています。
彼は来日から10年後に76歳で亡くなったのですが、その死を惜しんだ弟子が彼から伝わった知識を元に鑑真の木像を作らせたそうです。
これが現在も唐招提寺にある国宝の一つ、”鑑真和上坐像”です。教科書や資料集にもよく出てきますので、おそらく彼の名を聞いた場合この像の顔を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。日本最古の肖像彫刻でもあり、両目を閉じていながら確固たる力強さが感じられる像です。
この像には当時とても高級だった漆が大量に使われているのですが、多分贅沢な彫刻にしたかったからではなく、できるだけ生前の鑑真の姿に忠実に作りたかったからなのでしょうね。
既に作られてから1200年以上経っていますが、今も衣服に塗られた色が残っているほどですから。こういうのも御仏の加護なんですかね。
これだけのものを作ろうと思わせる人格こそが、鑑真最大の強みだったのかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
鑑真/Wikipedia