嘉永六年(1854年)12月20日は、片山東熊(とうくま)という建築家が生まれた日です。
さっそく「誰それ」という声が聞こえてきますが、経歴や手がけた建物を見るとなかなか面白い人です。
というわけで、早速本題に移っていきましょう!
鹿鳴館も手がけたお雇い外国人・コンドルの弟子となる
片山は、萩で長州藩士の家に生まれ、戊辰戦争中は奇兵隊に参加していました。
当時まだ10代前半のはずなんですが、小姓みたいな感じだったんでしょうかね。まあ、当時の社会的慣習からすると数えで14~15歳なら一応大人扱いですが。
特に功績が伝わっていないので深くツッコまないほうがよさそうです。
その後は建築に興味を持ったらしく、工部大学校(東大工学部の前身)へ入学。
お雇い外国人の一人、イギリス人のジョサイア・コンドルの弟子となっています。
コンドルは鹿鳴館や旧海軍省本館、日本初のオフィスビルである三菱一号館などを手がけた建築家で、かなりスゴイ人なんですが、手がけた建築のうち半分くらいは解体されたり、戦火で失われてしまったのが残念ですね。
三菱一号館だけは2009年に復元されていますが……。と、話を片山に戻しましょう。
彼は明治十二年(1879年)に工部大学校を卒業し、工部省というインフラを担当していたお役所に勤めるようになりました。
コンドルの直弟子ということで期待されていたのか、勤め始めてから三年で有栖川宮邸の建築に関わっています。有栖川宮熾仁親王(和宮と婚約してた人)とともにヨーロッパへ行っているくらいですから、余程のホープだったワケですよね。
迎賓館(旧・東宮御所)を作ったところ、明治天皇に……
その後、宮内省に移り、明治宮殿や皇室関係の建築物もより多く手掛けるようになります。
欧米にナメられないような立派な宮殿を作るため、またしてもドイツへ出張して装飾の勉強をしていました。
そして帰国した彼の代表作が旧東宮御所 (現・迎賓館)です。
東宮=皇太子=将来の天皇の住まいということで、片山はかなり気合を入れていました。
が、完成した後、明治天皇に報告したところ「贅沢すぎ(´・ω・`)」(※イメージです)と軽く怒られてしまったとか。それがあまりにもショックだったらしく、それから片山は病気がちになってしまったそうです。
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写真を見るとなかなか恰幅のいい感じの人なだけに、ちょっとかわいい感じもしますねw
いや、本人からすれば陛下直々のご叱責ですから、ショックを受けるのもわからなくはないのですが。
皇太子(後の大正天皇)もあまり住み心地がいいとは思えなかったようで、旧東宮御所にはほとんど来なかったらしいです。
皇太子時代の昭和天皇も同じように感じたらしく、戦後に弟宮の高松宮に「赤坂に移っては?」と言われても「あそこは住みにくいから」と断ったことがあるといわれています。
「家は夏の住みやすさを考えて作るべし」ですかね?
これはワタクシの私見ですけれども、片山はヨーロッパ流を重視するあまり、日本の気候に合わない建築にしてしまったんではないでしょうか。
石造りなのはまあいいにしても、迎賓館の構造を見る限り、いかにも夏は暑く冬は寒そうな感じがしますし。今のようなエアコンがなかった明治~大正時代や、戦後の生活難の時期はいかにも住みにくく思えそうです。
徒然草にも「家は夏の住みやすさを考えて作るべし」って書いてありますし。
政府インターネットテレビ(こちらからご覧になれます)で内部を見る通り、とても綺麗なんですけどね。全体的には西洋建築ですが、所々に菊の御紋や東洋的な装飾が入ってますし、片山が日本文化をないがしろにしていたわけではないんですが。
他に彼の手がけた建築物としては、東京国立博物館の表慶館(門から入って左側の建物)や、京都国立博物館などがあります。
写真を並べてみると、何となく同じ人の作品っぽい感じがします。
片山の建築物は、人が日常的に住む場所よりも、博物館や図書館のように大規模な公共施設のほうが向いていたのかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
片山東熊/Wikipedia
近代建築寫眞館
港区ゆかりの人物データベース
迎賓館/Wikipedia