幕末・維新

泣く泣く将軍に嫁いだ皇女・和宮|死後に明かされた“写真の男性”は誰か

2026/02/10

文久二年2月11日(1862年3月11日)は和宮と14代将軍・徳川家茂の婚儀が江戸城で行われた日です。

幕末の朝幕関係に大きな影響を与えた婚儀であり、彼女が泣く泣く降嫁(こうか)したことでも知られますが、結婚後は次第に家茂の人柄に惹かれていったとも伝わります。

実際はどうだったのか?

和宮の生涯を振り返ってみましょう。

※”和宮”は幼名であり成人後は”親子内親王”、家茂が亡くなってからは”静寛院宮(せいかんいんのみや)”となりますが、本記事は”和宮”で統一

 

父帝の顔を知らない皇女

和宮は弘化3年(1846年)閏5月10日、仁孝天皇の第八皇女として生まれました。

高貴な身分かつ激動の時代に生まれた人にはよくある話で、和宮は生誕時からハードな人生の始まり。

生まれる直前に父・仁孝天皇が崩御してしまったのです。

もちろん血縁関係に疑いはなく、その後は母・橋本経子(つねこ)の実家で、祖父・橋本実久、伯父・実麗(さねあきら)たちの庇護を受けて育ちます。

そして嘉永四年(1851年)7月、兄・孝明天皇の命により、まずは有栖川宮熾仁親王との婚約に至りました。

二人は10歳以上離れていましたが、当時としては珍しくない年齢差でしょう。

問題は、時勢です。

ときは幕末。

諸外国との情勢悪化で江戸幕府の立場が揺らいでおり、威信回復のため大老・井伊直弼の側近である長野主膳らが考えたのが、十四代将軍・徳川家茂に皇室の正室を迎えるという作戦でした。

 


井伊直弼の死で幕府はさらに強硬に

皇族から幕府への降嫁例は、それまでどうだったのか?

というと、全てが「親王の娘など天皇の三親等にあたる皇族女性」つまり“女王”でした。

天皇の娘である“内親王”が嫁ぐ前例はなく、過去の室町幕府や鎌倉幕府を振り返ってみてもそれは同様。

前例がないと途端に窮屈となるのが朝廷であり、調整は長引き、そうこうしているうちに万延元年(1860年)3月、桜田門外の変が起きてしまい、井伊直弼が暗殺されてしまいます。

この未曾有のテロが幕府に与えた影響は強烈です。

なんせ幕府のトップが殺されているのであり、さらなる威信の低下は避けられず、幕府は内親王の降嫁を強硬に主張するようになりました。

ところが、この時点で年の釣り合う内親王は和宮しかいません。

ときの帝・孝明天皇にとっては異母妹ながら和宮に対しての情があったようで「有栖川宮熾仁親王と婚約していること」「内親王を関東に行かせるのは忍びないこと」などを理由に断り続けます。

孝明天皇の肖像画

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikimedia commons

すると、交渉が難航する中で、岩倉具視が「いくつか条件をつけてはいかがでしょう?」という提案をするのでした。

条件とは以下の通り。

・嘉永七年(1854年)にアメリカと締結した日米和親条約を破棄し、鎖国体制へ戻すこと

・和宮に関東での暮らしに関する希望を聞き、幕府はそれを遵守すること

関東での暮らし向きは応えようがあるものの、国際化の波は抗い難く、今さら条約を破棄することなどできません。

それでも幕府は条件を呑み、降嫁の準備が進められていきます。

 

降嫁しなければ出家

一方、当の和宮は将軍家への降嫁は受け入れがたく、孝明天皇に直談判すると、こんな返答がかえってきました。

「もう幕府には降嫁を許可してしまった。お前が拒否しつづけるというなら、私の娘を降嫁させなければならない。その場合はお前には出家してもらう」

この”孝明天皇の娘”というのは、当時、生後一年程度の寿万宮という方。

万延二年=文久元年(1861年)に亡くなってしまいます。

むろん、この時点で亡くなることなどわかりませんが、仮に和宮が拒否し続けても、いずれ降嫁問題は再発していたでしょう。

結果、和宮は嫌々ながらに降嫁を承諾し、以下の条件が出されました。

①御所から女官を連れて行くこと

②大奥でも京都と同じように生活できるよう取り計らわせること

③何かあれば伯父の橋本実麗(はしもとさねあきら)に来てもらうこと

④弔いのため、毎年上洛できるように計らうこと

どうしても降嫁を実現したかった幕閣はこれも受け入れますが、主に①と②の日常生活に関することで大揉めに揉めていくことになります。

現代社会に置き換えますと、営業が無茶なスケジュールで受注し、現場が困るようなパターンでしょうか。

朝廷の人々にとって関東は“東夷がのさばる土地”という認識です。

まして内親王ともなればなおのこと。なにせそれまでの歴史で、武家へ嫁ぐどころか、関東の地を踏んだ内親王はおりません。

和宮が京都出発に際して詠んだ歌は、それはそれは悲壮感に満ちています。

◆落ちて行く 身と知りながら もみぢ葉の 人なつかしく こがれこそすれ ※降嫁の際に詠んだ歌

 

和宮にとっては意外だった優しき将軍

すったもんだの末、和宮一行が京都を出立したのは文久元年(1861年)10月20日のこと。

江戸への到着は11月で、大奥には12月に入りますが、婚儀の形式などでまた散々に揉め、実際に婚儀が行われたのが翌文久二年(1862年)2月11日というわけです。

その間の1月15日には、無茶な尊王攘夷派によって老中・安藤信正の襲撃事件が発生しており、幕閣の混乱を招いたため婚儀も遅れたのかと思われます。

幸いにして信正は命を取り留めるも、「背中の傷は武士の恥である」という屁理屈で老中をクビになってしまいました。

信正は、この事件直後にイギリス公使ラザフォード・オールコックと会見するという豪胆ぶりを見せており、むしろ天晴な責任感を見せているのですけどね。

当時の攘夷や暗殺事件は、本当に国益を損なうテロとしか言いようがありません。

かように江戸幕府の表側は騒々しい状況でしたが、和宮の近辺もなかなかのものでした。

生活様式についての取り決めが守られていなかったとか、姑にあたる天璋院(篤姫)との序列でもめたとか、和宮の女官と天璋院の側仕えたちの間で女同士の諍いが絶えなかったとか、同時代が舞台のドラマでよく描写される揉め事が絶えません。

肝心要の和宮と徳川家茂の関係はどうだったのか?

徳川家茂の肖像画

徳川家茂/wikimedia commons

 

というと、意外にも「円満だった」という説があります。

歴代の徳川将軍は、”正室は格式上必要なだけで、ほとんど会わない”という人も珍しくなかった中、家茂は和宮へたびたび贈り物をしたり手紙を書いています。

「できるだけ夫婦らしくしたい」

そんな行動が記録されているのです。

現代の夫婦のように、いつも同じところで寝起きしているわけではないので、非常に優しい心遣いではないでしょうか。

たとえ将軍でも和宮にしてみれば「賤しい武家の者」ですから、家茂も、まずは知性と穏やかさを理解してもらおうと思ったのかもしれません。なんだかロマンチックな空気がうかがえますね。

そのうち和宮のほうも「上様は武家の方だけれど、素敵な方かも」と思うようになったのか、少しずつ態度を和らげていったようです。

しかし、そのまま幸せにはなれませんでした。

 


身体が弱い家茂が何度も上洛させられ……

なぜ幸せになれなかったのか?

というと不幸にも徳川家茂が21(数え歳)の若さで亡くなってしまったからです。

数多の幕臣から「最後の将軍」として崇敬されていた家茂。

早すぎる死の経緯を端的にまとめると以下の通りです。

①「公武合体なんてとんでもない! 攘夷しましょうぜ!」という強硬姿勢で政治から排除された長州藩

②長州藩、政治に戻るために「会津の松平容保をやっちまえ」と京都市街を巻き込んで戦闘

③戦闘の最中、よりによって御所へ発砲したため、朝廷から「お前らは天皇の敵だ!」と名指しされる(禁門の変=蛤御門の変)

④「長州をやっつけてこい!」という命令が幕府に下り、家茂が軍を率いて上洛

⑤持病の脚気が悪化して家茂は大坂城で死去

まだまだ若かった家茂が出征中に亡くなったのは完全に想定外であり、幕府も、朝廷も、大奥も、誰もが皆、大慌て。

江戸を出るときには元気でしたが、脚気衝心(=脚気による心不全)が直接の死因だったらしいので、一気に悪化した可能性が考えられます。

長州藩が京都で暴れる幕末の重圧で、健康に気を遣う余裕もなかったのでしょう。

将軍になってわずか8年、和宮と結婚してから4年でした。

しかもこの間に家茂は3回上洛しているので、移動期間を別とすると、二人が一緒に江戸で過ごした時間はもっと短くなります。

そうした状況を考えると、彼らのエピソードは仲の良さを表すものばかり。

夫婦生活があと数年あったとしたら、おそらく子供にも恵まれていたことでしょう。

そう思わされる有名なエピソードが「空蝉の袈裟」です。

 

死後に夫からの西陣織が届いた

徳川家茂は最後の上洛前、和宮とこんな会話がありました。

「京都に行くから、あなたの好きなものを土産にしたいと思う。何がいいですか」

「では、西陣織をお願いいたします」

すると後日、家茂の訃報や遺品と共に、西陣織の着物も届いたというのです。

家茂だって仕事で行くのですから、そうぶらつくこともできません。

実際に買い物したのが家臣の誰かだとしても、家茂はきちんと約束を守ったのです。

これを見て和宮は歌を詠みました。

◆空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ

【意訳】お約束どおりに西陣織を届けてくれたのは嬉しいけれど、この綺麗な着物も、貴方がいなければ何の意味があるというのでしょうか。

◆三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを

【意訳】立場や影響のしがらみがなければ、あなたのお供をして三途の川を渡りたい。

なんとも哀しい二首で……。

家茂のことを大切に思っていたことが非常に伝わってきます。

件の西陣織は、その後、増上寺に奉納され、袈裟に仕立て直され、上記の和歌にちなんで”空蝉の袈裟”と呼ばれるようになったとか。

増上寺は将軍家の墓所ですので、和宮は着物を奉納することにより、少しでも家茂のそばにいる気持ちになりたかったのでしょう。切ない……。

 


徳川の存続に助力

本来なら、すぐにでも京都へ戻りたいであろう和宮は、その後、しばらく江戸城にとどまります。

家茂の葬儀後は髪を落とし、出家して”静寛院宮”と名乗りました。

その後は夫の残したものを守ることが供養になると思ったのか。

かつては不仲だった天璋院と共に幕府や大奥を守るために動いていますが、家茂の遺言に全て盲目的に従ったわけではありません。

家茂は御三卿のひとつ・田安家の亀之助(後の徳川宗家十六代・徳川家達)に跡を継がせるよう言い遺していました。

和宮は「この困難の中で、まだ幼い亀之助に将軍を継がせることは現実的ではない」として、家茂とは敵対していた一橋家の慶喜を推しています。

結果、慶喜が江戸幕府最後の将軍となるわけで。

その後の展開、和宮は予想すらつかなかったはず。

いざ鳥羽・伏見の戦いが始まると、その直後、総大将である徳川慶喜がのこのこと大坂から江戸へ逃げ戻ってきてしまったのです。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikimedia commons

維新側にしてみれば笑いが止まらなかったでしょう。

一方、江戸にいた幕閣や、和宮を含めた大奥の面々は悲嘆に暮れるばかり。

しかし慶喜を守ることが江戸城と江戸市民を守ることにもなると考え、和宮も嫌々ながら慶喜の助命嘆願に動きます。

彼女は侍女の土御門藤子を京都に遣わし、天璋院は実家(養家)の薩摩藩に使者を送りました。

慶喜本人も江戸城を出て謹慎する態度を見せたことで、何とか江戸や江戸城は守られました。

とはいえ、佐幕派の面々によって新政府軍との戦いは続き、上野戦争や市川・船橋戦争などが起きているので、”江戸無血開城”は本当に江戸城近辺だけの話に限られます。

その辺は和宮とは関係が薄い話題になってきますので、ここまでにしておきましょう。

👉️詳細は別記事「逃げてきた慶喜に対し和宮が嫌々ながらも協力したこと

 

脚気衝心により享年31で

江戸城が新政府軍に明け渡された後、和宮は御三卿のひとつ・清水家の邸へ移ります。

これは本当に仮住まいで、徳川宗家が父祖の地・駿河へ移されるのを見届けた後、和宮は明治二年(1869年)2月に京都へ帰りました。

そのまま5年ほどは京都にいましたが、明治七年(1874年)7月に”東京”へ戻ります。

心境もだいぶ変わっていたようで、天璋院や勝海舟などと交流していたとか。

「天璋院と和宮が”私がやります”とゴハンをよそおうとして、勝海舟がしゃもじをふたつ用意し、互いによそった」

そんなエピソードが、大河ドラマ『天璋院篤姫』でも語られていましたね。

これは完全に想像ですが、もしかすると家茂の夢でも見て「徳川家の人々や旧臣たちと仲良くしてほしい」とでも言われたのかもしれません。

江戸に戻ったからには増上寺へ墓参もして、そのまま東京で暮らすつもりだったのでしょう。

和宮が東京に来た頃には奠都も終わり、明治天皇をはじめとした皇室・貴族の人々の多くが移ってきていました。心理的には非常に楽だったはずです。

しかし、明治十年(1877年)8月になると和宮は体調を崩してしまいます。

当時”貴人の病”とされていた持病の脚気が悪化したためです。

脚気にはビタミンB1の補充が効果的なのですが、この時代にはまだそこまで解明されていません。

そのため和宮は湯治で対処しようとし、箱根の塔之沢温泉に逗留します。当時、この温泉が脚気に効くと信じられていたためです。

残念ながらそれは効能ではなく願望であり、和宮の脚気が治ることはありませんでした。

湯治に来て一ヶ月ほど後、9月2日に和宮は脚気衝心(脚気が進行すると発生する心不全)を起こし、世を去りました。

享年31。

奇しくも徳川家茂と同じ死因となりますね。

「家茂の側に葬ってほしい」という遺言通り、葬儀も将軍家と同じ仏式で執り行われ、希望通り家茂の隣にお墓が作られました。

皇族には戒名をつけないのが習わしですが、和宮には「好誉和順貞恭大姉」という戒名がつけられています。

七周忌のときに和宮の品位が一品に引き上げられたため、現在では「静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」です。

ちなみに家茂の戒名は「昭徳院殿光蓮社澤譽道雅大居士」。

「譽」は誉の異体字なので、家茂の戒名から一文字取ったのかもしれませんね。

この字には「誉れ」や「良い評判」といった良い意味があるため、戒名にふさわしい意味というだけで選ばれた可能性もありますが、偶然ではないと思ってしまいます。

 


棺に収められていた写真の男性は?

時は流れ、戦後の1950年代――増上寺の徳川家墓所が、近隣再開発のため移転されることになりました。

この機会に、歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査の実施が決定。

皇族のお墓は基本的に発掘許可が降りませんが、増上寺は徳川家の菩提寺であるため、例外的に和宮のお墓も認められたようです。

いざ墓を開けてみると、和宮の遺骸は一枚の写真を抱くようにして葬られていました。

写真に映っていたのは「烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)、長袴を身に着けた童顔の若い男性」だったとか。

残念ながら、その後の取り扱いがマズく、写真は現存していません。

太陽光で画像が消えてしまったそうです。

検証する間もなく消えてしまったため、この人物が誰だったのかは今も謎のまま。

婚約者だった有栖川宮熾仁親王か?

実際に夫婦となった徳川家茂か?

烏帽子はともかく、直垂と長袴は武家の衣装であり、親王ともあろう方が、遥かに格下である武家の衣装を着る理由はありません。

しかも、当時貴重だった写真を撮れるような身分の人で、和宮がずっと持っていたとなると……それはもう、家茂しか当てはまらない。

写真に関する他の記録などが見つかるまで確定はできませんが、もうこのロマンは真実を突き止めるような無粋な真似も不要ではないでしょうか。

東京都港区芝公園の増上寺にある家茂夫人の宝塔/wikimedia commons


参考書籍

河合敦『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか』(2021年9月 扶桑社)
国史大辞典(吉川弘文館)
日本大百科全書(小学館)
日本人名大辞典(講談社)

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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