大河ドラマ『青天を衝け』で注目度の上がっているのが孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)。
14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁(こうか)した皇女で、大河ドラマ『篤姫』では堀北真希さんが演じておりましたね。
家茂が亡くなってからは「静寛院宮(せいかんいんのみや)」というお名前でしたが、以下、和宮で統一します。
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和宮は幕府と朝廷のために嫁いだ
和宮は【幕府と朝廷の橋渡し】として徳川家に嫁ぎました。
実は彼女はその前に、皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのですが、兄である孝明天皇の説得により、泣く泣く降嫁を受け入れたという経緯があります。
このときの孝明天皇、なかなかスゴイことを言っています。
「お前が嫌って言うなら仕方ないけど、お前以外だと去年生まれたばかりの私の娘を嫁がせないといけない。幕府がそれでいいって言えばそうするし、もしダメってことになったら私は責任を取って譲位する。お前も尼になってもらわないと筋が通らない」
要は
・出家するか?
・嫁ぐか?
という究極の二択を迫られていたのです。
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既に日米修好通商条約は結ばれており、その許可と引き換えに攘夷を約束させた孝明天皇。
どうしても和宮に嫁いでもらわなければなりません。
天皇にとっても「譲位」か「攘夷」かの二択中だったのですね。
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皇室という尊い血筋と環境で育った和宮にとって、将軍とはいえ武家に嫁ぐのは本当に嫌だったのでしょう。
自分で直接宮廷へ行って拒否していたくらいですからね。
「日本のためですから、嫁ぐのは仕方ありません。でも、江戸に行ったからといって生活習慣を変えるのは嫌です」
そう言って、色んな条件を出しています。
御所から女官を連れて行くことや、何かあれば伯父の橋本実麗(はしもとさねあきら)に来てもらうなど、幕府に認めさせています。
和宮にとっては意外だった優しき将軍
さて、こうしてイヤイヤながらに嫁いだ和宮。
意外にも【夫婦仲は円満だったのではないか?】とも言われています。
徳川家茂は「オレは将軍様だ!」というタイプの人ではなく、とても優しい方でした。
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江戸時代も何百年もたつと、当時の殿様の写真を見れば分かるように、すっかり「公家」化していたんですね。
和宮の出した条件を全て呑み込んだばかりか、それ以外にも非常に気を使っていたエピソードが伝わっています。
歴代の将軍は、結婚後、正室とほとんど会わないという人もいましたが、家茂はたびたび贈り物をしたり手紙を書いて、できるだけ夫婦らしくいたいという気持ちを示したのです。
現代の夫婦のようにいつも同じところで寝起きしているわけではないですから、それも立派な心遣い。
なんだか源氏物語のような話で、とてもロマンチックですね。
身体が弱い家持が何度も上洛させられて
しかし、です。
不幸にも家茂は、21歳(数え歳)という若さで亡くなってしまいます。
ここらの事情はちょっとややこしいのですが、簡単にまとめるとこんな感じです。
「公武合体なんてとんでもない! 攘夷しましょうぜ!」と言ったら政治からハブられた長州藩の人々
↓
「会津の松平容保とかやっつければうまくいくんじゃね?」と京都市街を巻き込んで戦闘
↓
よりによって御所に発砲したため、朝廷から『お前ら長州藩は天皇の敵だ!』と断定される(禁門の変=蛤御門の変)
↓
将軍と幕府に『長州をやっつけてこい!』という命令が下り、家茂が軍を率いて上洛
というわけで家茂は上洛していたのですが、元々体調に不安があったタイプで、上洛絡みのストレスが悪化したのか、大坂城で息を引き取ってしまうのです。
これには、幕府も、朝廷も、大奥も、大慌て。
江戸を出るときには元気だったそうですし、将軍になってわずか8年、和宮と結婚してから4年でした。
家茂は3回上洛しているので、その期間を別とすると、二人一緒に江戸で過ごしたのはもっと短くなります。
そうした状況を考えると、彼らのエピソードは仲の良さを表すものばかりです。
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