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【和宮】
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死後に夫からの西陣織が届いた
例えば、京のお土産の話。
お土産について、こんな会話をしていたと伝わります。
「京都に行くから、あなたの好きなものを土産にしたいと思う。何がいいですか」
「では、西陣織をお願いいたします」
彼女がそう答えたところ、後日、家茂の訃報や遺品と共に、西陣織も届いたのです。
家茂だって仕事で行くのですから、そうそうぶらつくこともできません。
実際に買い物したのが家臣の誰かだとしても家茂はきちんと約束を守ったのです。
これを見て和宮は歌を詠みました。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
【訳】西陣織を届けてくれたのはうれしいけれど、この綺麗な着物も、貴方がいなければ何の意味があるでしょう
「三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを」
【訳】立場や影響のしがらみがなければ、あなたのお供をして三途の川を渡りたい
うぅ……泣かせますね。
和宮も家茂のことを大切に思っていたことが非常によくわかります。
西陣織は、その後、増上寺に奉納され、袈裟として生まれ変わりました。
増上寺は将軍家の墓所ですから、家茂もここに眠ることになると見越して「この着物を私だと思ってください」という気持ちでいたのかもしれません。
そして家茂の逝去から11年後。
和宮も31歳の若さで世を去ります。遺言は「家茂の側に葬ってほしい」というものでした。
時間が経っても、夫のことを健気に思い続けていたのでしょう。
このため、葬儀も将軍家と同じ仏式で執り行われ、和宮の希望通り家茂の隣にお墓が作られました。
写真の男性は、烏帽子と直垂を身に着けていた
時は流れ、1950年代ごろのこと。
増上寺の徳川家墓所が再開発のため移転されることになり、歴代将軍家に連なる人々の遺骨調査が行われました。
当然、和宮のお墓も含まれています。
墓を調査すると、和宮は一枚の写真を抱くようにして葬られておりました。
写真に映っていたのは烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)を身に着けた若い男性だったとか。
しかし残念ながら、その後の取り扱いが悪かったため、この写真は現存していません。
太陽光で画像が消えてしまったそうです。
検証する間もなく消えてしまったため、この人物が誰だったのかは今も謎のままなんですが……烏帽子はともかく、直垂は武家の衣装ですよね。
しかも当時貴重だった写真を撮れるような身分の人で、和宮がずっと持っていた……それはもう家茂しかないであろう、と。
若くして政争に巻き込まれ、夭折した二人。
天国で幸せに過ごしていることをお祈りします。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon)