西郷隆盛と言えば、鷹揚にして些事にこだわらず、ともすれば平和的な人物に見えます。
しかし、それはあくまでピースフルな「上野の西郷さん(銅像)」のイメージ。
史実においては武力倒幕を進めたのが西郷本人であり、かなり好戦的な性格の方でした。
岩倉具視や、他ならぬ薩摩藩でも内戦を回避した倒幕を模索していたのに、強引に推し進めたのは他ならぬ西郷だったのです。
徳川方を徹底して潰すため戊辰戦争が勃発。
慶応4年(1868年)1月3日に始まった不毛な内戦は約1年半続き、明治2年(1869年)5月18日に終結しました。
結果、どのような被害が全国に広まってしまったのか?
本稿は、悲惨な目に遭わされた民と戊辰戦争のリアルに着目して、歴史を振り返ってみたいと思います。
※以下は武力倒幕の関連記事となります
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なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めたのか?岩倉や薩摩藩は“下策”として反対だった
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明治維新は無血革命のアヤフヤ
明治新政府は海外でも
明治維新は「無血革命」に近いものである
と喧伝しました。
確かにフランス革命あたりからすれば、流血は少ないかもしれません。
フランス革命でのルイ16世とマリー・アントワネットのように、徳川慶喜あたりを斬首するようなことはありませんでした(ただしこれは海外の介入あってのもの)。

ルイ16世とマリー・アントワネット/wikipediaより引用
確かに江戸城は、無血開城です。
しかし、明治維新は、そこで終わりではありません。
戊辰戦争――。
多数の犠牲者が出て、多くの血が流れたことを無視していては、後世でその悲劇が顧みられることもないでしょう。
東日本を進む西軍は、以下のような行いもしておりました。
・民を軍夫として徴発
・敵軍を誘い出すために、家屋に放火
・食料を徴発
・性的暴行の横行
・民を拷問や殺害
もちろん西軍だけが極悪だ――というワケではなく、こうした対応は東西両軍あります。
藩によっても異なるのが実情ですが、民が犠牲となったのは事実。
「一体、これのどこが無血革命なのか?」
そう問われて然るべき惨状でした。

戊辰戦争進軍の流れ/photo by Hoodinski wikipediaより引用
戦争後も不平士族の反乱や、明治新政府の首脳暗殺など、明治20年代までゴタゴタは続いております。
そもそも、少し遡った幕末期にしても、以下のような血に染まっていた日本列島です。
・天誅事件
・安政の大獄
・桜田門外の変
・薩英戦争
・禁門の変
こうした血だらけの場面を、例えば大河ドラマで流して欲しい、とは申し上げません。
しかし、2018年『西郷どん』では、あたかも【無血で「民」を救ってきた】かのような描き方であり、かなりの違和感を抱いたものです。
無血革命どころじゃない内実をおさらいしよう
江戸時代、合戦に従事する階層は武士だけに限られました。
しかし江戸も後期になりますと、関東では一揆の登場により百姓まで武装した結果、新選組や相楽総三を生み出すほどの治安悪化が生じております。
幕末の関東は、こうした治安悪化の影響もあり、リアル『北斗の拳』状態となってしまったんですね。
江戸幕府の崩壊前夜、幕末となると関東以外の民にまで、影響が及んでいました。
全国各地で「攘夷事件」というテロや天誅事件が続発。
長州においては【下関戦争】や【長州征伐】もありました。薩摩も、イギリスとの薩英戦争で犠牲者が出ています。

薩英戦争で鹿児島に押し寄せるイギリスの軍艦/wikipediaより引用
こういう戦いは、敵の関係者や武士だけを狙ったにとどまらず、たまたまそこにいた人まで襲撃される、大変な不幸なものでした。
そして、これを幕府の責任だったとした大河ドラマ『西郷どん』からはほど遠く、薩摩や長州の、無茶な攘夷への報復行為として起こった事例もあるわけです。
次項では、生活の場が戦場となった民たちの悲劇を具体的に見ていきましょう。
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