阿閉貞征が、織田家に降ったことを契機に再燃した、浅井朝倉と織田の決戦。
浅井の本拠地・小谷城を囲んだ織田軍は、援軍にやってきた朝倉軍に対して夜襲を仕掛けて恐怖心を抱かせ、越前へと退却させます。
これをチャンス――と捉えた信長は、朝倉義景の後を追って本拠地へと迫るのですが……追い詰められた義景に引導を渡したのは意外な人物でした。
進退窮まった義景に腹を切らせのは
朝倉家に、義景のいとこである朝倉景鏡(かげあきら)という人がいました。
義景はお気に入りの側室と、彼女との間に生まれた息子を早くに亡くし、それから軍事や政務への意欲を失ったと言われており、その後、朝倉軍の総大将としてたびたび出陣していたのが、この景鏡。
血筋的にも実力的にも、朝倉氏の重鎮といえる人です。
織田軍に追われ、ついに進退窮まった朝倉義景に腹を切らせのは、この朝倉景鏡でした。
戦国のならいとはいえ、敗戦した大名の最期は多くが虚しいものです。
介錯は家臣の鳥居景近、高橋景業(かげあきら)が務め、彼らも主の絶命を見届けた後に殉死したとか。
かくして戦国大名としての朝倉氏は終焉を迎えました。
義景の首を持ち 景鏡がやってきた
8月24日、景鏡が義景の首を持って、府中竜門寺の信長本陣へ挨拶に来ました。
織田方でも、景鏡の立場はよく知っています。
太田牛一も「景鏡のような親族かつ重鎮である人物がこのようなことをするのは、前代未聞のことである」と書いているほどです。
他の武将や兵の反応は書かれていませんが、少なからず動揺したでしょうね。
この後、『信長は義景の母・光徳院と、嫡男・阿君丸(くまぎみまる)を探し出し、丹羽長秀に殺害させた』とあるのですが……。
阿君丸はこれより5年ほど前に亡くなっていますので、これは著者である太田牛一の誤記でしょう。
このとき捕まったのは阿君丸の異母弟・愛王丸かと思われます。
『義景の母と息子は、景鏡が連れてきた』という説もあります。
いずれにせよ、見つかるまで時間はかからなかったのでしょう。
義景の正室は死別、継室は離別していました。
側室についてはこれまた説が分かれていて、愛王丸の母・小少将(こしょうしょう)が同じく捕まって処刑されたという話もあります。
ひとまず越前の後処理を任せ、浅井攻撃へ
朝倉氏敗北の報は、早いうちに周辺地域に伝わりました。
同氏に従っていた越前の地侍たちが、信長に味方するため、我先にと竜門寺へやってきて挨拶をしていきます。
そのため、寺の門前はごった返していたとか。
義景の首は、信長の命で長谷川宗仁が京都へ持っていき、獄門にしたといいます。
”獄門”というのは、台の上に首を載せて晒し者にすることです。
「梟首(きょうしゅ)」「晒し首」などともいい、平安時代からあったもので、かの平将門が記録上最古の例です。
江戸時代には刑罰の一つとして制度化され、”打ち首獄門”とも称されるようになりました。
こちらの言い方のほうが有名ですね。
朝倉氏を滅亡に追いやったことで越前平定は済み、残るは、浅井氏や近江の始末。
信長は取り急ぎ、越前の基本的な法律を決め、守護代として前波吉継を置くにとどめました。
そして8月26日には織田軍は北近江・虎御前山へ凱旋し、返す刀で浅井氏との決着へ進むのでした。
あわせて読みたい
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)