2024年パリ五輪において、実に92年ぶりのメダルを取ったとして、一躍、注目された種目がありました。
馬術です。
以下は読売新聞の記事であり、そこに記されている「バロン西」こそ、馬術で初めて金メダルを取った日本人。
◆初老ジャパンが「バロン西」以来馬術92年ぶりメダル…「馬の状態不良」で競技前に減点なんの(→link)
本名は西竹一(たけいち)といい、馬を愛し、馬に愛された金メダリストは昭和20年(1945年)3月22日に42歳で亡くなりました。
昭和20年の3月といえば、まだ終戦を迎えてない時期。
42歳の若さで亡くなったのは、西も戦地へ出向いていたからです。
この西は、バロン西とも呼ばれ、世界の社交界でも愛された人物でした。
最期はあまりにも悲劇的だった……西竹一の生涯を振り返ってみましょう。

西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス・ロス五輪競技中の一枚/wikipediaより引用
庶子から男爵家後継者に
男爵の西家――。
そのルーツをたどると、薩摩藩に至ります。
弘化4年(1847年)、西徳二郎は薩摩藩の下級藩士として生まれました。

西徳二郎/wikipediaより引用
明治維新後、薩摩出身の若者は多数留学することとなります。
徳二郎も、明治3年(1870年)、日本を離れました。
留学先で遊び惚けてしまい、帰国をする羽目になる若者も多い中、徳二郎は違いました。彼はロシア・ペテルブルク大学で真面目に学んだのです。
勉学だけではなく、ピアノや洋画も身につけた才人でした。
薩摩閥の外交官として、ロシア対策が重視される中、徳二郎は順調に出世を遂げ、男爵位も授けられます。外交官として立ち回りも巧みであり、巨万の富を蓄えることにも成功しています。
順調な生涯を送っていた徳二郎ですが、望んでも手に入らないものがありました。
それは、男爵の位を継ぐことになる嫡男です。
一人目の妻・恵多は長男・佐一を産むものの、夭折。
そのあと妊娠したものの、流産し妻までも亡くしてしまいました。
二人目の妻・峰が産んだ二男・幸熊は、14歳で他界。
峰との間には女児しかおりませんでした。
西家に仕えていた女中で、実家に戻された者がおりました。
彼女はそのとき、徳二郎との間の子を妊娠していたのです。
明治35年(1902年)、出産を控えた彼女は、夏に生まれる予定の子を、一人で育てる決意を固めておりました。
しかし、このことを聞きつけた徳二郎はそうはさせません。母子ごと引き取ったのでした。出産後、母だけが実家に戻されたのです。
このとき徳二郎は56歳。
再度男児を得る可能性は低いと悟っていたのでしょう。
徳二郎は、峰との間に生まれた三男として、この男児を扱うことにしたのです。
竹のようにすくすく真っ直ぐに育って欲しいという願いと、長男として扱う思いを込め、男児は「竹一」と名付けられました。
このとき、峰は身籠もっていました。
もしその子が男児であれば、庶子である竹一を逆転できるはずでした。
しかし生まれてきたのは、女児であったのです。
こうした複雑な事情の中、庶子である男児が男爵家の後継者となったのでした。
竹一が満十歳の時、父が死去。
幼い身ながら、伯爵家を背負って立つ身となったのです。
長者番付にもランクインするほどの財産、広々とした屋敷、別荘。そんなものが少年のものとなったのです。
西は金銭感覚が常人離れしたところがあり、パーッと惜しみなく使う性質でした。
硫黄島にまで大金を持ち込み、一体それをどうするつもりかと問われると、俺にもわからないと答えたそうです。大金を持ち歩く習慣が身についていたのでしょう。
男爵となった西は、重圧もものともしない、やんちゃ坊主でした。
その一方で、義母の冷たい目線もあったせいか、明るいようでどこか孤独で、一人で遊ぶことに熱中する性質も持ち合わせていたのです。
15歳のとき、異母姉が結婚し、義母も亡くなります。
男爵家に一人だけ、西は残されたのです。家庭というものがどんなものかすらわからない、そんな少年でした。
生んだきり我が子と会うことのなかった彼の実母は、我が子に手紙を書き続けました。
27歳のとき、西は、実母と再会を果たします。
しかし、西は涙すら流れて来ません。
どうにも目の前の人が実の母だという気持ちがわかず、再会は一度きりのものとなりました。
馬との出会い
外交官の父のもと誕生した西は、父と同じ道に進むものと思われておりました。
学習院幼稚園、学習院初等科へと進学。
大正4年(1915年)には、父と同じ道を歩むべく、現・日比谷高校に入学したのです。
それが大正6年(1917年)、広島陸軍地方幼年学校へと進むことになるのです。
西の脳裏には、学習院院長であった乃木希典の教えがありました。
乃木は、華族の子弟は軍人になるべきだと教え諭していたのです。周囲から止められても、西は乃木先生の言葉だから軍人になると、聞き入れなかったのです。
かくして西は、同郷の陸軍元帥・上原勇作の推薦した広島陸軍地方幼年学校に入学しました。
西は天才肌で勉強しなくとも成績優秀。外交官の父ゆずりの社交性もありました。
しかしどこか孤独で、それでいてそのことを口には出来ないのです。
感情がたかぶると、まず手が出てしまう。そんな少年でした。
カメラ、空気銃、オートバイ。
一人で楽しむ趣味に、西は没頭しました。
カメラは自宅に暗室まで作ったほどであるとか。外交官の子らしい社交性だけではなく、孤独を好む本質が彼にはあったのです。
そんな彼は、乗馬と運命的な出会いを果たします。
幼年士官学校三年生の時、馬の写真を撮影しているうちに、どうしても乗ってみたくなったのです。
竹下範国陸軍少佐の元にいる馬に乗せて欲しいと、頼みこんだのでした。
しかし、馬というものは難しいもの。
乗り手が下手だとわかると、振り落としてしまいます。
それでも西は、ある日どうにかして乗ってしまったのです。
馬は駆け出し、彼は落馬してしまいます。しかも、陸軍士官学校から支給されていた短剣までねじ曲がってしまったのです。
これはもう、学校に届け出る他ありませんでした。
しかし、処罰はされません。
むしろ軍人として乗馬を学ぶことは結構なことだと、乗馬訓練の許可を得たのです。
人馬一体への道は、こうして始まりました。
やんちゃな士官学校時代
大正10年(1921年)、陸軍予科士官学校第36期生に入学します。
西は学問に励むだけではなく、遊ぶことも多い青年でした。
週末は新橋で大酒を飲み歩く、そんな姿がよく見られ、寄った勢いでヤクザ者と喧嘩になることもあったのだとか。
その年の夏、西は鎌倉の別荘でとある女性を見かけます。
川村伯爵家の令嬢である三姉妹のひとり、武子に恋心を抱いたのです。
とはいえ、相手もご令嬢です。
好意があろうと、先へは進むことがなかなか出来ません。
そうした恋が叶わぬ反動か、西はアメリカ製自動車「リバティー」を手に入れて走らせておりました。
あまりのスピード走行に警察も手を焼いて目を光らせます。
そこで西は、対策を練りました。麻生警察署の宿舎を警察にポンと寄付してしまったのです。
これ以降、六本木に逃げ込むと警察に追われなくなってしまったのでした。
西は予科士官学校卒業時、兵科を選択することとなります。
西は騎兵を選びます。
旧陸軍では「歩工砲騎」と言われていて、序列として騎兵が最下等という暗黙の了解がありました。それでも西は、騎兵を選んだのです。
騎兵第一連隊付生徒となった西は、思う存分乗馬が出来るようになりました。
西は、昼食の時以外は常に馬に乗っているかのような熱中ぶり。
士官候補生扱いのため学校には閉じこもりきりで、たまに彼が見せる外界への関心といえば、川村武子への恋心くらいでした。自慢の「リバティー」に三姉妹を乗せ、ドライブすることもあったとか。
士官学校を出たら、川村武子と結婚するのだと西は決意を固めました。
周囲も、大酒飲みでやんちゃな西の素行をおさえるためにも、それがよいと判断したのです。
いくつかの障害はあったものの、大正13年(1924年)の卒業後、彼は婚約しました。
卒業後、騎兵第一連隊に入った西は、結婚準備に奔走し、同年22歳で少尉になると、19歳の武子と結婚を果たします。
新婚初日、西はこう言い、新妻を唖然とさせました。
「さあ、晩飯だ。新橋へ食べに行こう」
家庭がどんなものか知らぬ西は、家で食事をすることがわかっていなかったのです。
自宅に芸者を呼んで武子とともにかくれんぼ遊びをすることもある、そんなどこか子供のような無邪気さがある青年でした。
西の私生活は華やかでした。
英会話が得意な西は、社交界でも外国人とスマートにつきあうことができました。
結婚して落ち着くどころか、新妻を残し、華やかなパーティに向かってしまう。
新橋から美人芸者を10人ほど呼んで大騒ぎをして、しかもそこへ妻にも顔を出させたこともあったほど。
どこかさっぱりとしていて、裏表がなく、派手な遊び方をする性格であったのです。
そんな調子ですから、妻は夫の金遣いの荒さに困ったこともあったとか。
残された西の妻宛の手紙には、モテ自慢をしているものも見られます。武子もこれには、苦笑したことでしょう。
この二人の夫婦仲は、悪かったわけではありません。
昭和2年(1927年)、西夫妻には長男・泰徳が誕生。
夫妻はこのほかに二女がおります。一男二女に恵まれたのです。
西はかんしゃくがあったのか、武子に対して怒鳴ることもありましたが、さっぱりとしていてあとには引きずりません。
心の通じ合う夫婦でした。
子供たちも父によくなつき、慕っていたようです。
人馬一体の男爵
騎兵隊に入った西は、乗馬技術を発揮することとなります。
「春海」と「福東」という二頭の馬を支給され、西は障害を習うことにしたのです。
代々木練兵場に向かい、石垣を馬で飛び越えてゆく西は、その無謀な勇気で噂となりました。
あるとき西は、「リバティ」から買い換えた愛車「クライスラー」を福東号で飛び越え、周囲を唖然とさせました。

車を飛び越える西/wikipediaより引用
失敗すれば、人馬ともに怪我は免れません。
福東は陸軍から支給されているのですから、骨折させて殺処分にでもなったら大問題になります。
それでも西は、やってのけたのです。
騎兵は目立ちたがり屋が多いとされておりましたが、その中でも西は際だっています。
馬具とブーツは特注のエルメス製、身につける軍服はオーダーメイドで、その美貌を際立たせるための工夫が凝らされていました。
落馬をものともせず挑む西の乗馬技術は、驚くべきものでした。
その強気な態度が生意気と思われることもありましたが、西は意に介することはありません。
馬に対しては厳しく、容赦なく鞭を入れました。
それでも負傷した際はつきそい、回復するまで見守ることもあったのです。
馬にもそうしたあたたかい心根が伝わったのか、西によくなついていたのだとか。
西は、人にも馬にも情愛深い性格であったのでしょう。兵士たちも、そんな西を慕ったのです。
陸軍騎兵学校の乗馬大会では、いきなり二位入賞を果たします。
その華麗な乗馬技術は、周囲からもう、
「他の作業はいいから、西は馬にだけ乗っていればよい」
と太鼓判を押されるほどのものになりました。
当時、馬術には三種類ありました。
人為馬術(ドイツ式)
自然馬術(イタリア式)
中庸馬術(フランス式)
しかし、西はこうした乗り方を習う以前に自己流をマスターしていたのです。
膝ではなく、たくましい大腿部(騎座)で馬を締め付ける。そんなやり方でした。
騎兵としては異端ではありますが、理にかなった手段です。現在は多くの障害騎手が、これと同じ乗り方をしているそうです。
西は175センチ、70キロ、脚が長く胴は短いという、日本人離れした体型でした。
薩摩出身者は、豚肉を食べていたせいか、幕末のころから長身の者が多い傾向がありました。西も父から、そんな血を受け継いだのかもしれません。
西は腰の幅が広く、脚がともかく長い。
しかも柔剣道有段という、高い運動能力の持ち主です。
全身がしなやかな筋肉質である西は、乗馬にはぴったりです。特別にあつらえた騎兵服で馬を乗りこなす西は、極めて目立つ存在でした。
騎手は馬の負担を軽くするため、小柄で体重が軽い方が向いているとされます。
ただし、障害競馬騎手の場合はある程度の身長があった方が向いているのです。
西の体型は、障害旗手として最高のものでした。
西竹一とウラヌス
昭和3年(1928年)、アムステルダム五輪馬術競技に、日本陸軍から4名が派遣されました。
陸軍内には東条英機中佐はじめ、費用対効果を疑問視する声もありましたが、世論のためにも参加することにしたのでした。
当時の西は、宿題を別の士官に代筆させて叱られることもある、そんな子供っぽいところもありました。
このときは叱られて素直に謝罪し、そのしおらしさが叱った側を感服させてしまったほどだとか。
それでも馬術の訓練については熱心で、たいしたものだと周囲から見られるようになっていました。
昭和5年(1930年)、ロサンゼルス五輪の馬術競技選手候補が選抜されました。
西はその中で最年少候補です。
そんな折、イタリアからこんな話が届きました。
「馬体が大きすぎて、持て余され、売りに出されている障害競技用のアングロノルマン馬がいる。血統書はないが、実力はありそうだ。名はウラヌス(天王星)だ」
西は、この馬の購入を決め、ヨーロッパまで購入に向かうことにしました。
まさにそれは運命の出会いとなるのです。
ヨーロッパに向かう船旅の中、西ははしゃいでいました。
軍務から解放され、七三分けにした美男です。当時の日本人は背広を着こなせず、ネクタイが曲がっているような者もおりました。
しかし西は、さっと着こなしておりました。
ヨーロッパへ向かう豪華客船上で、西はアメリカ人夫妻と意気投合します。
ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻でした。ハリウッドスターとして人気絶頂にあった二人です。

ダグラス・フェアバンクス/wikipediaより引用
フェアバンクスと西は、大親友と言えるほど意気投合しました。
夫妻が来日した際には、自宅に呼んで毎晩どんちゃん騒ぎを繰り広げたのだとか。

メアリー・ピックフォード/wikipediaより引用
イタリアにたどり着いた西は、まとまった現金を持参し、ウラヌスの元へと向かいます。
ウラヌスを見た西は、その181センチもある巨体に目を見張ります。
まれに見る、巨大な馬でした。
参考までに比べますと、サラブレッドは平均160-170センチ。
日本の戦国期の馬は、ポニーサイズの147センチ以下ほどのものがほとんどです。
ウラヌスの種であるアングロノルマンでも、平均は155-170センチ。
180センチ台となると、ばんえい競馬で知られるペルシュロン種等、かなり大型の種に限られております。
巨体であるとはいえ、障害競馬の馬としては理想的でした。
筋肉が発達していて、肩は理想的に傾斜しています。
栗毛で、頭部に白い星が入っておりました。
巨体に驚きながらも西は、果敢にまたがります。西にとって、これほど巨大な馬は初めてのこと。
西竹一とウラヌス――これぞまさに、運命の出会いでした。
家庭環境もあってか、名門の子息でありながら孤独なところがあった西。
実母と再会しても、涙すらこぼさなかった西。
わがままと言われるほど奔放ながら、周囲から理解されないと悩んでいた西。
そんな彼にとって、ウラヌスは特別でした。
「人にはなかなか理解されないが、ウラヌスは自分を理解してくれる」
西はそう語っていたほどです。
名騎手とは、馬がどれほど自分を理解してくれるのか語るもの。西竹一もそんな一人でした。
このあと、西はヨーロッパの馬術大会を制覇し続けます。
「バロン・ニシ」
「ウラヌス」
この二つの名が、ヨーロッパを駆け巡ることとなったのです。ウラヌスのもとの持ち主が、惜しんで買い戻そうとしたほどであるとか。
美男で人馬一体の西は、社交界でも大いにモテます。
西はそのことを武子への手紙にもさらりと書いてしまう、そんな裏表のない性格でした。
春から秋にかけてヨーロッパの馬術大会を制覇した西は、日本へと帰国します。
西は騎兵学校にウラヌスの飼育を依頼するのですが、ここで校長が激怒します。
「書類だけで頼みこむとは何事か! 本人が挨拶に出向いてこんか!」
これは無論表面上の理由でしょう。西の華やかな活躍に嫉妬混じりの反感を持つ者も、出始めていたのです。西が軍務ではなく馬術鍛錬にばかり打ち込むことへの反発もありました。
こうした憂鬱な状況を乗り越え、西は訓練に励む他ありません。
こうした状況の中で、西がウラヌスとだけは心が通じ合うと考えても、無理のないことであったかもしれません。
ウラヌスはあまりに力が強く、障害を落としてしまう癖がありました。
西はこの欠点を矯正するため、粘り強く取り組んだのです。
その方法は彼独自のもので、周囲の主流であったイタリア式馬術とは異なるものでした。
かくして西は、ロサンゼルス五輪馬術競技体表選手として、選抜されることとなります。
29歳の中尉は、最年少です。
誰の目から見ても、西が最も期待されていることは明らかでした。
それなのに、彼本人は武子にこう言ったのだとか。
「どうも俺は、お情けで選ばれたようだ」
本気なのか、照れ隠しなのか、ちょっとわかりませんね。
当時、日本の馬術はヨーロッパには歯が立たないと思われていました。
それでも、参加することに意義があると考えられていたのです。
彼は暗い世の輝きだった
西はこのあと、時代の寵児として喝采を浴びることとなります。
その背後にあった世界情勢において、対日感情が悪化していたという点も考えねばなりません。
昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)柳条湖事件
そしてロサンゼルス五輪の昭和7年(1932年)には、第一次上海事変、ついに満州国建国にまで至っているのです。
国際連盟は、リットン調査団派遣を決定。満州事変や満州国の妥当性について調べ始めているのです。
国際的に、日本への目線が冷たくなっていました。
黄禍論も高まり、アメリカの日系人は辛い思いの中で生きていたのです。
そんな中でのバロン・ニシは、暗い影のつきまとう日本の像からはほど遠い人物でした。
長身のハンサム、洒落たファッション、明るく社交的。
流暢に英語を話し、ハリウッドスターたちとパーティを楽しむ、人馬一体の男爵――。
日本にも、こんな魅力的な紳士がいるのだと、世界はホッとしたのです。彼の前では、政治とスポーツを切り離すことができました。
しかし、運命は西をこのまま輝きの中に留めてはくれなかったのです。
ロサンゼルスのバロン・ニシ
昭和7年(1932年)のロサンゼルス五輪には、田畑政治率いる水泳選手団らも含めた日本人が参加しました。
現地では、日系アメリカ人も熱い目線を彼らに送っています。
そればかりではなく、大量の寄付金も準備し選手団を支えようとしました。
田畑政治が熱心に指導し、強くなりつつあった水泳競技の際には、プールサイドが大勢の日系人で埋まったほどです。
当時、アメリカでの対日感情は悪化しています。
満州侵略が不当とみなされていたのです。
そんな中、日系人たちは周囲の冷たい目線を感じながら生きてゆかざるを得ませんでした。
五輪で日本人に声援を送ることで、彼らはそうした憂鬱を忘れることができたのです。
日本と五輪の関係は、こうした日系人の協力を抜きにしては語れません。
そんな中、西は贅沢な浪費家であるにも関わらず、馬術選手団会計を任されていました。
それも彼の貴公子としての態度、華やかさゆえ。
彼は到着すると、気前よくタキシードを選手全員分注文しました。
西のポケットには、銀のボトル入りの高級ウイスキーが入っています。
当時は禁酒法の時代であり密造酒が飲まれておりましたが、西の口には合わなかったのです。
馬術選手の練習は午前中のみ。
午後になると、西は自動車で颯爽と出かけてしまいます。
ハンサムで颯爽とした西に、女性たちが熱い目線を送っておりました。
西の部屋には、ひっきりなしに女性から電話が掛かってきていたのです。
その中には、ハリウッド女優も含まれていましたし、西がその誘いを断るはずもありません。
西の遊び相手は、女優ばかりではありません。
他国の選手ともにこやかに交流するその姿は、ひときわ目立つものでした。
馬術とは、ヨーロッパ貴族の技芸であったもの。
現在でも、イギリスの競馬界では王族が馬主となり、着飾って観戦することもしばしばあります。
競馬場とは、貴族社交の場であるのです。
そういったヨーロッパ人からすると、日本の競馬場はあまりに庶民的で驚いてしまうほどだとか。
西は、こうしたヨーロッパ的な馬術の美意識にも合致しておりました。
騎手が華やかに遊んで何が悪いのか。
貴族的に社交界へ出入りしてこそ当然だという、そんなダンディーな美意識が、西にはぴったりとあてはまっていたのです。
流暢な英会話をこなす西は、こうした社交において何の障害もありません。
ハリウッドの名優たちとすら交流を重ねます。
友人であるダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードの夫妻とも、一年ぶりに再会を果たしたのでした。
派手好きの西は、ラスベガスのカジノで大金をすってしまったこともあります。
日本に送金を求めたものの、一度目はともかく、二度目は断られてしまいます。
それでも西は、借金をしてしのいだのでした。
西のこうした自由奔放で西洋貴族のような振る舞いは、生真面目な日本人からすれば苦々しいものであったことでしょう。
しかし、だからこそアメリカ人、特に女性からは熱視線を送られたわけです。
日本への感情が世界的に悪化する中、彼は憧れの貴公子「バロン・ニシ」でした。
我々は、勝った
昭和7年(1932年)、8月14日、午後4時――。
ロサンゼルス五輪は、最終日、馬術競技を迎えていました。
日本の馬術競技は、さしたる期待はありません。団体戦負傷欠場により不参加が決定しています。あとは個人競技のみです。
この競技でも、入賞候補者すら調子を出せず、失格者もあり、まだ結果が出ていません。
馬を比較しても他国よりも小さく、苦戦は必至でした。
日本陸軍の栄誉が掛かったこの競技。
最年少の西に、重圧がのしかかってきます。
西はヨーロッパ転戦の実績も短く、さほど期待されておりませんでした。
その日、西は朝食を取り終えると、ウイスキーを銀のボトルから一口飲み、送迎車に乗りました。
走行距離メーターに1が揃っている様子を見て、ついていると感じたようです。
この日の「大障害飛越」競技は波乱模様。
西の前に走った9選手のうち、完走者は僅か3名のみでした。
障害馬術とは、難しいものなのです。
馬は人よりも神経質であるとすらされています。
大観衆の興奮と熱気で、馬の駆け足が乱れてしまったのかもしれません。
競技開始――。
小旗がさっと振られ、ウラヌスの巨体が障害へと向かってゆきます。
さっと障害を飛越したその人馬一体の姿を見て、これはいけるかもしれない――そんな期待感が広がってゆきました。
西が激しく鞭を入れると、ウラヌスは巨体であざやかに障害を飛び越えてゆきます。
減点につながるミスがあると、観客席からドーッとざわめきがあがります。
皆、この人馬に感情移入していたのでしょう。
ウラヌスが障害手前で止まってしまった際には、観客席からは悲鳴があがったほど。それでも人馬はへこたれずに、障害に再度向かいクリアしたのでした。
人馬が最後の障害を越えてゴールすると、万雷の拍手が響き渡ります。
得点は、減点8。この時点で1位です。
このあと、優勝候補も競技をしたものの、西とウラヌスの得点を上回ることはありません。
完走者たった5名という、激戦でした。
「優勝者は、バロン・ニシ、ジャパン!」
場内放送が響くと、歓声がどっと沸き上がります。
のちに東京五輪招致に尽力する田畑も、この西の快勝に感動した一人でした。
控え室で記者団に囲まれた西は、短くこう応えます。
“We won.”(我々は勝った)
この短い言葉を、日本人は大日本帝国である我々が勝利したと解釈しました。
一方、他国ではウラヌスと西が勝利したと解釈しております。
西はどういうつもりで語ったのか、このときは付け加えておりません。
ただこのあと、「勝てたのはウラヌスのおかげだった」と語ることがあったとか。つまり「ウラヌスと自分が勝った」の解釈が正解に近いのでしょう。
西は最も魅力的な日本人紳士として、時代の寵児となったのです。どんな大金を積んでもウラヌスを買い取りたいという申し出もありましたが、西は断りました。
しかし、祝賀については断りません。
馬術競技団の祝賀会すら、ハリウッド女優たちと日夜パーティに明け暮れ、ついに参加しなかったのだとか。
名優スペンサー・トレイシー、ロバート・モンゴメリー、チャーリー・チャップリンも、祝いの席に駆けつけます。
パッカード社からは、記念の高級車が贈呈されました。
海を挟んだ日本では、妻子が喜び「パパ万歳!」と感動の声をあげております。
こうした出来事が、次から次へと起こったのです。
アメリカ、ドイツといった国からも西の優勝を祝いたいとの声があがったほど。
政治家や外交官をさしおいて、西は世界中で最も人気があり、知名度が高い日本人紳士となったのでした。
一度帰国しかけながらも、またトンボ返りしてまで祝賀会に出席したほどですから、まさに並外れたパーティー好きです。
帰国後も、西の大歓迎ムードは止まりません。
ロサンゼルス五輪で成績を残した日本人選手の中で、最も熱狂的な歓迎を受けた時代の寵児――。
それこそが、西竹一でした。
西はNHKラジオでは、しおらしく優等生的な原稿を読み上げております。
皆様の応援あっての優勝であると、彼は語ったのです。
大人気の反面、彼には冷たい目線も注がれました。
西のような日本人離れした奔放さ、華やかさは、必ずしも受け入れられるものではありません。
露骨にあんな馬術は邪道だと罵る軍人や、反発戸嫉妬を見せる者もおりました。
西が漏らしていた、ウラヌスしか自分をわかってくれないという思いも、うなずけるものがあります。そして……。
ベルリン五輪での奮戦
時代の寵児となった西は、だんだんと陸軍の中で浮いてゆきます。
軍人は短髪にすべきでしたが、西は長く伸ばしておりました。これだけには留まりません。
派手なパッカード車を乗り回す。
優雅に仕立てた軍服を颯爽と着こなす。
新橋を飲み歩き、喧嘩すらする。
モーターボートに仲間を乗せて、釣りやクルージングに出かける。
自宅に外国人を招待。正月ともなれば、出入りの業者や近所の住民を自宅に招いて大騒ぎ。
皇族の竹田宮恒徳王と親しく交際。
騎兵教官としても、人気がありました。
彼は厳しく指導するものの、自分の持ち馬を惜しみなく貸していたのです。
こうしたあまりに天真爛漫で自由闊達な振る舞いは、陸軍上層部からすれば疎ましいものでした。イメージ戦略に利用される一方で、西は煙たがられていたのです。
西は、次のベルリン五輪を見据えておりました。
目標は国産馬での好成績です。
ウラヌスはもう老齢であり、出場はできません。西は国産の牡馬アスコットを訓練し始めました。
このころから、西はどこか暗い予感を覚えていたのでしょうか。
財産を自分の代で使い切ってしまうかもしれない、金がないと周囲に漏らし始めていました。
昭和11年(1936年)、二・二六事件発生――。
その翌月、西を含めた日本馬術選手団は、ベルリンへと出発するのでした。
この選手団の雰囲気も、前回とは違っています。
馬術選手団の一部が華やかに遊んでいると、対立が起こったのです。前回の華やかさとは違うものがありました。
このとき、日本はある目標を抱いておりました。
それは東京での五輪開催です。
かなり無理のあるこの計画の成功を、西もベルリンの宿舎で聞いていました。
ドイツは寒波に襲われております。西はひどい風邪を引いてしまいました。他の選手は感染を恐れ、看病すらろくに受けられません。
40度近い高熱を薬で下げて、西はアスコットとともに「総合馬術」競技初日に挑みます。
50名中34位という結果は、彼に衝撃を与えました。
少なくとも20位には入っていると思っていたのです。
二日目は、果敢な追い上げで11位まで追い上げます。残った日本人選手は、西一人でした。
池の中で転倒し、泥まみれになりながら戦い抜いた人馬。
リタイア続出、死亡する馬すら出た中で、12位という成績は西にとって手応えのあるものでした。国産馬でもここまで活躍できると確信したのです。
閉会式直前、西が前回金メダルに輝いた「大障害飛越」が始まります。
17歳という高齢のウラヌスは、老いには勝てず冴えないところがありました。
前回から参加国も大幅に増えています。4カ国12名から、18カ国54名にまで達していたのです。
この競技で三選手全員完走を成し遂げられた国は、七カ国のみでした。日本は六位入賞を果たしたのです。
しかし、前回の栄光が念頭にあったのか、日本に帰国しても歓迎はされません。
このときの大スターは、女子二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した、前畑秀子でした。
それでも、西自身は武子に「悔いは無い」と語っています。
熱はあったけれども、人馬とも好調で、ベストを尽くした。そう考えていたのです。
西としては、周囲が残念そうに熱のことを持ち出し、憐憫の情を見せることが気に入らなかったのです。
軍部の接し方は、労るような、慰めるような微妙なものでした。
「ドイツの選手を勝たせるために、西は手を抜いたのでは?」
そんな事実無根の噂すら、当時はあったほどです。

1936年ベルリンオリンピックが開催されていたドイツで撮影された西竹一/wikipediaより引用
ベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』をめぐり、西は軍部と対立します。
この映画には、西がアスコットとともに障害の沼にはまり、泥まみれになりつつ奮闘する場面が映っていたのです。
醜態を晒さないで欲しいと、軍部はカットを依頼しました。
このことに西は反発したのです。
人馬ありのままの苦闘を見せてこそではないか、彼はそう考えたのでしょう。
西と軍部の対立は、ベルリン五輪後深まってゆきます。
西は、騎兵学校で参加国も増えた中での6位入賞は、決して恥ずべき結果ではないと主張しました。前回よりも参加選手も増えた中です。
さらに西は、こう続けます。
「イタリア式だ、ドイツ式だとこだわらずに、人馬一体となるべく、一分でも長く乗ること。それが人馬一体となるためには肝要なのです」
これは、方式にこだわらずに自己流の馬術を鍛錬してきた西としては、実感のこもった教えと言えます。
しかし、騎兵学校幹部とすれば批判にも受け取れる発言でした。
彼の自由奔放な振る舞いは、陸軍から煙たがられていました。しかしそれも、ロサンゼルス五輪の金メダリストという利用価値があれば、見逃されて来たのです。
ベルリン五輪でメダルを獲得できず、騎兵学校を批判する西。彼はもう、軍部にとっては輝きを失った存在であったのかもしれません。
西は、母国開催の東京五輪でも自分は活躍するのだと思っていたのでしょう。
しかし、そうはなりません。
満州チチハルの第一師団騎兵第一連隊に配属されることになったのです。
武子には「よくないことばかりするから、たたって飛ばされたよ」と語っていた西。
その内心には無念が詰まっていたのでしょう。泥酔し、ものに八つ当たりする姿が目撃されています。
西は、東京五輪はどうなるのかと絶望したことでしょう。
しかし、このときはまだその五輪そのものが水泡に帰すとは予測できないはず。
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西は馬術家から、大尉に戻りました。
人馬一体の人生を送ってきた彼にとって、それは本分に戻るというよりも、本質を忘れなければならないことであったのかもしれません。
消えた東京五輪
マイナス40度にもなる、酷寒の地。
そこでの西は部下に慕われる太っ腹な上官でした。
中華料理や酒を振る舞い、声を掛け、ユーモラスなあだ名で呼び、結婚の援助を惜しまない。そんな人物であったのです。
古参兵のリンチに耐えきれず逃げ出した兵士を見逃す温情もありました。
ただし、当時の軍部ではそうした闊達で明るい将官は、出世が遅れる傾向があったのです。
西は、出世よりも自分の気持ちに従うことを重んじる性格でした。
軍人としての責務を果たしながらも、東京五輪を目指す気持ちを捨てきれません。
しかし、ベルリン五輪の4ヶ月後には、日本国内では五輪断念の機運が芽生え始めていたのです。
馬術家としてではなく、軍人に戻されたことも、関係あったのかもしれません。
昭和12年(1937年)、西は軍人として、初陣に挑んでいます。
敵対する匪賊よりも、自然との厳しい戦いに苦しめられました。
西はこのとき着用していたワイシャツを、記念に保管しました。
当時、東京では五輪をめぐる会合が開かれていました。
その内容は不吉なものです。
日本は剣道があるのだから、フェンシングはいらない等、不毛な議論が展開されていたのです。
軍事費が嵩む中、予算も潤沢にはつけられません。西の知らぬところで、東京五輪は消えゆく道を歩んでいたのです。
世界各国から、日本は本当に五輪を開催するつもりなのかどうか?と怪しむ目が向けられ始めます。
盧溝橋事件のあと、日本の戦線は拡大するばかりでした。
そんな中、8月1日に馬術選手が決まることとなりました。
12日、西は満州から帰国します。しかしこのとき既に、陸軍人は選手拝命を辞退すると軍部がラジオ放送をしてしまっていたのです。
西自身はどうしても辞退を上官に申し出ることはできず、別人に任せてしまいました。
西竹一の東京五輪出場の夢は、こうして断たれたのです。
日米開戦へ
そのあと、西は満州・孫呉勤務ののち、昭和14年(1939年)、少佐に昇進するとともに日本へ呼び戻されました。
北海道十勝・仙美里で軍馬補充を担当させられたのです。
西にとってみれば、あまりに地味な役職でした。
38歳となった西にとって、屈辱的な日々でした。
男爵家のお坊ちゃまが、人に頭を下げて寄付を願うこととなったのです。彼の知名度ゆえにその役目を任されたのかもしれませんが、本人にとっては辛い日々でした。
彼自身、苦悩を深めてゆきます。
このころ、アメリカの知人から渡米の誘いを受けました。
西はこの申し出に、かなり悩んだようです。
北海道での日々――西は我が子と相撲を取り、スズランの花輪を作る、そんな優しい父としての一面も見せました。
夜ごと遊び歩いていた、華麗な青年将校とは別の一面を見せ初めているのです。
彼は武子に、軍人を辞めようかと語ったことすらあります。
軽い口調でそう言ったとはいえ、彼女はその苦悩を感じ取り、そうなったら私もおでん屋でも始めると返したとか。
西は、「それなら酒が飲めるな」と笑って応じたそうです。笑ってはいたものの、心のうちは苦しいものであったはずです。
4月10日、後楽園スタジアムで開催された第四回遊佐馬術競技で、西は22歳になったウラヌスとともに障害を飛び越えました。
これがこの人馬最後の馬術競技となりました。
このころから、西の馬への接し方も変わってゆきます。
それまでの、競技者としての激しさや情熱は穏やかなものとなり、楽しむ方向性へと変わったのです。
このあとの馬術大会での西は、審査員としての出場となりました。かつての激しい性格も円くなり、筋肉質の体にも少し肉がつき始めました。
昭和16年(1941年)冬、軍部ではアメリカとの戦いがもはや避けられぬと判断するようになりました。
どこまで本気かわかりませんが、西をアメリカに派遣して、開戦を拒否できないかという意見も出たそうです。
そして12月8日――真珠湾攻撃により、日米は開戦に至ります。
「えらい相手と戦を始めたものだ」
西は武子にそう漏らしました。
そんな西の元に、イギリスから手紙が届きます。17年前、日本に留学していた軍人からでした。
この先、敵となっても、お互い死ぬまで友情は変わらないと、誓うものです。
西は、この手紙が届くかどうかわからないと前置きで断りながら、返信をしたためます。
国境を越えた友情が、無残にも引き裂かれたのか、それとも引き裂かれなかったのか。
変わってしまったことは確かでした。
ヨーロッパ、アメリカを巡ってきた西にとって、祖国が歩み始めた道はどう見えていたことでしょう。
西は性格的に、鬼畜米英を唱える国の道を盲信していたわけではありません。言動の端々からそんな思いを感じます。
欧米を渡り歩き、国境を越えた交流をしてきた西にとって、それは当然のことでしょう。
天皇こそ現人神であり、日本は神の国であるとする当時の風潮にも、西は疑念を抱いていました。
宮城遥拝の際に頭を下げなかったことがあったため、陸軍内では彼のことを嫌う風潮が強まったほどでした。
華やかで、兵士に優しく、神の国であるという祖国に疑念を抱く――もしも西が、もっと器用で、そんな天真爛漫な一面を隠し通せていたら、彼はそこまで辛さや疎外感を覚えることはなかったのかもしれません。
しかし、西にはそうはできなかったのです。
孤立しようと、己の信念を曲げることができない、そんな人物でした。
境遇の変化は、彼自身ではなく騎兵という兵種にも起こっておりました。
騎兵も歴史上での役割を負え、戦車隊へと変化してゆくのです。
人馬の永訣
騎兵が機甲兵となったのち、昭和17年(1942年)。
西は牡丹江へと向かいます。昭和18年(1943年)、西は中佐に昇進しました。
西は自動車やモーターボートを好み、戦車に抵抗感はありません。
しかし、彼のプライドは騎兵としてのものでした。西は演習に際して、たった一人馬上から戦車の式を取ったことすらあったのです。
昭和19年(1944年)、戦車第二十六連隊に所属する西は、家族とともに満州へと向かいます。
この6月、密かに行き先もわからないまま、連隊に転身命令が下されたのでした。満州に暮らす民には告げずに、軍隊は移動を始めていたのです。
西の転身先は、硫黄島でした。
日に日に戦線を後退させていた日本軍にとって、硫黄島は陥落させてはならぬ場所です。ここが落ちたらば、本土への爆撃はやむなし――そうみなされていたのです。
7月7日、自宅に立ち寄った西はいつも通り明るい調子ながら、弱気を言葉に滲ませていました。
「硫黄島が落ちたら、お前たちももう駄目だぞ」
とはいえ、機動力が長所の戦車隊が、あの小さな島をどう守るというでしょう。
日米開戦時から、国力の差を分析していた西は、そこでの戦いがいかに厳しいものとなるか、わかっていたのでしょう。
西が硫黄島へ向かう途中、乗船が魚雷の直撃を受けます。
命こそ落とさなかったものの、戦車は海の藻屑となりました。父島にたどり着いた西は、差しだされたビールを飲みながら、戦車もなしでどう戦うのかと語るほかありません。
そもそも戦車は、狭い島嶼部での戦闘に不向きです。大本営に電信を打ち、命令変更を促そうか迷った末に、西は硫黄島へ向かうこととしました。
西のたどりついた硫黄島は、地獄のような場所です。
兵士たちは下痢に苦しみながら、砂地を掘りなんとか陣を築こうとしています。猛暑の中、硫黄臭さがたちこめているのでした。
硫黄島の状況に苛立った西は、栗林忠道中将の許可を得て、8月には内地に帰国し戦車の補充を依頼しました。
武子には「硫黄島から呼び戻してやると言われた」と告げます。
どの将官の言葉か、わかりませんでした。
西はこのとき、自分の運命を悟っていたのかも知れません。西は、馬事公苑のある世田谷へと向かいました。
ウラヌスは、馬事公苑の厩舎で余生を送っていました。
かつて多くの騎手にとって垂涎の的であったこの馬も、もう24歳です。馬としては驚異的な長寿でしたが、あの筋骨隆々とした馬体はたるみ、つややかであった栗毛も見る影はありません。
それでもウラヌスは、西のことを覚えていたのです。
彼の足音を聞くと、脚を踏みならし喜びを表現し、西の腕に首を擦り付け、愛咬したのです。
西はウラヌスを馬場に引き出し、障害は越えずに一周ゆっくりと回りました。
それから西はウラヌスのたてがみを切り取り、懐にしまい込んだのです。
彼は8月17日、硫黄島へと出発します。
このあと、彼が自宅を訪れること、見送る家族、そしてウラヌスと再会することはなかったのです。
西の胸には、ある強い思いがありました。
硫黄島が陥落したら、日本ももう終わる――アメリカの国力を知る西が、勝利を信じていたとは思えません。
それでも彼は、祖国への爆撃をなんとかして防ぎたいという思いを抱え、硫黄島を目指したのでした。
硫黄島での最期と伝説
硫黄島の戦況は、ますます切迫してゆきます。
そんな中でも、西は釣った魚を兵士に振る舞い、宴会をすることすらありました。
彼は兵士を愛する将校でした。
そうはいっても、そんな安らぐ時はあくまで例外的なものです。アメリカ軍の空襲は日に日に悪化し、将兵は皆苦しめられていました。
西は、栗林と対立することがありました。栗林は、戦車を埋めてトーチカ代わりにすると告げたのです。
これに西は激怒しました。
機動力を奪った戦車に意味はないではないか。そう反論したのです。
結局両者は、半数のみ埋める折衷案を採用しました。
この年の11月から、日本本土空襲が開始されています。
年は明けて、昭和20年(1945年)。
アメリカ軍は硫黄島Dデイ(上陸日)を2月19日に決めました。
このころには、昼夜問わず戦闘機が硫黄島上空を飛んでおりました。
「敵さん、いよいよおいでなすったよ、皆しっかりやろうなぁ」
絶望的な状況でも、西はつとめて明るく兵士に声を掛けたとされます。
これは史実かどうか、判明しません。
なぜならばここから先、実は西の歩みははっきりしないのです。周囲にいた兵士たちは、彼とともに、皆戦死を遂げているのです。
硫黄島で西が散るまでの目撃談は、実はハッキリとしないことばかりです。これがのちの伝説形成につながってゆきます。
圧倒的な敵の攻撃の前に、日本軍の兵士は手榴弾で自決を遂げるものが続出します。
「死に急ぎするな!」
それでも西は、そう周囲を励まし続けます。
決死の覚悟を持って突撃する配下に、西はアルミのコップで水を与えました。
副官は、そんな彼に対して「これから死ぬ者に、貴重な水をやらんでも……」と言いたげな表情を見せていたのほどです。
戦闘中、はぐれた兵士が洞窟に逃げ込もうとすると、拒む隊長がほとんどでした。
しかし西は違います。
「一緒に戦おう!」
彼はそうした兵士たちを、受け入れたのです。
西の優しさは、自軍だけに発揮されたわけではありません。
米兵捕虜に英語で話しかけ、相手の話をじっと聞いていました。彼の持っていた手紙には、我が子を気遣う母の切々たる思いが書かれています。
その手紙を読み終え、西はつぶやきました。
「どこの国でも、人情には変わりねえな……」
西は、乏しい医薬品を集め、米軍捕虜の治療に手を尽くさせたことすらありました。鬼畜米英とはほど遠い価値観を生きていたのです。
死屍累々の絶望的な状況でも、西は生来の明るさを見せていました。
彼の手には藤の乗馬鞭が握られています。ロサンゼルス五輪で振るっていたものでした。
「これはな、俺の命の次に大事なものなんだ」
西はそう口にしていました。
3月17日深夜0時、硫黄島を守る日本軍は最後の突撃を行うこととなりました。
戦死公報では、西の最期はこの日であったとされています。
しかし、実のところ、西竹一は命日にすら、諸説がありはっきりしていないのです。3月21日であったのか、22日であったのか、未だにわかっておりません。
西の最期については伝説があります。
「バロン・ニシ、出てきなさい」
敵軍すら、この金メダリストを惜しんで、こう投降を呼びかけたという話がまずひとつ。
これは死後作られた伝説ではないかとみなせます。
日米どちらからも、西に呼びかける声は聞いていない、呼びかけてすらいないと証言があるからです。現在では、この呼びかけがあったかどうか、真偽不明とされています。
ただ、西の死がアメリカからも惜しまれたことは確かなことです。彼と交流のあったハリウッドスターはじめ、友人たちはその最期を知り、涙したのでした。
かつて西から馬術の指導を受け、ハリウッド映画界で活躍することになったサイ・バートレットは、空軍大佐として太平洋戦争に従軍していました。
あのバロン・ニシの国と戦うことに胸を痛めていた彼は、のちに武子夫人を訪れ、靖国神社で個人の慰霊祭を行っております。
呼びかけはともかくとして、アメリカからもその命を惜しまれたということは、まぎれもない事実なのです。
ふたつめは、宮城に頭を向けて自決したというものです。
この自決についても、否定されています。
宮城に向けて自決というのは、あまりに出来過ぎているだけではなく、西の性格と一致しないように思えるのです。西は宮城遥拝で頭を下げずに周囲を驚かせたことすらあったほどでした。
証言もあります。
西の遺体を目撃した人によれば、左胸から出血しており、宮城を向いていなかったとのことです。
死の状況は、証言からすると火炎放射攻撃を受けて逃れたあと、海岸で集中砲火を浴びたものと推察されています。
享年42。
埋葬場所すら、火山活動で地形が変わりやすい硫黄島ではわからなくなってしまいました。
死亡した場所と推察される海岸には、「西大佐の碑」があります。
碑文にはこう書かれています。
硫黄島 散りて散らさぬ もののふの 心の櫻 咲にほう島
彼の最期にまつわる伝説は、その死を惜しむ人々のより、作り上げられたのでしょう。
西の遺体は、発見者によって石や砂を掛けて埋葬されました。
軍刀も埋められましたが、藤の鞭だけは回収され、遺族の元へ届けられました。
その死から二十年以上経て、硫黄島で風化したイギリス製拍車付きのブーツが発見されたのです。これを知った武子夫人は夫の遺品だと語ったとされます。
この人馬が残した鞭は、武子によってロサンゼルスのヘルメス財団に寄贈されました。
ウラヌスのたてがみといったこの人馬にまつわる遺品は、西が勤務していたことがある北海道「本別町歴史民俗資料館(→link)」に多数寄贈されています。
死後、大佐に昇進、勲三等旭日中綬章授章。
遺児の西泰徳は、硫黄島の慰霊に積極的に関わり、「硫黄島協会」会長をつとめました。
ロサンゼルス五輪を沸かせた西が亡くなってからおよそ一週間後。ウラヌスも、老衰で世を去りました。
この名馬の遺骸も、空襲で吹き飛ばされてしまいます。
蹄鉄だけが、この世に残されました。
世界中を熱狂の渦に巻き込みながら、その遺骸すらどこにあるかわからない、悲運の人馬――それが西竹一と、ウラヌスです。
西の運命には、戦前日本の五輪への挑戦が悲劇的に凝縮されたかのようです。
五輪の金メダリストとして一世を風靡し、祖国での五輪を夢見ながら叶うことなく、戦場で散ってしまった西竹一。
東京五輪を夢見ながら、戦場に散ってしまった日本人アスリートはいたのです。
東京五輪を成功させたいと願った田畑政治の胸にも、そんな彼らの思いが焼き付いていたことでしょう。
2019年大河ドラマ『いだてん』に西は登場しませんでした。
それでも、日本の五輪の歴史には西竹一とウラヌスという人馬がいたことを、記憶に留めていただければと願うのです。
2024年パリオリンピックに至るまでの92年間、日本が獲得した馬術競技でのメダルは、西竹一のみでした。
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【参考文献】
大野芳『オリンポスの使徒―「バロン西」伝説はなぜ生れたか (1984年)』(→amazon)
『国史大辞典』


















