左から山川捨松・山川浩・山川健次郎/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

山川浩&山川健次郎&捨松たちの覚悟を見よ!賊軍会津が文武でリベンジ

幕末の会津藩士といえば、生真面目な印象があります。

日新館で学び、勉強熱心。
生活ぶりは質素であり、妾を持つことは禁止。

京都でも羽根を伸ばして遊ぶことなく、だから金も落とさない――長州藩士と違って無粋だと嫌われてしまった。

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真面目すぎるがゆえに、あの破滅的な最後へと突き進んでしまったのか――そう思われるほどではあります。

ところが、集団の中には異質な人間もいるほどでして。

やたらとオラつき、やることなすこと突拍子もなく、国際的な舞台でまで喧嘩を売っていた人物もいます。

山川浩――。

幕末会津藩最年少家老にして、西南戦争では薩摩軍の悪夢となった人物でした。

その人生を、たどってみてもよかっぺ。
彼のみならず、山川家の人々(山川浩・山川健次郎・山川捨松)の歩みを併せて見てみましょう。

 


山川浩、健次郎、捨松 智勇豊かな山川家に生誕

弘化2年(1845年)、陸奥国・会津藩の若松城下にて、のちの山川浩は生まれました。

幼名は与七郎。
同年同じ城下町にて、新島八重も生まれております。

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山川家は「高遠以来」と呼ばれる会津藩でもエリートの部類に入りました。

保科正之に仕えて信州から会津まで来た、そんな誇りがあるのです。

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とはいえ、これはあくまでプライドの問題とも言えます。
実際に要職につけるかどうかは、その智勇次第。山川家の場合、祖父・兵衛重英が抜群の知性の持ち主でした。

第8代藩主・松平容敬は、この重英を重視します。

メキメキと出世を遂げ、ついには家老にまで到達。
知行3百石から1千石にまでなったのですから、これはかなりのものでした。

重英は、好奇心旺盛で新進気鋭の人物でした。
種痘接種の有効性を藩内に広めようとし、藩主の娘・敏姫にまで勧めたほど。これは御典医の反対により実現しませんでした。

この重英の嫡男が重固でした。
その二男、幼名・与七郎として、のちの山川浩は生まれたのです。

長男は夭折しており、家を継ぐ運命を背負っていました。本稿では、浩と統一します。

浩たちの母・えん(艶・号から唐衣とも)は、和歌を好む知的な女性でした。

家老として出世したため、山川家は藩内でも裕福な部類に入ります。

幼いころ、たくさんある人形で遊んだこと。
祭りを見物したこと。
磐梯山の氷室から運ばれる氷を楽しみにしていたこと。

そんな幸福な記憶が、山川家で育った人々にはありました。

のびのびと育ちゆく浩に、試練が襲いかかったのは万延元年(1860年)。
父・重固が死去しました。

享年49。このとき山川きょうだい末の妹はまだ母の胎内におりました。

早いその死により、家督を相続することになった16歳の少年。
祖父・重英は当主たる孫に「殿」をつけて呼び、サポートに回ります。

とはいえ、現在でいえば高校生です。
藩士の鍛錬を重視する会津藩では、無役組としました。
【日新館で学ぶことを続行せよ】ということです。

代わって祖父・重英が家長として家を見ることとなりました。

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彼は熱心に勉学と稽古に励んでいました。
弟・健次郎は手をボロボロにしてまで、槍の武芸の稽古をしていた兄の姿を記憶しています。

そんな浩には、反骨精神もありました。会津藩が推奨した朱子学ではなく、陽明学を熱心に学んでいたのです。

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ただの儒教がどうしてそこまで重要なのか?

これは日本史を学ぶうえで欠かせない要素でしょう。
あの薩摩藩・精忠組も、朱子学テキストを読むサークルが母体です。

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浩は知勇兼備であり、残された写真はなかなかの美形でもあります。
しかも家老となれば、若きエリートとして憧れの的となってもおかしくはないところです。その胸にはオラオラぶりと、反骨精神が秘められていましたが。

そんな経歴のためか、八重がヒロインのフィクションでは、しばしば彼の姿がご近所イケメンとして登場するものです。
同い年でご近所ですからね。

浩18歳――今でいうところの大学生となりますと、物頭(足軽大将)となりました。20人ほどを率いる役割を果たすこととなったのです。

若きエリートとしての出発ですが、このとき日本には大変な危難が迫っておりました。

 


会津藩が「京都守護職」に

文久3年(1863年)――。
会津藩は、複雑怪奇な幕末の情勢にあって「京都守護職」として上洛することとなりました。

本来、これは井伊直政以来の井伊家の役目です。

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ところが井伊直弼が凶刃に斃れ、それどころではありません。

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徳川慶喜と知恵者・松平春嶽が、会津藩主・松平容保の律儀さにつけこむようにして、承諾させたものでした。

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年配の家老・西郷頼母ともなれば、不安のあまり憔悴しそうなところです。

しかし、与七郎から元服して士亮、大蔵と呼ばれていた彼からすれば、これは刺激的な体験になりうるもの。
藩主を追い、上洛することとなったのです。

後に東京帝国大学総長となる弟・山川健次郎はこのとき10歳であり、日新館に通い始めておりました。
青瓢箪と呼ばれるほど病弱であり、休みがちではあったそうです。

母は、そんな我が子にこんな歌を託しました。

天が下轟く名をばあげずともおくれなとりそ武士の道

【会津弁意訳】天下に名を轟かせろとまでは言わねけんじょ、武士の道さ遅れを取るわけにはいかねべした

では、京都の浩は?

なかなかオラオラしていたようです。
「知恵山川」と呼ばれるほど賢いだけあって、京都でもメキメキと存在感を見せてはおります。

当時の京都は、長州藩士、薩摩藩士、土佐藩士……など多くの脱藩者がうろつき、大変な状況にありました。

会津藩はあの新選組を擁して、その治安維持に乗り出すわけです。
新選組の中には、のちに山川兄弟と親友になる斎藤一もおりました。

若き浩は、この情勢を見守っていました。

この見聞は、明治に至っても驚くべき結果をもたらすことになります。

ただ、会津藩も一枚岩ではありません。
内部で揉めることもあり、秋月悌次郎が蝦夷地経営に左遷されたこともあります。

山川浩も、オラオラ姿勢がちょっと危なっかしかったのか。
藩では対策を練りました。

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慶応2年(1866年)。
幕府使節がロシアへ向かうこととなりました。

議題は樺太のことです。
実はペリー来航よりも早く、ナポレオン戦争終結あたりから幕府とロシア間では様々な問題が燻っておりました。

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浩は、まだ若いだけあって正使・小出大和守秀実の従者扱い。

髪の毛を結う。
寝食の世話。
ともかくつまらないパシリをやらされるわ、罵詈雑言を浴びせられるわ。

会津藩家老の家に生まれた浩にとって、どれほどイライラする日々であったことか。

「ロシア旅行? さんざんパシリ扱いされたべした」

この経験を、彼はのちに笑いながら話していたそうですが、執念深くイラつきを記憶していたようではあります。

旅先でも、暴れまして。
一行はこの時、開削中のスエズ運河を見学しました。

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ここで180センチもあるような大男のポーターが、浩に舐め腐った態度をとったのです。

浩は手にした杖で、ポーターをボコボコに殴り倒しました。
その迫力は凄まじく、周囲の人々は遠巻きに眺めるしかなかったそうです。

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パリでも、幕府を侮辱した薩摩藩士と一触即発であったり、海を越えて暴れまわる浩。

こうしたやらかしを「あの人の勇気はさすがだ!」とみなす見解もありますが、どうしたってやりすぎ感はある。

慶応3年(1867年)。
帰国した浩は態度を変えました。

「今どき攘夷を言い張る奴は、どうしようもねえおんつぁげす(馬鹿)だべした!」

君子豹変だべな。
こうして会津藩様式訓練の先頭に立つのでした。彼は切り替えが得意なんですね。

とはいえ、会津藩そのものが体質を切り替えられず、決定的に追い詰められています。

八重の兄・山本覚馬、秋月悌次郎らには、薩摩側の和睦主義者・赤松小三郎と交渉した形跡があります。
一方で浩は軍制改革に突き進んでいます。

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そしてこの年が開けると「鳥羽伏見の戦い」と突入していくのでした。

 


鳥羽伏見から一日大坂城代へ

列強が迫っている中、内戦を起こす武力倒幕は下策――。

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そう西軍側も感づいておりましたが、会津への復讐に燃える長州藩にひきずられ、事態は泥沼へと突き進んでいきます。

そして「鳥羽伏見の戦い」が勃発。
東軍はもろくも崩れました。

戦術や兵器の差が色々と言われたりしますが、そう単純なことでもないでしょう。

なにせ徳川慶喜には戦意がないのですから。

尊王思想が強い水戸徳川家の出身であり、母は吉子女王。
そんな慶喜にとって、朝敵となることだけは回避したい事態でした。

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林権助はじめ大勢の犠牲者を出しつつ、会津藩もこの徳川慶喜と藩主・松平容保に従って大坂城にまで撤退しました。

このときの浩の心中はいかばかりだったでしょうか。
洋風の軍服を着て、洋風の鞍に颯爽とまたがり、兵を励ます山川。

「焦るこどはねぇ。奴らとて糧食の蓄えはねぇべ。戦わずして潰れっぺな」

この浩の解析は、実のところ的を射ていたのです。

西軍は軍資金難に苦しんでおりました。
浩が足りない見通しがあるとすれば、西軍があまりに強引であったということでしょうか。

2015年の朝ドラ『あさが来た』モデルでおなじみの広岡浅子の実家や京阪の商人から、軍資金を調達して進軍していたのです。

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その過程で、年貢半減といった減税措置は棚上げとなり、明治新政府と政治家の金による結びつきにまで繋がってゆきます。

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浩は金銭面では清貧を通り越して無頓着な傾向すら感じるほどですので、西軍のこうしたやり口は想像すらできなかったのかもしれません。

そしてもう一つの誤算。
慶喜が軍艦で撤退してしまったことでした。

しかも、松平容保まで強引に連れて行くと言うやり方であり、後にこの撤退の責任を負い、神保修理長輝が江戸で切腹に追い込まれます。

神保家の運命は壮絶です。
父・内蔵助は会津戦争の際に田中土佐と自刃。妻・雪は会津戦争に娘子隊として参加し、自害を遂げたのです。

残された浩は愕然としました。

「わけがわがんね……」

後に浩は、藩の陪臣風情で、一日とはいえ大坂城代になったのは俺くらいのものだと笑って語っていたそうですが……嫌味と恨みがあってもおかしくはありません。
もはや運が去ってどうにもならないと叫んでいたという、そんな浩の姿も、語り残されています。

渋沢栄一には、慶喜への敬愛があるものですが、浩にそれを期待してはいけないとは思います。

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城には、鳥羽伏見から負傷兵が押し寄せていました。

名城を頼りに戦うべきか?
それとも撤退か?

皆の意見を聞きつつ、浩は決断します。

浩は、主君のために戦った彼らを見捨てることはできない。
撤退させるべきである。

海軍に関しては東軍が上。
敵の斥候を撃ち、ひるんだ時に負傷兵を脱出させ、海路北を目指したのでした。

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ちなみに会津を目指す帰路、小松原村(現和歌山県御坊市)で浩は熱病に倒れています。
そこで世話になった宿には、14年後に令状と皿を贈ったそうです。そのあとも、会津漆器を贈って訪ねたり、水害の際には寄付もしたのだとか。

そういうところは、律儀だべした。

船で江戸まで戻ると、慶喜は謹慎モード。
面倒くさい連中に成り果てた新選組や会津藩に、勝海舟は露骨な塩対応を取ります。

江戸を戦火から守りたいと言えば綺麗なことではありますが、要するに切り捨てです。
会津藩と江戸警護をしていた庄内藩は、スケープゴートになりました。

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そんな中、会津藩主・松平容保は、松平喜徳に家督を譲り、恭順の姿勢を示す一方、藩士を出迎えました。

容保は誠実さが溢れていて、藩士として責めることもできません。
そのとばっちりが、前述の神保修理に向かったところはありまして、痛ましい限りではあります。

 

戦争、戦費捻出、戦争……

当時の会津藩で、浩はナンバーワンの強さでした。

東軍でも屈指の強さではないかと思われます。
庄内藩の鬼玄蕃こと酒井了恒レベルの装備を有していたら、どうなっていたことでしょう。

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日光東照宮を参拝してから、会津藩の軍議に参加。
家族とも再会したことでしょう。

【山川家】

祖父・重英(88):高齢であるにも関わらず、健康体であるため開戦準備に関わっていました

母・えん(52):和歌が趣味の教養人も、悲壮な覚悟を胸に秘めていました

姉・二葉(1843生まれ・26):夫・梶原平馬が京都で別の女性と深い仲となったことを察知し、離婚。会津藩は妾を持つことが禁止されており、破れば女性から離婚できました。八重の兄・覚馬もその一例です。二葉も大変な才女であり、明治時代は教育に尽力しております

妹・美和(1847年生まれ・22):温厚な常識人

妹・操(1852年生まれ・17):兄を叱咤激励できるしっかり者

弟・健次郎(1854年生まれ・15):フランス語を日新館で習得中。年齢をサバ読み、白虎隊に参加します

妹・ときは(1857年生まれ・12):彼女の三男が戈登(ごるどん)という強烈な名前であるのは、ゴードン将軍(イギリス、1833〜85)に感銘を受けた浩の命名によります

妹・咲(1860年生まれ・9):会津戦争籠城戦では負傷し、消えぬ傷が残りました

家でゆっくりする間もなく、砲兵一番隊とともに、日光方面へと出陣。
そのあと、また藩に呼び寄せられます。

というのも、戦費が尽きかけていたのです。

京都守護職を引き受けて以来、ただでさえ会津藩の財政はますます悪化していました。

これは会津藩独自の事情もありますが、際立って悪かったということでもありません。
幕藩体制が全国的に疲弊していたことは確かです。

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会津戦争には、全国各地から幕府を支援する将兵が集まりました。
こうなると、その分の金もかかってしまうのです。

そこで、「知恵山川」の出番となりました。祖父以来、財政再建にも山川は役立つとされてきたのです。

浩はともかく金銀を藩内からかき集め、なんとか捻出しました。

クレバーではある。冴えてはいる。
けれども、領民からすればたまったものではないでしょう。

君臣一体となった破滅がそこにはありました。

会津戦争後、世直し一揆が会津藩内で起きたこと。
容保が去る時に冷たい態度をとる領民がいたことは確かなことではあります。

ただ、西軍の監視下で、心を込めて容保を見送ることができたかどうかは甚だ疑問です。

そもそもこうした記述は、薩長やその援助をした側の目線によるもの。
バイアスがかかっている記述でしょう。

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戦費捻出のため、プロシアに蝦夷地売却を持ちかけたという話もあります。

だからといって会津藩や庄内藩を責める理由があるとは思えません。
誰がこの内戦を起こしたのか、という話です。

下策だとわかっておいて、英仏の反対も押し切って、強引に押し進めたのは誰なのか?

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それに、蝦夷地云々をいうのであれば、樺太のこともある。
幕府が守ろうとし、会津藩はじめ東北諸藩が警護をしてきた場所です。

幕末には、浩も参加した使節をロシアに派遣しました。

にも関わらず、明治政府はろくな交渉もしないまま、イギリスに乗っかって樺太をロシアに割譲しているのです。

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それに明治政府には、維新後も困りきった会津を救う気はさらさらありませんでした。

明治維新で新しい国になるどころか、ますますこの地域は追い詰められた。
イギリス人女性探検家イザベラ・バードが明治時代に会津を旅して、その荒廃ぶりに唖然としています。

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ともあれ、浩です。
彼は財政を立て直したあとも、浩は休む間もなく働き続けます。

 


日光口を守る名将は誰だ?

このころ関東では、大鳥圭介らが奮戦しておりました。

ただし、苦戦続きです。
西軍は日光方面で戦い、会津との国境・山王峠にまで到達しつつありました

4月になると、浩は大鳥と合流。
大鳥は幕臣の中でもかなりの秀才ではありますが、実戦経験は少ない。

一方で、浩は日新館時代からビシバシと槍を振り回し、スエズ運河でポーターを殴り倒した喧嘩上等タイプです。ある意味では、理想的なコンビといえましょう。
浩は、大鳥とともに会津を目指すこととなりました。

彼らは日光口で、土佐藩兵を主力とした西軍と対峙します。
結果はなんと、東軍の大勝利でした。

ここで敵対する西軍の将・谷干城は、信じがたい思いを噛み締めていました。

「最近、会津方がよう戦うちゅう。率いちゅうのは誰やろう?」

「大鳥だけでは頼りないき、会津から山川大蔵(浩のこと)が来ちゅうそうや」

「山川大蔵……」

谷の脳裏に、この山川大蔵の名はしっかりと刻まれました。
敵にしておくには惜しい。この程度の兵を率いていてよいものか。そう彼は記憶したのです。

しかし、戦局は不利なもの。
決定打は、白河口の敗北でした。

この方面を率いていた会津藩家老は西郷頼母です。
彼は妻子が会津戦争の際に自害を遂げました。その悲劇は幾度も語られてきたことではあります。

会津若松市内の観光名所「会津武家屋敷」は、彼の屋敷を再現したものです。

その印象もあってか。
フィクション等での扱いはよいものの、指揮官としては能力が低いとされております。

美濃高須から養子に入った容保相手に居丈高な態度をとったこととあわせて、そこはマイナス面として評価せねばならないところです。

白河口の大敗は、西郷頼母の指揮系統がともかくお粗末であり、助言を受け付けなかったことが大きな要因とされております。
そして白河口が崩れると、西軍が会津方面へと殺到しました。

その動きは、東軍の想像をはるかに超える速度でした。

天然の要害である母成峠を超え、猪苗代から若松めがけて突進。
会津藩の備えがあまりに脆弱であり、その象徴が白虎隊の自刃でした。

会津藩士のうち、最年少の武士から構成された白虎隊は、予備兵力とみなされておりました。しかし、敵の進軍があまりに早すぎたために、彼らは猪苗代方面へと急遽進軍することとなったのです。

折しも台風が迫る中、士中二番隊にいくつかの不運が重なり、彼らは自刃を遂げたとされています。

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この状況も、美化や伝説化の弊害が大きいもので、その解明は現在も続けられております。

全員死亡してはいないことを、ご留意ください。
同じ隊でも、愛犬の機転もあって生存した隊士もおりました。

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若松が地獄へと向かうころ。
山川家の判断は、西郷頼母の一族とは異なりました。城中避難を選択したのです。

避難組には、スペンサー銃を装備し戦う気満々、狙撃手・八重もおりました。
会津戦争の最中、銃を装備して戦った女性は八重だけではありません。

浩が到着したとき。
もはや若松城には敵が大勢押し寄せておりました。

容保から「入城せよと」の命令があるものの、援軍をしようにもできないような状況。

「さて、なじょするべ……」

「この水島に、策があるんだなし」

このとき、配下の水島純がこう提案して来たのです。

 

彼岸獅子入城を果たす

水島の策は『三国志』レベルの凄まじい内容でした。

・笛と太鼓を奏でつつ、彼岸獅子を囮として先頭に立てる

・それに会津兵が続いて入城する

・失敗すれば死あるのみ

・小松村(会津若松市北会津町小松)の独身男性のみを選抜する

要は、パレードをしながら敵陣を突破して、味方の城へ入るというものですね。
もはやマンガです。

なお、会津の彼岸獅子とは、春の彼岸に踊られるものです。

春を告げる獅子舞の一種のようなものとお考えください。地域によってバリエーションがあり、贔屓を応援する追っかけも出るほど、江戸時代は盛り上がっておりました。現在でも続いています。

このミッションに選ばれたのが小松村でした。

◆会津彼岸獅子/會津物語

平均年齢は、独身だけに16歳。
失敗すれば白虎隊と並ぶ悲劇になるでしょう。

想像するだけでも無茶苦茶ではありますが、これがなんと成功するのです。

彼ら16歳の藩士たちが大垣藩兵らの前を通過していくと、敵は、何が何やらわからないまま見逃してしまったのです。
気づいた時には、全員が入城を終えておりました。

この功績により、小松彼岸獅子には会津藩の紋である「会津葵」の使用が許されています。
とかく悲惨な歴史が強調される【会津戦争】の中でも、この山川浩の奇策は八重の大山巌狙撃と並ぶ快挙でしょう。

入城後、会津藩の希望は二将に集中しました。

猛将として、その人望の篤さは西郷隆盛のようだと言われた「鬼の官兵衛」。

知将としてて、その縦横無尽の才知を期待された「知恵山川」。

彼らの存在感は際立っていました。

しかし、城内はそれどころではありません。

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会津鶴ヶ城陥落

このとき、健次郎は白虎隊士として出撃し、城の防衛に当たっていました。
城内では、山川家の女性たちも奮闘していました。

彼女らには、家老の家だけあって、先頭に立ち、奮闘しなければならない――という意識があったのです。

まだ熱い握り飯を作る。飛来する銃弾を溶かして弾薬にする。
彼女らはそんな働きをしておりました。

母・えんは、いざとなれば下の娘二人を殺す決意を固めていました。
姉たちは自害できるものの、下の娘はそうではないと冷静に悟っていたのです。

そんな中、家老の妻として登勢も働いていました。
上洛した浩の帰りを待っていた彼女は、ついに夫との愛ある日々は戻りませんでした。

会津戦争の最中。
降り注いだ弾は一日2千5百発であったとか。

雨あられと降り注ぐ砲弾が破裂し、山川浩の妻・登勢の身を引き裂きました。
弾によって大量に血を流し、苦しみ抜きながら、19という短い生涯を終えた彼女。

も遺骸を埋葬することすらできない状況でした。

夫である浩にも、できることは限られています。
配下に命じ、鎧櫃に妻の遺骸を入れ、他の遺骸と共に空井戸に葬ったのです。

浩のストレスは激しいものがあったのでしょう。

撤退してきた白虎隊士や、弟・健次郎にまで、切腹をしろと迫った記録すらあります。
未遂に終わっています。その様子は2013年大河ドラマ『八重の桜』でも描かれました。

そして終わりの時は近づいてきます。

あの入城からひと月もしない中、米沢藩の降伏勧告を受け、会津藩は降伏するのです。

9月22日――白旗が掲げられました。

家老である浩は、無念を噛みしめるどころでもありません。
城中の装備引き渡し、『会津屏風』こと『泰西王侯騎馬図』はじめとする文物の押収に立ち会わねばならないのです。

あまりに無残な役割と言えました。

◆『泰西王侯騎馬図』/文化遺産オンライン

家老ともなれば、もっと厳しい運命も待ち受けています。

幕末の騒乱において、家老の切腹はよく見られる措置です。
江戸時代を通して、藩主の首を差し出すことは、藩士全員にとって最大の屈辱とされてきました。恭順をとなえていた会津藩が戦わざるを得なかったのは、前藩主・容保の首を執拗に求められたからです。

そこで藩として、受け入れられる最も重い処分が、家老の首でした。

箱館戦争へと転戦した西郷頼母以外から、その死が選ばれます。
選ばれたのは、萱野権兵衛でした。浩のみならず、容保、会津戦争を戦い抜いた照姫らが涙をこらえ、その死を弔ったのでした。

この萱野家はその後、権兵衛二男・郡長正も悲運な迎えます。
明治4年(1871年)、豊津藩留学中に自害したのです。

享年16。食べ物のことでこぼす手紙を級友が拾いからかわれ、会津武士としての面目を保つための死とされています。
覚悟の最期として美化されることすらありますが、ストレスによるいじめ自殺の例ではないでしょうか。

山川家の運命も、変貌していきます。

兄弟ともに猪苗代で恭順措置となりましたが、健次郎は脱出し越後へ。
奥平謙輔の従者として過ごしたあと、アメリカへと向かうのです。

会津藩士・秋月悌次郎と長州藩士・前原一誠の交流が、この少年の道を変えていくのでした。

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斗南藩、何もねえ!

明治以降、会津藩士の運命は引き裂かれていきます。

会津に留まる者。
新天地を目指す者。
誰も彼もが波乱万丈でした。

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松平容保が世間の騒乱から身を引く中。
藩士を率いるリーダー格の人物が求められるようになりました。

浩の義兄である梶原平馬や原田対馬のように、ひっそりと世間から身を隠す者もいる中。
最年少家老かつ「知恵山川」とされてきた浩が、そんな真似をするわけにはいきません。

本人だってまだ24歳。
隠居するわけにもいかない。

むしろこれからの人生です。

しかし浩はここで、人生屈指の大失敗をしてしまったのかもしれません。
それが、斗南藩への移住でした。

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これが色々と誤解の多い話でもあります。
詳細は引用先の記事をご覧いただくとしまして。

浩の感慨は、なかなかきつい和歌にまとめられております。

みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ

【会津弁意訳】東北地方の斗南がどんな土地かと人に聞かれたら、原始時代まんまの国だと答えればいいべさ

いや、あなたが選んだんでしょ!
開拓する会津藩士側の問題もあるでしょ!

それはその通り。
武士が新天地で農業や漁業をする――その時点で、無理があるのです。

現地民ともぶつかりあい、関係者全員がもれなく不幸になるような状況でした。

最大の責任者とみなされた山川は、「あいつを斬れ!」と何度となく糾弾されていたほど。
山川家がおからを買ったことすら、贅沢だと批判対象となりました。

それでも現地に根付いた会津藩士はおります。
現地同士の交流は現在もあります。

ともあれ、会津側がともかく斗南はダメだった、ひどすぎた、やってらんねと言いすぎて、青森県民の皆さんからすれば、どうしたものかという印象はあるかもしれません。

ここは冷静になりましょう。

元は明治新政府が悪いんだべした!

斗南の情報を制限した上に、藩士を養えないほどの候補地を選択肢に入れた側が、最大の責任者ではないでしょうか。

この斗南藩に関しては、ある犠牲者がおります。
八重最初の夫・川崎尚之助です。会津藩士のために罪を被り、獄死にまで追い込まれたのです。

その史実すら隠蔽され、
「妻・八重を捨てて会津戦争から逃げた卑怯者」
とすら、誤認されて来ました。

その名誉回復がなされた作品が、2013年『八重の桜』でした。
大河ドラマ放映により研究が進み、彼の誤解はやっと解かれたのです。

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この斗南藩での暮らしは、山川家も辛いものでした。

末妹・咲は、北海道のフランス人夫妻の養女へ。
末弟・健次郎は、北海道開拓使枠のアメリカ留学生へ続く道へ。

海を越えて、家老の血を引く少年少女が旅立ってゆきます。

「賊軍にも留学チャンスを与えた明治新政府って、すごく平等!」
という認識もあるようですが誤りです。

女子留学生は「まっとうな親ならやらない」とみなされ、負け組ばかりが派遣されたものでした。

勝ち組子女は、そんな命の危険もあるようなことはさせられていません。
おまけに計画もずさんで、帰国後、彼女らの経験知識を持て余してしまう、そんなお粗末さでした。

男子留学生にせよ、健次郎はレアケースです。
大半は薩長や勝ち組が派遣されております。

その中で健次郎が目立っているのは、彼が際立って優秀であったから。
そもそも健次郎が選抜されたのも、前述・前原一誠と秋月悌次郎に交流あってのことで、明治政府の方針とは別問題です。

口減らしという、深刻な財政問題もそこにはあったことを忘れてはなりません。

アメリカでは不安だろうけれども、兄と妹ならば、よいかもしれない。そんな思惑もあったのでしょう。

 


東京の会津っぽ

浩は上京します。

会津藩士も、進路はそれぞれ。
みんな違って、みんな苦労をしました。

地元会津に残っても辛い。
薩摩出身の鬼県令・三島通庸がやってきて、会津人同士が傷つけあう地獄に突入。

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北海道に開拓民として渡った先では、網走監獄看守にされたり。
ヒグマと戦ったり。
屯田兵として、あるいは第七師団兵として日露戦争で苦労を重ねたり。

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「やーねー、会津の人って。いつまでも会津戦争のことをうだうだ言って……」
なんて言われますけど……。
明治以降、ベリーハードモードを歩まされたんだべした。

さて、当時の東京は――。
会津人にとって、残酷なことも多い町でした。

柴五郎は、家族の女性が自害したことを、話のネタにされた屈辱を覚えております。

明治3年(1872年)、元会津藩士・河原勝治は、斗南藩を経て一時的に土佐藩邸におりました。
そのころ料理屋で、こんな相撲甚句が盛んに歌われておりました。

「愉快極まるこの夜の酒宴、中にますら男の美少年〜」

(愉快極まりない今夜の酒宴には、勇敢な美少年もいる)

一見、無害そのものの句に思えますが、果たしてそうではありません。
会津戦争を題材にしたものでした。

戦争の最中、土佐藩士は70を越えた老人が槍を振るう姿を見ました。
なかなか強く、土佐藩兵の腰を槍で突いてきたため、射殺したのです。

この老人の傍には、14、5歳の少年がいて、これも槍を振り回しているのです。生け捕りにしようとしても叶わず、少年も射殺されました。

老人は佐藤與左衛門74歳。
少年は孫の勝之助14歳でした。従軍できない年齢ながら、彼らなりに戦ったのです。

その夜、宿屋で土佐藩兵が酒宴を開きました。
このとき昼間射殺した少年の首を大皿に乗せて、酒の肴としました。

そしてあの句を、土佐藩兵は大声で歌ったのです。

「愉快極まるこの夜の酒宴、中にますら男の美少年〜」

その記憶と共に、この相撲甚句は大流行します。
そこまで無神経極まりない人々がいる中で、会津人が生きていくことがどれほど、厳しかったか――。

山川家も、東京に移ってから苦労しっぱなしでした。
しかし、こんな話も。

山川は、自身が貧乏であるにもかかわらず、さらに貧乏な会津藩士の面倒を見なくてはいけませんでした。

その中に、会津戦争以降、新選組隊士というより会津藩士になった斎藤一こと藤田五郎もいました。
彼もよく山川家で酒を飲んでいたそうです。

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無口でシャイな斎藤は、本音をなかなか言いません。

新選組隊士の永倉新八すら、ほとんど会話をしていなかったとか。

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それでも酒が入って、相手が山川家だと喋り始める。
斎藤のミステリアスな人生をたどるためには、山川家の証言が大変重要なのです。

山川家は、ともかく常時貧乏でした。
しかも貧乏なのに、浩は奇妙な実験趣味がありました。

「なじょして三毛猫はメスばかりなんだべ……オスを増やすことはできねえべか?」

三毛猫のオスを産ませる実験をした結果、猫屋敷に。悪質ブリーダーかっ!
と、これは家族の反対で中止に。

ただ、純粋にペットとしても猫は好きだったようです。
健次郎は孫相手に、猫の鳴き真似をしていたとか。

「カケスは賢いべした。オウムみてえに喋れんでねえが」

と、動物や人の声を真似させる実験をする。
当たり前ですが人の言葉は喋れません……って、何をしているんでしょうか。

これもある意味、血筋かもしれません。

会津藩の教育方針のためか。
かけ算九九すら17歳まで知らなかったと回想する健次郎は、科学者として大成します。

祖父・重英の種痘導入にせよ。
この浩の奇妙な実験にせよ。
山川家の人々は、科学技術および語学に適性があったのでしょう。

「メンデルの法則」で知られるメンデルは、山川と同じ19世紀の人です。
彼の遺伝論で、三毛猫のオスが生まれない理由も説明はつくのです。

ダーウィンだって、19世紀の人。
この時代は、人類が新たな科学技術に目覚め始めた時代であり、山川浩の奇行も、時代の流れと一致すると言えました。

そしてこの時代には、会津から医学で世界で貢献する人物も登場しています。

野口英世――。

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世界規模の科学への目覚めが、会津にまで及んでいたのかと思うと、面白いものがあります。

浩の場合、パンジャンドラム系の発明に突っ走りかねない、イグノーベル賞めいた暴走癖も、若干案じられますが。

それでも山川浩は、優秀だべした。

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会津と長州、その絆

兄・山川浩は武士そして軍人として生きることになります。
そのきょうだいが学術を志したとしても、何ら不思議はありません。

健次郎に手を差し伸べたのは、前述の秋月悌次郎と交流のあった長州藩の人々でした。

会津と長州は、不倶戴天の宿敵とされています。
ところが、奇妙なことにそれだけではありません。

切腹から唯一生き延びた白虎隊士・飯沼貞吉。
彼は長州藩士・楢崎頼三に連れられ、長州へと向かいました。

「さだサァ」

貞吉は、長州でそう呼ばれていたのです。
楢崎は、生き延びた命を使えと貞吉を諭し、勉学の道へと導きます。

仇と思っていた長州の人々は優しく、彼は戦争で傷ついた身と心を癒されたのでした。

興味深いことがあるとすれば、会津藩士と交流のある長州藩士は、不平士族の乱で命を散らす者が多かったことでしょうか。

会津藩士すら差別しない――そんな志が明治政府と相入れなかった可能性も思い浮かんでしまうのです。

では、一体誰が山川健次郎を助けたのか。

・奥平謙輔

・前原一誠

長州藩士として幕末の風雲をくぐり抜けた。
だからこそ、明治政府の堕落が許せなかったこの二人は「萩の乱」で命を散らしました。

会津藩士・永岡久茂も「萩の乱」に呼応した反乱を起こし、結果、獄死しています(「思案橋の変」)。
米沢藩士・雲井龍雄も、こうした反乱に応じて刑死した俊才です。

彼らと交流のあった健次郎は、もう少し年長者であれば……反乱に巻き込まれていた可能性は考えられましょう。
健次郎は永岡を警視庁に密告した会津人二名を、激しく憎悪していたと伝えられています。

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長州藩の歴史は、幕末から明治にかけて、大変難しいものがあります。

会津藩のような、藩が一致して敗北した場合ですと、負けた側の声が残りやすい。

一方で、長州藩となると、藩内での勝利者だけが自分たちの意見を通し、負けた側は存在そのものすら抹消されかけます。
「正義派」と「俗論派」の関係は、その最たる一例でしょう。

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旧会津藩士が手がけた戊辰戦争史は、史料紛失のために価値が劣るとされています。
ただ、これは注意した方がよろしいかと思います。

薩摩藩と長州藩関係にも、存在ごと抹消されたブラックボックスのような部分があります。

赤松小三郎田中河内介がその典型例です。

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厄介なことに、司馬遼太郎氏の著作や大河ドラマでイメージが増幅され、訂正が追いついていないような状況すらあります。幕末史の研究は、そんな中日々進んでいるのです。

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奥平にせよ、前原にせよ。
長州藩出身者のメインストリームからは忘れ去れてゆく中、健次郎は忘れませんでした。

彼は後年に名を成してからも、恩義ある長州人を師であり恩人として崇め、その功績と高潔な人格を語り継いでいったのです。

健次郎は、長州人を含めた多くの人々の助けを借りて、アメリカ留学も果たしております。
これもなかなか複雑な話です。

薩長出身の留学生が、まったくやる気を出さない。
これではダメだ、ハングリー魂を持っている賊軍に期待しよう!
黒田清隆はそう考えたのでした。

薩摩出身の黒田清隆が、数合わせで庄内と会津から各一名入れるくらい送ったらどうかと思いついた。そういう話です。
健次郎の背後には、やる気のない薩長出身留学生が大勢いた、と。

福沢諭吉の留学ノウハウを学んでいたものの、そのアドバイスにあるように梅干しを持っていくこともできません。

船旅の最中、日本で最初にカレーライスを食べた人物となりつつ、彼はアメリカへ向かうのでした。

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ちなみに、薩摩と会津の関係ですが……。

会津戦争で、会津女性の強さに感服した薩摩藩士は、嫁にするなら会津の女がいいと思ったそうでして。
明治時代には、会津と薩摩という夫婦が複数存在しております。

大山巌と捨松だけではなく、新島八重の親友であった日向ユキもその一例です。
この結婚に八重は驚きましたが、ユキの結婚を知ると薩摩出身者への敵意を捨て去ったのでした。

山本覚馬は薩摩藩で囚われたものの、その才知を見出されました。
藩という枠組みを超えた人と人との交流には、血の通ったものがあるのです。

 

科学にめざめる健次郎

前述のとおり、浩はオスの三毛猫に興味津々であり、この家は理系に適性があったようです。
健次郎は留学後、なみなみならぬ熱意と緊張感を帯びていました。

山川家の家系は、ともかく税金の使い道にうるさい傾向があります。

国費留学ならば無駄にはできねえべ。
そんな並々ならぬ熱意で、彼は現代でも通じる留学生としての熱意を見せます。

・日本人同士で交流してはなりませぬ

→英語習得のためにも、日本人との交流を最低限にすべし。なるべく日本人がいないところへ向かおう!

→これが大正解。同じ日本人同士でつるみ、勉強をしない日本人留学生は軽蔑されていました。

・キリスト教を信じてなりませぬ

→会津藩は、蒲生氏郷統治時代はキリシタンが多い土地でした。
しかし、健次郎からすればどうでもよいこと、関係ありません。

なお、保科正之以降の会津藩は、神道が盛んでした。
日本人は宗教には寛大だと誤解されておりますが、土津神社以下、会津藩内の自社仏閣は会津8戦争において大被害を受けていることを忘れてはなりません。

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→科学的な思考が強いためか、宗教そのものに疑念があったと目されることも。生真面目なためキリスト教は禁教であり、それを信じることは国に背くことだという意識もありました。妹・捨松の受洗をなんとしてもさせないよう目を光らせていたのです。

→そのため、山川家の人々は新島八重、山本覚馬、井深梶之助らとは違います。

健次郎は向学心を燃やし、イェール大学で学ぶことを目標にしました。そうして健次郎はニューヘイブンで日々を過ごしていたのです。

ところが、寝耳に水の凶報が届くのです。
帰国まであと一年半というところで――。

「学費を打ち切る。帰国せよ」

勉学を楽しみにしている健次郎。
実績をあげつつある健次郎。
驚天動地の知らせでした。

「なじょすてこっだことが!」

愕然とする健次郎。
これも、明治初期の行き当たりばったりな方針のせいでした。

明治時代の留学生と言いますと、健次郎のような国を思う熱心な像が連想されます。

ところが、そうでもありません。
薩長土肥、いわば勝ち組の藩は、自国からの留学生を各国に送り込みます。それは血筋や人脈重視で学力まで吟味されていないのです。

異国に放り出され、勉強が大嫌い。
そんな留学生が国外でどうなるか?と言いますと。

・日本人同士でつるんで英語を習得しない

・やる気が出ないし、言葉も通じないから遊んでばかりになる

・「日本の留学生、最悪ですね……」と、国際的な評判すら下落する

これは健次郎のいたアメリカだけでもない。

ドイツでもあの『舞姫』モデルのような、ただの最低としか言いようがないこともありました。

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「じゃあ、留学生の学力審査でもすればいいじゃない!」
と思うでしょうし、常識的に考えればそうすべきであります。

明治政府は、その一手間すら惜しんだようです。
200名にも及ぶ留学生を一斉帰国させることにしたのでした。

落ち込む健次郎。
そんな彼に、学友のロバート・モーリスが相談に乗ってきました。

「伯母のルーシー・ボールドマン、ハンドマン夫人に会ってみないか?」

彼はそう勧めてきました。
聡明な篤志家である彼女は、学業を応援する志がありました。そして富豪でもあったのです。

異国からやってきた、意欲あふれる青年。
彼の話を聞いて、ハンドマン夫人は援助を快諾します。

「でも、条件があります」

健次郎は、身構えました。
キリスト教への改宗ならば、引き受けられないと考えていたのです。

「無事に学業を終えて帰国したら、力の限り、あなたの国に尽くしなさい」

ハンドマン夫人にとって、自分の援助で日本という若い国家が育ちゆくことは、この上ない喜びでした。

明治政府の留学生事業は、山川健次郎にせよ、津田梅子にせよ、アメリカの篤志家が助けなければ破綻しかねないものだったのです。

賊軍の会津藩士でも平等に留学できた。
だから明治政府は偉大で差別はなかったと言われることすらあります。

そうではありません。
分け隔てなく健次郎を支援したのは、秋月と交流のあった奥平や前原のような個人でした。

そして学業が途切れなかったのは、明治政府ではなくハンドマン夫人の援助あってのことです。

山川健次郎を、明治政府の平等の象徴とすることは誤解があるのです。

 

浩、陸軍出仕する

三毛猫チャレンジやカケス実験は、あくまで浩の一面であり、生活が落ち着いてからの奇行です。

その前に、明治になってもまだ若く血気盛んな浩には、道がありました。

明治という時代において、いかにして出世すべきか?

「四民平等」はあくまで表向き。
庶民まで藩閥政治や人脈に縛られて苦しんでいた時代の到来です。

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会津藩士のような人々は、出世ルートも限られてきます。

・政治
→藩閥政治時代です。榎本武揚のような技量でもなければ、明治新政府にポストはありません。
「薩長の人にあらざれば、人間にあらざる者の如し」という嘆きすらあったほど。

・経済
→政府や藩とべったりと癒着した商人の独壇場。西郷隆盛も嘆くほどの汚職ぶり。
これまた渋沢栄一でもなければ、ポストなし。

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・社交界
→お姫様だろうがなんだろうが、そこは格差社会ですわ。

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・北海道
→「流刑と開拓一石二鳥!」状態の北海道ですら、上層部は薩長土肥。
会津藩はじめ東北諸藩出身者はコキを使われる。つらい時代です。

門倉はどこ出身?
『ゴールデンカムイ』門倉利運は会津藩士か仙台藩士か?そのルーツを徹底考察!

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・アメリカ・カリフォルニア州
→幻の“ワカマツコロニ”ーってご存知ですか?
明治時代初期、会津人がカリフォルニアへ向かいました。会津藩と取引のあったプロイセン商人・スネル兄弟が率いて、ゴールドラッシュに枠西部へと移住したのです。
しかし、ずさんな計画であったのか頓挫。残された会津人は、異国の地でひっそりと生きて行くこととなったのです。

大正5年(1916年)におけいという19歳女性の墓が発見されるまで、彼らの痕跡は歴史から消え去っていたほど。

和月伸宏氏の漫画『GUN BLAZE WEST』には、会津出身・侍の血を引く女性コリス・サトーが登場します。
彼女のモデルは、この移民たちかもしれません。

西部劇に会津侍の娘だって?
設定としては十分ありえます。
会津武家出身女医である『るろうに剣心』の高荷恵とも関係がもあったのかもしれませんね。残念ながら連載終了のため、このあたりは不明です。惜しい!

とはいえ、捨てる神もあれば拾う神でして。

薩摩藩士としては身分が低く、苦労を重ねてきた川路利良。
抜群の叡智で出世を遂げ、現在の警視庁を築き上げた偉人です。

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そんな彼が目をつけたこと。
それは武士の持つ武術でした。警視庁は、旗本や会津藩士を大量に採用したのです。

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その中には、あの斎藤一もおりました。

和月伸宏氏の漫画『るろうに剣心』に藤田五郎が出てきて「牙突」をするのも、川路の叡智あってのことです。

 

そして山川浩にも、熱いまなざしが送られます。

明治5年(1872年)末――。
山川家に、一人の土佐藩出身者がやってきました。

谷干城37歳です。
日光口で聞いた山川大蔵の名を、彼はずっと忘れられませんでした。一方の浩はそんなこと露知らずなわけで、いわば谷側の片思いです。

このとき、谷は完全に浩にハートを撃ち抜かれた状態と言いますか。

「初対面なのに、付き合いの長い旧友みたい……」

話を盛ってはおりません。谷本人の回想意訳です。
出会ってすぐ、戊辰戦争の回想どころか、日本の行く末まで熱く語り合ったそうです。

谷はこのとき、少将です。
山川に、ぜひとも陸軍に出仕してくれ、推薦すると勧めてきます。

歳が暮れようとする中、浩は「それならやってみっぺ!」とこの依頼を快諾したのでした。

どうしてこんなに急ぐのか?
その背景には、政情不安定があります。前述の通り士族反乱の契機が高まっていたのです。

一年を経て、山川浩の陸軍人としての初陣は「佐賀の乱」となりました。

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士族反乱といいますと、前述の奥原や前原が政府から処断された悲劇として語られがちです。
永岡久茂も加わっていることを思えば、会津藩士同士も対立した構図が見えてきます。

明治政府のスタートは、波乱に満ちていたのです。
浩はそれに巻き込まれました。

「佐賀の乱」では、あまりに防衛側がお粗末。それに振り回され、浩は苦い思いを味わいます。
左腕肘の粉砕骨折により、片腕が動かなくなってしまったのでした。

喪失はそれだけではありません。
妹・操の夫である小出光照が傍で戦死を遂げたのです。
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