2014年後期の朝ドラ『マッサン』。
それを遡ること実に24年前の1990年、スコットランド人女性と日本人男性の愛を描いたドラマがあったのをご存知でしょうか?
『ジンジャー・ツリー 異国の女』(◆NHK名作選)
二人の出会いの地は、日本でもスコットランドでもなく、清。
ヒロインが恋に落ちた日本人男性の将校モデルが柴五郎でした。
国際的にも注目を集め、小説やドラマで描かれた人物です。
かつて、それほどまでに名高い日本人が存在していたのですが、現在ではほとんど注目されることもありません。
それは一体どんな人物だったのか?
万延元年(1860年)5月3日に生まれた、柴五郎の生涯をたどってみたいと思います。

柴五郎/wikipediaより引用
戦火に消えた柴五郎の家族と故郷
柴五郎は安政6年(1859年)、280石の会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれました。
誕生の6年前、嘉永6年(1853年)に黒船が来航。

ペリー来航/wikipediaより引用
幕末へ向け、時代が急激に動く中での生誕です。
五郎がまだ幼い文久2年(1862年)、会津藩は強引に「京都守護職」に任ぜられると、藩士の男性たちが上洛していく中、その留守を守る妻子は寂しく、不安な日々を送ることになるのでした。
まだ少年の五郎は、家族と使用人に囲まれ、平穏な日々を送っていました。
変わったことといえば、毛のない頭を見ると恐怖を感じて泣き出すことくらいです。おとなしい五郎を、母はじめ周囲の人々は可愛がって育てました。
諏訪神社のお祭り。
姉との喧嘩。
親の叱責。
そうした良き思い出が、五郎の胸に刻まれていきます。
そして慶応4年(1868年)秋、8月21日――。
「五郎、面川沢に行ってきっせ」
幼い彼に、母はそう促しました。
そこには山荘があり、旬の松茸、茸狩りや栗拾いが楽しめるのです。秋の味覚を楽しみにして、五郎は家を後にします。
この少し前、兄の四郎は母・ふじからこう告げられていました。
「四郎、にしは城さ行け。会津武士として、父上のもとでしっかり戦ってきっせ」
このときは涙をぬぐっていた母も、五郎には笑顔を見せていました。
山荘についた五郎は、幼いながらも胸騒ぎを覚えました。
家に戻ろうにも、城下町では人が殺到しているのです。山荘の前にも人だかりができ、激しく降りしきる雨の中、暗い顔で皆佇むばかりです。
そこへ大叔父がやって来て、五郎に告げました。
「柴家のおなごは立派な最期であった。足手まといになると城に行かず、自刃した。介錯して、火を放って来た……」
祖母・つね、享年81。
母・ふじ、享年50。
兄嫁・徳子、享年20。
姉・そい、享年19。
妹・さよ、享年7。
その話を聞いて、五郎は涙も出ないまま、気が遠くなって倒れてしまいます。柴家の女性で生き延びたのは、次女・つま一人だけでした。
一家全滅の危機もある中、男児である五郎を助けようと、母は彼を送り出し、そして死を選んだのです。
会津若松城下では、柴家のような悲劇が多くありました。
家族の遺骨を紙袋に入れながら
同年11月――。
会津若松開城後、山荘に潜んでいた五郎は百姓の身なりをして、家まで戻りました。
「鶴のようだ」とされていた城は、砲撃で見る影もなく崩れています。
灰と瓦礫の山と化した屋敷で、幼い五郎は気が遠くなり、座り込んでしまいます。
そんな五郎に、伯母は箸を渡しました。
家族の遺骨を拾わねばならないのです。紙袋に骨を入れながら、五郎は涙が止まりません。
この焼けてしまったものが、家族だなんて……。涙があとからあとからこぼれてくるのです。
藩首脳部や藩士たちが戦後処理に追われる中、五郎は会津の家で暮らし続けるしかありません。
柿の実を売り食いつなぐような日々が続きます。
寒い冬の日は、どうしても思い出してしまいます。
あたたかい服を着せてくれた、母の指のぬくもり。母の膝で眠ったこと。もう二度と味わえぬ暖かさです。
明治2年(1869年)、ボロボロの姿のまま、藩士とその家族は東京の俘虜収容所へ連れて行かれました。幼い五郎まで、配慮のないまま東京で過ごすほかないのです。
そこから釈放されても、会津藩士の苦難は続きます。
五郎は土佐藩士・毛利恭助吉盛の「学僕」とされました。
現在でいうところの、奨学生といったところでしょう。学びつつ、働くという身分……というのは名ばかりで、事実上の使用人でした。
提灯を捧げもつ。
馬の世話をする。
そうして働かせるのです。
ある日、五郎にとって屈辱的な出来事がありました。
料亭にお供していたところ、主人から来るように呼び出されたのです。
その場へ向かうと、酔っ払った主人の周りに何人もの芸妓がおり、三味線を抱えておりました。
「この小僧は会津の武士やか。母も姉妹も、自害して死にちゅう」
すると芸妓たちは、彼を取り巻いてまるで哀れな犬の子でも見るように、同情してくるのです。
五郎は悔しくて、悔しくて、涙をこらえていました。
母や姉妹の死を、宴会の話題にされるとは!
幼心に、悔しさが刻まれます。五郎にとって明治維新は苦難の始まりでした。
斗南で生きることこそ、会津武士の戦
そんな会津藩士たちに、ある決定が届きます。
斗南藩に向かうべし――。
新天地での御家再興とされるこの命令に、藩士は従う他ありません。
決定まで、藩首脳部では様々な議論がありましたが、五郎のような少年には知るよしもない話です。
明治3年(1872年)5月半ば、会津よりさらに北で、「天子の領地だ」とされる場所へと、会津藩士たちは出立するのでした。
到着してしばらくの間は、貧しいながらも 困窮とまでは行かずに生きてはいけました。
問題は寒波到来以降です。
収穫もできず、かといって兵糧を買うにせよ金もない。
生活用品すらままならない中、餓死しないことだけが目標となる、辛い日々が続きます。会津に生きてきた彼らでも、その寒さは耐え難いものがありました。
蕨といった山菜をすりつぶす。
流れ着く海藻を薄い粥に入れる。
こうした粥は、オシメ粥と呼ばれました。
死んだ犬の肉を食べたこともあります。
五郎の回想では犬の肉はまずかったとありますが、これは後世の美化もあり、当時はごちそうだと思えたそうです。
栄養失調のため、毛髪が抜けるばかりか、脚気にもなりました。こ
のころの会津藩士は、斗南以外でも飢餓と誇りの板挟みにあったのです。
ここで餓死しては薩長の笑いもの、生きることこそ会津武士の戦――そんな父の言葉を五郎は書き記しています。
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斗南藩の生き地獄|元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑
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明治3年(1873年)には、会津藩家老・萱野権兵衛の子である郡長正が、留学先の豊津藩で自殺しました。
食糧難をこぼす手紙を拾われたため、会津武士の誇りを取り戻すための死とされています。
後世の潤色も考えられますが、会津藩士の子弟が逆境にあり、飢えていたことは十分に考えられるのです。
政治と戦争は、子供まで巻き込み犠牲にしたのでした。
いざ上京
明治4年(1874年)、五郎は青森県給仕として出仕――。
そんな中、なんとかして上京し、学びたいと友人と考え始め、翌年、大蔵省の役人に「東京で学びたい」と訴えることにしました。
五郎はまだ十代前半ながら、冷たい目を明治政府に注いでいたことが窺えます。
県庁に出入りする役人たちとその妾が、花見だ芝居だと浮かれ騒ぎ、豪華な着物や袴を買い漁り、飲み食いしていたと記憶しているのです。
飢餓に苦しむ五郎たちにとって、彼らの腐敗は残酷なまでの格差でした。
とはいえ、非情なことばかりでもありません。
訴えを聞いた青森県大参次・野田豁通(のだひろみち)は五郎に、東京にツテはあるのか?と尋ねます。
五郎は、兄・四郎や秋月悌次郎らの名前をあげ、必死で食らいつきました。

秋月悌次郎/wikipediaより引用
訴えはようやく認められ、明治5年(1875年)、五郎は上京を果たします。
その後、ある会津の重要人物も上京します。
山川浩です。
斗南藩を移住先と決めたため、幾度となく殺害予告すらされた山川。
彼は砂鉄からの製鉄、缶詰製造といった奮闘をするものの、廃藩置県で無意味となりました。
上京し、文明開花にふれて、呆然とする五郎。
彼は山川家を頼りにするよう案内され、そこを訪れたのです。
山川邸には既に旧会津藩士が入り浸っていたものの、そこは断れません。山川家は困窮を見逃せないのです。
五郎を迎え入れ、一家の母・えんと常盤は、捨松の残していった着物を 仕立て直して彼に着せたのでした。
後に大山捨松となる山川の妹は、アメリカ留学中でした。

大山捨松/wikipediaより引用
薄紫に桃色で、どう見ても女物ではあります。どう見てもおかしいとはいえ、そのぬくもりとやさしさが五郎を包み込みます。
会津戦争以来、忘れていた安らぎがあったのでしょう。五郎はそのことを覚えています。
彼はしばらく、女物の着物に袴で過ごしたのでした。
陸軍幼年少年隊への入学を果たす
働きながら生きる五郎。
そんな彼に、陸軍会計一等軍吏に就任した野田豁通がある話を持ってきました。
「陸軍幼年少年隊(のちの陸軍幼年学校)の募集試験を受けてみないか? 合格すれば陸軍士官だ。武士の子なれば、不服はないだろう」
五郎はこれだと食らいつき、必死で受験勉強に励みます。山川家にこのことを告げると、二つ返事で承諾されたのでした。
しかし山川家も生活が苦しいのか。
この間に五郎が貯めていた13円50銭を借りております。
明治6年(1875年)、五郎は何度も何度も兵学寮を訪れ、合否を気にしていました。そして3月末、ついに合格だと結果がわかったのです。
雲の上を踏むような喜びでした。これを聞いた山川家も、同じくらい喜びました。
山川浩は素早く行動します。

山川浩/wikipediaより引用
浩は五郎から借りた金を持ち、6~7円を使って軍服一式を揃えました。
幕末にロシアを訪れ、洋式軍服を着ていた浩です。ピンとくるものがあったのでしょう。山川家の皆は嬉し涙をこぼしていました。
野田豁通も、大喜びです。
「これでよか、これでよか」
よか、よか……そう繰り返す野田を、山川と並ぶ大恩人として、五郎は記憶しています。
陸軍人の道
陸軍人の道を歩み始めた五郎。
当時はナポレオン戦争の影響もあって、フランス式でした。
会津訛りのためかフランス語の発音は苦手であり、この科目はいつも悪い方でした。
辛いのはフランス語くらいでした。
食事の洋食。学友は まずい、不自由だとこぼしますが、五郎にとっては天国です。斗南の飢餓と比較すれば、それも当然でしょう。
夏休みは、どこにも行き場所がありません。
野田豁通の家で下僕として働いていたところ、ここに出入りするある書生に呼び出されました。
「きみは陸軍人になるために、学校に通っているのだろう。国を守る志がありながら、どうして下僕の真似をする? ここから出て行きなさい」
そう諭され、彼はその通りだと思い、有坂成章の家に下宿することにしたのでした。
五郎は、激動の陸軍初期を味わっていました。
級友よりも貧しく粗末で、学内では薩長土肥が目立つ構造です。
普仏戦争を受け、フランス式からプロイセン式に変わる制服と授業。兄・四郎の病。
更には国内各地で、不穏な気配が感じられるようになります。
明治9年(1876年)秋からの不兵士族の反乱。
最後は、明治10年(1877年)の西南戦争でした。

フランスの新聞に掲載された西南戦争の様子。中央の西郷らしき男は、軍服を着て髭をたくわえています/wikipediaより引用
このときは、兄・四郎が出征してゆきます。
会津武士たちは、これぞ薩摩への雪辱として、堂々と鹿児島を目指していたのでした。
彼の恩人・山川浩も大活躍を遂げております。
一期生は、この内戦で30名ほどが戦死を遂げました。
その熱気が伝染したのか。二期生と三期生で乱闘が起こるといった余波もありました。そして、この歳の暮、五郎は特科受験し、優秀な成績で合格します。
西郷に続く大久保の死とは
明治11年(1878年)には、大久保利通暗殺の報が五郎にも届きました。
西郷と大久保――。
薩摩が生んだ両雄にして「維新三傑」は非業の死を遂げたことになります。
明治維新の際に陰謀を企て、耳目を集めるために会津を血祭りにあげた。いかに国家の柱石といえども、許せるわけもない。
自らの暴走、専横の報いをその命で償った。暴走の結果で、同情する気なぞ沸くはずもない。
非業の最期は当然の帰結だ――。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用
それが五郎の思いでした。
若気の至りだからと、このことを反省するはずもない。のちに彼は、そうきっぱりと言い切っています。
とはいえ、彼の陸軍士官学校時代の親友には、薩摩出身の上原勇作もおります。薩摩出身者全員のことを嫌いというわけではありません。
明治12年(1879年)、五郎は陸軍砲兵少尉となりました。
故郷を血の海に沈めた両雄の死。
そして砲兵少尉任官をもって、五郎の人生には一区切りついたのです。
会津若松落城の折わずか8歳だった少年は、19歳の青年士官となったのでした。
卒業と同時に少尉になれるわけでもなく、優秀であったからこそ。この歳、五郎は11年ぶりに会津に戻り、墓参をしたのでした。
明治15年(1882年)には、父が死去。
兄たちもそれぞれの道を進んでいます。
会津の兄弟は、彼らの道を模索していました。
清で偵察の日々から日清戦争へ
士官になってからの五郎は、勉強もそこまで熱心ではなかったようです。
砲兵は工学知識や計算が求められますが、彼はこの手の勉強は苦手でした。
ただし、中国語習得だけは熱を入れていたようです。
語学力が認められたこともあるのでしょう。明治17年(1884年)、陸軍中尉として清国行きを命じられます。
阿片戦争後、辛亥革命の間にある清――。
明治21年(1888年)、大尉に昇進すると、明治22年(1889年)からは、福州にて特別任務についております。
身分をやつしながら、彼は清の偵察をします。
チフスに罹り苦しめられたこともありました。
満州、朝鮮半島まで偵察しており、明治政府の方針もうかがえるのです。
帰国したのは明治23年(1890年)のこと。陸軍士官学校教官等を経て、明治25年(1892年)には参謀本部に移りました。
そして中村くまゑという女性と結婚しています。
谷干城と同郷の縁者でした。山川浩と谷干城は友人でしたので、そういった関係もあるのでしょう。

谷干城/wikipediaより引用
翌年には女児が生まれたものの、くまゑは出産後に亡くなってしまいました。享年20。
そんな中、国際情勢は動いてゆきます。
明治27年(1894年)、イギリス公使館附心得後に帰国し少佐、大本営参謀となりました。
そして明治28年(1895年)4月、ついに日清戦争が開戦するのです。
日清戦争において、清の指揮官がいかに無能であったか。
朝鮮の明成皇后(閔妃)がいかに悪辣であったか。
そういう話は、ここでは詳細を省かせていただきます。日本側の見方による書籍なり、記事は多数あるかと思います。
ともあれ、日清戦争は日本の大勝利でした。
多額の賠償金。
獲得した台湾という領土。
この勝利で、日本は列強の一員となれるという希望を見出したのです。
脱亜入欧――そんな風が吹いていました。
【眠れる獅子】とされてきた清の脆さが露になると、列強はこのパイを巡り目を光らせ始めます。
日本からすれば輝かしい勝利であっても、清、台湾や朝鮮半島からすればどうであったか。
それは考慮せねばならないでしょう。
五郎の兄・四朗は、文才を活かして東海散士の筆名を持つ小説家として活躍しておりました。
代表作の『佳人之奇遇』をはじめ、彼の小説は日本人が当時持っていた夢と合致するような世界観がありました。
脱亜入欧を果たし、西洋人美女とのロマンスを味わう。そんな世界観です。

東海散士こと柴四郎/wikipediaより引用
明治28年(1895年)、四朗は「乙未事変」に、三浦梧楼と深く関与しています。
開化派に心を寄せていた四朗にとって、その実力者であった金玉均暗殺は、許しがたいものでした。
暗殺の糸を引いていたとされる明成皇后(閔妃)を成敗することは、仇討ちでもあったと考えられるのです。
熱血文人である四朗にとって、これは正義であったとも考えられます。
東洋人が改革をし、手を結び西洋人に抵抗する。
そんな理想に燃えていたと思われます。
その正義が、その国の人から理解されたかどうか。そこは分けて考えねばなりません。
「義和団の乱」のコロネル・シバ
明治30年代の初頭、五郎はアメリカに赴きました。
現地で陸軍や政治を視察。彼が目にしたアメリカの姿は、中南米に攻撃を仕掛けるものでした。
領土と植民地拡大こそが当時の先進国の姿でした。
明治32年(1899年)陸軍中佐へ。

柴五郎/wikipediaより引用
鍋島みつ(鍋島閑叟の姪・結婚時に花と改名)と再婚し、そして明治33年(1900年)に清国公使館附となります。
しかし着任後まもなく「義和団の乱」が勃発するのです。
清末の反乱とは、複数の要素が重なり合います。
・宗教の台頭、武術、そして思想
→中国史における反乱は、しばしば宗教を背景とします。『三国志』幕開けとなる「黄巾の乱」がその典型例でしょう。
中国の場合、武術、思想、宗教の結びつきも無視できません。「義和団」も白蓮教の流れを汲むこうした団体でした。
ブルース・リーのカンフー映画に思想があること。
現在の中国政府による「法輪功」規制にまで関わる流れなのです。
・キリスト教浸透への危機感
→こうした背景は何も中国のみならず、日本でもあることでした。
明治政府はキリスト教を警戒し禁じようとしたものの、反発を受け解禁しています。
中国では「太平天国の乱」が起き、鎮圧されたものの、浸透していました。
キリスト教と西洋の侵食を同一視する流れは当然あり、「義和団」はこうした背景に一致する蜂起なのです。
・侵略への反発
→そしてこれが最大の要因です。
当初、西太后が支援を表明した背景にも、阿片戦争、日清戦争により、侵略される清への危機感がありました。
「義和団の乱」前夜、きな臭い状況に陥りつつありました。
ついに事件も起こります。
ドイツ人宣教師の殺害――。
自国民の保護や、自国民を殺傷しかねない危険性の目を摘むことは、うってつけの開戦口実となります。
【生麦事件】からの【薩英戦争】を思い出していただければご理解いただけるでしょうか。

薩英戦争で鹿児島に押し寄せるイギリスの軍艦/wikipediaより引用
自国公使、宣教師の殺害を受けたドイツは、英仏に遅れじと陸戦隊を続々と上陸。ロシアも続きました。
ロシアは清と自国を結ぶ鉄道「東清鉄道」建設に食指を伸ばしていたのです。背景には1898年(明治29年)「露清条約」もあります。
危機が迫ったら、清を援助するというものでしたが、実際のところ、清の危機に際してロシアが取った手段は、艦隊を派遣し脅すような振る舞いでした。
【義和団の乱】は、こうした西洋諸国の暴虐への反発だったのです。
あまりに無防備であった西洋人やキリスト教徒は、北京に逃げ込みました。
そんな中、11カ国の公使館と8カ国の少数の守備兵がが防衛計画を練る中、五郎は籠城戦で際だった指揮を見せます。
中国語を身につけ、視察により情報を築き上げた五郎の判断は、優れたもの。
篭城戦こそ、その力を生かせる場になったのです。
装備こそ刀槍であるとはいえ、なにぶん数で勝る。
撃退された義和団の面々は、砲火や殺人を行います。
混乱は続きます。
西太后は、一時「義和団」を支援し、列強に宣戦布告を仕掛けているほど。
清朝にも開明派はおりました。粛親王・愛新覚羅善耆は、日本の先進的な改革を手本とするべきだと考えていたのです。
彼は協力的でした。
この粛親王府は、防衛の拠点となりました。
ちなみに彼の第14王女は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくらけんし)、川島芳子の名で知られております。

川島芳子
苦しい食糧。
カトリックとプロテスタントの対立。
焦燥。
物資補給の限界……60日間に及ぶ篭城戦は、非常に苦しいものでした。
それでも五郎は持ち前の語学力や情報収集、観察眼を生かし、水際だった指揮でこの篭城戦を乗り切ったのです。
ヴィクトリア女王はじめ、欧米列強から叙勲されるほどの活躍でした。
イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペイン……「コロネル・シバ」の英名は世界に響き渡ったのです。
帰国すると、五郎は羨望と称賛、それと入り交じる嫉妬を感じるのでした。
「北清事変」における日本からは金鵄勲章功三級でした。
中佐としては異例。
参内し、天皇の手から勲章を授けられる名誉を、かつて賊軍の子とされた五郎は噛み締めたのです。
陸軍人としての栄誉
こののち、柴五郎は陸軍人としての栄誉を邁進します。
明治35年(1902年)陸軍大佐
明治37年(1904年)野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争出征
明治39年(1906年)功二級金鵄勲章を受章
明治40年(1907年)陸軍少将(山川浩以来、会津藩出身者の出世はここまでとされておりました)
大正2年(1913年)陸軍中将
大正6年(1917年)勲一等瑞宝章受章
大正8年(1919年)陸軍大将
ついに会津出身の陸軍大将が誕生しました。
明治45年(1912年)に大将となった、海軍の出羽重遠と並ぶ出世です。
そして昭和5年(1930年)に退役。
長い軍人としての人生が終わります。
明治以来、陸軍は長州、海軍は薩摩の派閥が強いとされておりました。その流れも変わり、柴五郎や出羽重遠のような将が現れます。
軍事だけではなく、大正7年(1918年)には岩手出身の原敬が総理大臣に就任しました。
戊辰戦争で痛めつけられてきた東北が、やっと日本の中枢に現れるようになってきたのです。
歴史の見直しも進みました。
五郎の恩人である山川浩と健次郎はじめ、会津人の記録や著述により、名誉回復のなされてゆくのです。
五郎が退役する2年前の昭和3年(1928年)、松平容保の孫が秩父宮に嫁ぎました。
雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひせつこ)の存在は、会津人にとって「朝敵の時代が終わった」と印象付けるものでした。
二度目の敗戦
しかし、歴史の流れは残酷でした。
大日本帝国そのものが、陰りゆく流れと一致していたのです。
五郎が退役したのちの柴家の運命も、平穏とは言えません。
養嗣子の死去、孫・由一郎が結核で療養する等、不穏な出来事が続いておりました。孫たちの中にも、祖父に先立つものが出てきます。
二・二六事件のあと、もう老齢のを超えた五郎は、世の流れを不安感を持って眺めるしかない状況に陥ります。
そして昭和16年(1941年)、太平洋戦争の開戦――。
悪化する戦局の中、彼はひっそりと戦死者を弔うことしかできません。
昭和20年(1945年)8月15日。
柴家の面々もラジオ放送にじっと耳を傾けていました。
五郎は聞き取れず、娘のみつに尋ねます。
「日本は、敗けたらしゅうございます……」
五郎にとって、人生二度目の敗戦でした。
彼は目を閉じ、うなずきました。周囲の目からは、冷静に見えました。しかし、この老人は悲憤激昂しておりました。
どうして、こんな無残な敗戦を見ないうちに、命を終えなかったのだろうか?
会津戦争で死んでしまった家族の分まで生きるように、ここまで過ごしてきた。
そう思いつつ、彼は日記を焼き捨てます。
自今は、好適の死期に遭わんため、残生中の処置、準備なさんとす
皇国のまたの栄(さかえ)を疑わず
今日のなげきはさもあらばあれ
そして9月15日、遺書を認めます。
陸軍中最古参長老として、この国が踏みにじられる様を見ることはできない。そんな思いがそこにはありました。
夜、皆が寝静まったあと。相州綱弘の脇差を持ち、彼は宮城に頭を下げるのです。
天皇陛下のこと。
そして国家の復興を願い、腹を切りました。
が、老齢であったためか。
四時間切腹をしたものの、数センチの傷をつけることしかできなかったのです。
刃は脂で滑ってしまう。心臓を狙うものの、うまくいきません。夜が明ける中、彼は失敗を悟り止血し、手当てを受けました。
そのあと一進一退を繰り返しつつ、その歳の12月、息を引き取ります。
享年85。
★
柴五郎の墓は、会津若松市の恵倫寺にあります。
幼くして会津戦争で家族を失い、最古参の陸軍人として歩んだ柴五郎。
「コロネル・シバ」としてその名を残し、世界的な名声を得ました。山川浩の少将を超え、大将にまで昇進を遂げたのです。
しかし最晩年、彼は二度目の敗戦を目撃し、自殺をはかりました。
自分が一心不乱に歩んできた道が、どこで間違ってしまったのか?
追いつけ追い越せ、脱亜入欧、列強入りを目指したものの、それは表層的なものに過ぎなかったのか。
そのことを知り、死を選んだ彼の思いは、明治から太平洋戦争までのこの国の歴史を示すものと思えます。
『ジンジャー・ツリー』に描かれるような、高潔な姿――それは日本人の誇り。
そう語ることはできます。
柴の名を、誇りある日本人としてあげることは、しばしば見られます。
けれども、彼が幼少期に見た惨禍。
絶望の中で死を選んだ最期。
そのことも、忘れてはならないことだと思うのです。
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【参考文献】
石光真人『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書 (中公新書)』(→amazon)
村上兵衛『守城の人 明治人 柴五郎大将の生涯』(→amazon)
『国史大辞典』
他









