幕末ドラマを描くとき、取扱が非常にデリケートな事柄があります。
会津戦争です。
戦争そのものの是非を論じるつもりはありません。
厄介なのは、今なお話題になる
・遺体埋葬論争
が根強く残っているからです。
明治元年9月22日(新暦で1868年11月6日)、戦いに勝利した新政府軍が、亡骸となった会津藩士たちの埋葬を許さず、そのまま野ざらしにされ朽ち果てた――。
そんな穏やかではない話があり、今なお会津が長州を憎む要因の一つとされています。
一方で、新たな資料の発表により
「埋葬は許されていた」
という報道もされるなど、幕末ファンも混乱してしまうようなゴタゴタが続いてきました。
一体どうなっているのか?
実は、ほとんど結論が出ており、これからは正しく語り継がれていくべき新たなステージを迎えたと言えるのではないでしょうか。
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阿弥陀寺に眠る新選組の魂
大正4年(1915年)9月28日。
新選組の斎藤一(さいとうはじめ)改め藤田五郎は、東京の自宅にある床の間で、結跏趺坐(けっかふざ)したまま最期の刻を迎えました。
※以下は斎藤一の関連記事となります
謎多き新選組の凄腕剣士・斎藤一72年の生涯 その魂は会津に眠る
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享年72。
彼は遺族にこう言い残します。
「私の亡骸は、会津の阿弥陀寺に葬って欲しい」
遺言通り、斎藤一はその妻・時尾とともに、その場所で眠っています(会津若松観光ナビ→link)。
阿弥陀寺――。
そこは、会津戦争で亡くなった人々の亡骸を埋めた場所でした。
以下の写真が斎藤のお墓です。
改名後の「藤田家之墓」と記された墓石の背後に、やや高くブロックが積まれているのが見えると思います。
その高さ1.2メートル。
何を意味するか?
というと、それこそ【会津戦争で積み重ねた遺体がここまであった】のだと、会津では語り継がれてきたのです。
こうして「会津戦争では、死者の埋葬すら禁じられた」という話も多くの人に信じられてきました。
【埋葬は禁じられていなかった】という資料
実際にそういう話もあります。
飯盛山で自刃した白虎隊士の遺骸を、近隣の住民が憐れんで埋葬したところ、掘り出して元の場所に戻すように命令された――そんな話が伝わっております。
白虎隊にありがちな三つの誤解~例えば全員が自刃したわけではありません
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聞くだけで涙を誘われるような悲劇の数々。
やはり新政府軍は酷い連中だったのか。
そういう疑念が沸々と湧いてくる場面ですが、しかしこれに対して、近年、
【埋葬は禁じられていなかった】
という資料が、会津の郷土史家・野口信一氏により発表されました。
野口氏は、幕末大河の傑作として評価されている2013年『八重の桜』の考証担当者でもあります。
それは一体どんな資料だったのでしょうか。
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