会津戦争の遺体埋葬論争

新政府軍の攻撃を受け損壊した会津若松城/wikipediaより引用

幕末・維新

会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられたのか

薩摩にせよ、長州にせよ、会津にせよ。

幕末ドラマを描くとき、取扱が非常にデリケートな事柄があります。

会津戦争です。

戦争そのものの是非を論じるつもりはありません。

厄介なのは、今なお話題になる

・遺体埋葬論争

が根強く残っているからです。

明治元年9月22日(新暦で1868年11月6日)、戦いに勝利した新政府軍が、亡骸となった会津藩士たちの埋葬を許さず、そのまま野ざらしにされ朽ち果てた――。

そんな穏やかではない話があり、今なお会津が長州を憎む要因の一つとされています。

一方で、新たな資料の発表により

「埋葬は許されていた」

という報道もされるなど、幕末ファンも混乱してしまうようなゴタゴタが続いてきました。

一体どうなっているのか?

実は、ほとんど結論が出ており、これからは正しく語り継がれていくべき新たなステージを迎えたと言えるのではないでしょうか。

 


阿弥陀寺に眠る新選組の魂

大正4年(1915年)9月28日。

新選組の斎藤一(さいとうはじめ)改め藤田五郎は、東京の自宅にある床の間で、結跏趺坐(けっかふざ)したまま最期の刻を迎えました。

※以下は斎藤一の関連記事となります

斎藤一
謎多き新選組の凄腕剣士・斎藤一72年の生涯 その魂は会津に眠る

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享年72。

彼は遺族にこう言い残します。

「私の亡骸は、会津の阿弥陀寺に葬って欲しい」

遺言通り、斎藤一はその妻・時尾とともに、その場所で眠っています(会津若松観光ナビ→link)。

阿弥陀寺――。

そこは、会津戦争で亡くなった人々の亡骸を埋めた場所でした。

以下の写真が斎藤のお墓です。

新選組斎藤一のお墓/photo by Rikita wikipediaより引用

改名後の「藤田家之墓」と記された墓石の背後に、やや高くブロックが積まれているのが見えると思います。

その高さ1.2メートル。

何を意味するか?

というと、それこそ【会津戦争で積み重ねた遺体がここまであった】のだと、会津では語り継がれてきたのです。

こうして「会津戦争では、死者の埋葬すら禁じられた」という話も多くの人に信じられてきました。

 


【埋葬は禁じられていなかった】という資料

実際にそういう話もあります。

飯盛山で自刃した白虎隊士の遺骸を、近隣の住民が憐れんで埋葬したところ、掘り出して元の場所に戻すように命令された――そんな話が伝わっております。

白虎隊にありがちな三つの誤解~例えば全員が自刃したわけではありません

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聞くだけで涙を誘われるような悲劇の数々。

やはり新政府軍は酷い連中だったのか。

そういう疑念が沸々と湧いてくる場面ですが、しかしこれに対して、近年、

【埋葬は禁じられていなかった】

という資料が、会津の郷土史家・野口信一氏により発表されました。

野口氏は、幕末大河の傑作として評価されている2013年『八重の桜』の考証担当者でもあります。

それは一体どんな資料だったのでしょうか。

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