明治2年(1869年)11月4日は会津藩主・松平容保の長男である松平容大の相続が決まり、陸奥国にて3万石の地を領することになった日。
会津の地を去り【斗南藩(となみはん)】として再出発を図るのですが、これが地獄の始まりでした。
もともと会津藩は28万石。
それに対し、新天地の斗南藩は平地が少なく、3万石どころか実質7千石ともされ、当然ながら藩士全員を連れていくことなど叶わず、そのまま会津に残ったり、あるいは北海道へ渡ったりする者など、散り散りにさせられます。
いわば明治新政府からの厳しい仕打ち=流刑であり、それでも彼らはなんとか生を繋いでゆきました。
では、いったい斗南藩とはどのような場所や暮らしぶりだったのか?
振り返ってみましょう。
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そもそも天皇の信任篤かったのは会津
彼らが命じられた領地替えの【斗南藩】。
はじめに当時の惨状をまとめておきますと、ざっと以下のようなことが起きていました。
◆旧幕臣が俸禄を失い餓死者多数
◆幕政時代の商人は、得意客を失い潰れていった
◆戦地になった東日本では、東西両軍が食料を徴発、家屋を焼いたため、現地住民が飢餓や困窮に苦しんだ
そもそも会津藩は【孝明天皇の信任が最も篤かった】ところです。
大河ドラマ『西郷どん』では、盛んに「アホでわがままな徳川慶喜のせいで、長州藩がいじめられる」としておりましたが、長州藩を潰せと強硬に言い張ったのは、他ならぬ孝明天皇です。
それは幕府も驚くほど強い要望でした。
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孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志
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しかし【薩長同盟】があったり、孝明天皇が崩御したりで、その後に戊辰戦争が勃発。
結果、会津藩は追い込まれていきます。
会津戦争では、物資も不足し、被害者も多数。
西軍が掲げた【錦旗】を見れば、もはや「天皇のために戦う」という彼らの言い分は通りません。
涙を飲み、降伏するほかなかったのです。
しかし会津藩の受難は敗戦だけでは終わりません。
明治政府からさらに追い詰められ、難しい究極の選択を突きつけられました。
会津藩 厳しい御家再興への道
会津戦争から1年2ヶ月後。
会津藩士に嬉しい知らせが届きます。
松平容保(かたもり)の子であり、生後間もない松平容大(かたはる)を藩主として、奥羽に3万石で会津藩の再興を許す――。
明治2年(1869年)11月4日、そんなお達しが下されたのです。
滅びた会津藩の再興となれば、うれし泣き必須。
しかしその背景には、会津藩への思いやりだけではない裏事情がありました。
敗北後の会津藩の領地には、駐留する西軍兵士がおりました。
彼らの態度は傲慢そのもの。これに怒った幽閉中の会津藩士が脱走し、駐留西軍兵士を襲撃する事件が多発していたのです。
これをどう対処するか?
アイツら、自分の殿様にしか従わないしな――。
ということで元の殿様に登場していただき、一家揃って会津から追い出そうとしたんですね。
しかし、減封の幅が28万石から3万石ですから、どう見たって無理があります。
餓死者も避けられない。
それでも御家再興は喜ばしい。
揺れる彼らに提案された候補地は、会津からはるか北にある【三戸郡・北郡・二戸郡】(現在の青森県)でした。
「なじょしてそっだ北になるだ! 会津から離れたら、殿様の墓守りもできねえべした」
会津藩士の町野主水らは、この決定に激怒しました。
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