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【斗南藩】
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猪苗代か? 南部か?
実は、3万石ならば、うってつけの土地がありました。
会津藩の猪苗代です。
この町は、もともと城下町の若松に次ぐものです。
それというのも、藩祖・保科正之を祀る「土津神社」や代々の藩主墓地があるのです(磐椅神社公式サイト)。
名君と知られる藩祖・保科正之が、徳川秀忠の子だったために許されたのか。
「一国一城令」の違反になりかねない猪苗代城まであった土地です。
その猪苗代にすればいいのに、なぜ青森県の斗南(となみ)になったのか。
昨今のネットでは、その理由を
「会津藩の首脳部がマヌケだったから」
「会津藩の民の反抗が激しくて、猪苗代を選べなかったから」
なんて囁かれたりもするようです。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
確かに会津藩が京都守護職になって以来、増税が続きました。
戊辰戦争に巻き込まれた民が、一揆を起こした、とされています。
ただ、この話はそう単純なものではありません。
会津藩士の死骸から刀剣を盗んで売り払った民が、他の住民から白眼視された話。
白虎隊士を、命の危険を冒してまで民が救った逸話もあります。
そもそも、猪苗代にやって来た会津藩の上層部が、民にあっさりと殺される可能性があったのか?
それを考えてみるべきでしょう。
実は彼らには、猪苗代を選べない別の理由がありました。というのも……。
激論! どこで会津藩を再興する?
そもそも会津に駐留していた西軍は、会津藩士の襲撃に悩んでおりました。
鬱陶しい会津藩士を、第二の都ともいえる猪苗代に残したところでどうでしょうか?
根性を出せば、スグにまた反乱されかねない。
そう懸念して当然です。
一方の会津藩士たちも、とにかくは御家復興が大事なワケです。
そこで東京組の会津藩家老たちは話し合いました。
「会津の猪苗代サいだら、薩長どもから反乱を起こすつもりかと、疑われちまうべした」
「んだんだんだ!」
これがまず、第一の論点でした。
明治政府は初期の頃、不平士族の反乱に悩まされました。
維新サイドの土地でもそんな状態ですから、会津藩士を地元に置き続けるなんて危険視されて当然です。
もうひとつ。
幕末にロシアやフランスまで見た山川浩には、こんな考えもあったことでしょう。
「会津には海がねえ。海がありさえすれば、都合のいいこともたくさんあるべや!」
どうしても海が欲しかったが
海がない――。
実は会津藩士が幕末で痛感した弱点、それが海でした。
最近は原発のイメージからでしょうか。
福島県には海があると一緒くたにされがちですが、会津藩は内陸。
それゆえ薩摩藩や長州藩のように海外事情に通じることもできず、ましてや海軍力となる戦艦を持つこともできず、貿易による収入増も見込めなかったのです。
この結論を、おそらくは山川自身も悔やんだはずです。
広沢安任としては、この土地を通過した経験だけはあったようですが、それでも知識が充分と限ったわけではありませんからね。
現在のように、インターネットでGoogleアースを参照できるわけでもない時代。
そのあたりは察しましょう。
しかも若松県知事・四条隆平も、早く南部へ移住するよう急かしていたとか。
一方で町野ら会津在留藩士は、東京組に大反発。
実は猪苗代か南部かで揉めたのは、藩士同士だったのです。
ついには永岡と、東京まで押しかけた町野は、刀を抜き放つところまで争ったほど。
両者は譴責、謹慎処分を受けましたが、この闘争の結果、友情も芽生えたとも言います。
かくして南部地方が会津藩士の新天地となりました。
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