左から山川捨松・山川浩・山川健次郎/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

山川浩&山川健次郎&捨松たちの覚悟を見よ!賊軍会津が文武でリベンジ

会津藩士として、会津戦争と斗南での苦闘をくぐり抜けて、生きてきた義弟。それを失い、浩は挫折感を味わいました。

会津っぽらしい頑固さがあった浩は、周囲の助言を聞くことはなかなかありませんでした。
飲酒に関しては、母が止めようと朝までひたすら飲み続けたとか。

それでもただ一人、兄を止められる家族がいました。

「やめっせ!」

操がそう言うと、あの浩がおとなしく酒を飲まなくなってしまう。それも、操と義弟への申し訳なさがあったのでしょう。

しかし、時代は挫折感に満ちた浩を放置してくれません。

明治10年(1877年)、西南戦争勃発――。

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日本の内戦であり、大惨事であり、パンデミックまで併発した戦い。
東京の人々は喝采すら送りました。

西郷隆盛人気も、こうした時代背景があるものですが、なぜ、反乱者がそんな支持されたのか?

明治政府の政策がそれほどまでに嫌われていたのです。

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ここで、浩は大活躍を遂げるのです(詳しくは以下の記事に)。

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捨てる軍あれば、拾う教育者あり

軍人として功績を残した浩に対し、不快感を募らせた大物がおりました。

長州藩出身の山県有朋です。
会津人初の少将にまでのぼりつめた山川浩に怒りを覚えます。

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なお、浩の少将昇進に山県が不快感を見せたため、陸軍での会津人の出世は少将止まりとされる不文律が生まれたと推察されております。

松江豊寿ですら少将止まりであり、

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それが破られるのは柴五郎まで待たねばなりません。

当時の陸軍は、完全に長州閥です。
山川とてイライラしたでしょうが、黙ってばかりじゃいられません。

西南戦争では、強烈なことをやらかしております。

黒田清隆中将(薩摩)、山田顕義少将(長州)らと民家で会議をしていたところ。

早朝であり、寒いし腹も減る。
そこで浩は二人に「失礼」と一応断ると、おにぎりを火箸に刺して、味噌をつけて焼きおにぎりを作って食べたそうです。

西南戦争は、両軍共に食料確保に苦労していたわけですが、空腹には勝てませんからね。

「あ、う……お、に、ぎり? 今ここで食うの?」

このとき、薩長の二将は呆然としていたとか。

「あん時の握り飯ほど、うまかったことはねえべな!」
と、本人もおもしろがってよく話していたそうで。だから、どういう性格なんすか!

さて、軍人としての浩は、西南戦争が実質的に最後の活躍の場となりました。

このあとの浩は、周囲と意見が合わず、左遷されることとなったのです。
会津っぽということもありますが、性格的なものもあったかもしれません。

とはいえ、捨てる神あれば拾う神ありで、山川浩は埋もれちゃいない。

明治19年(1866年)。
森有礼が文部大臣となりました。森は、山川浩こそ教育者になれると目をつけたのです。

森のセンスはどういうことでしょうか?
海外視察を経て帰国し、彼は痛感しました。

日本人はだらしがない。
マナーがなっていない。
これではいかん。

そこで、マナーに厳しい会津人、軍人、人格的に高潔と、三拍子揃った山川浩に白羽の矢を立てたのです。

かくして浩は、教育者を育成するトップ・東京高等師範学校校長にスカウトされたのでした。

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浩は、現在の教育はよくわからないと、随員にぶん投げていたふしもあります。
専門外で威張っても非効率的だという、彼の方針でしょう。彼なりの効率化なんですね。

その教育者時代には、効率を重視した変人っぷりを炸裂させています。

 


官官接待vs山川浩

当時はまだ鉄道もなく、浩は福島はじめ東北地方へ、徒歩で視察旅行へ向かいます。

随員と白河の宿に到着すると、酒でもてなされて浩は大喜びです。
山川家の人々は底なしの酒豪ですからね。

が、ここで彼は異変に気づきます。
栃木県と福島県の役員各一名がいるのです。

「なじょしてにしら、ここさいんだ?」

「お送りでございます」と、栃木県の役人。

「お出迎えです」と、福島の役人。

それを聞いて、浩はシラケ切りました。

山川浩/wikipediaより引用

見送りも迎えもいらない。地図さえあれば、人間であればどこにだって行ける。案内なんてなくとも、世界中だって歩けるはずだ。
それを税金で見送りだの出迎えだの。
血税で飲んだり食ったりしているようなもので、不愉快きわまりない!

慌てた役人が、おもてなしをしないと知事に叱られると言うと、浩はますますシラケました。
そんなくだらない役目で休みが取れるなら、役人なんていらんだろ。

「そっだの、叱るほうがどうかしてっぺ……役人が無駄すぎだ」

浩は女中に紙を持たせて来ると、こう書きつけました。

飲むも憂しけふのうたげに酌む酒は青い人草の血しほと思えば

【意訳】クソまずい。今日の宴で飲む酒も、原資が血税だと思うと、クッソまずすぎ。

母譲りの文才を持ち、和歌を得意とする浩。
彼は、煽る時すら和歌を用いたのです。

そして福島の師範学校視察の際には、こんなやりとりが。
校長が、今日は視察をするか?と尋ねてきたので、浩はムカっとしながらこう答えたのです。

「官報を見てみっせ」

そこには、浩が学校を視察するとある。校長の話だけを聞いて終わるわけがないだろ。それの何が視察だ!
と、嫌味を放ったのです。それだけ、当時はナンチャッテ視察が横行していたのでしょうね。

山形の学校では、障子に穴が開いておりました。
ここで批判を求められても、ストレートに叱りつけないのが浩です。

「ここには800人の子供がいるべした。その腕で1600本。それで防いでみてはよかんべ」

これには、校長も唖然とします。
いや、そういうネタを求めているわけじゃないんだ……ツッコミどころ満載ですが、それが山川浩です。

この視察旅行の際、浩のこんなややこしい性格を知った側は、対策を立てます。

浩も無策ではなく、休息日は出かけて接待を断ろうと画策します。一体、どういう旅行なんだか……。

県役人も苦労します。
宿まで、接待をしたいと訴えてくるのです。

場所は福島県名所である信夫山しのぶやま公園。

「お互い、飲食物持込ならよかんべ」

浩は随員に命じた肉じゃがのみを持ち込んだところ、役人は豪華料理を持参しておりました。

清貧作戦失敗。そこで、黙っていないのが浩です。

「よし! たらふく食ったからには、腹ごしらえすっぺや!」

宴が終わるとそう宣言し、猛烈ダッシュして夜道を宿まで走り始めたのです。
夜道をたらふく食べたあとで走るという、あまりにきつい罰ゲーム。主賓の提案を断ることすらできません。

参加者は大勢リタイアしましたが、浩はゴールしました。

こういう人は、怒らせてはいけないんですね。
官官接待はよろしくありませんが、ここまで過激に反発しなくともと思われるかもしれませんが、彼なりのポリシーです。

明治政府首脳部は、官官接待でズブズブ。公私混同の極みでした。

国費で自分の親戚を留学させる。
贈収賄。
国の権限で海外豪遊する。
あまりにワイルドな下半身事情。

そういうことが、明治の気風の良さのように語られることがありますが、浩からすればムカつくことこのうえありません。

ちなみに健次郎も同様で、宴の席に女性がいると激怒して即座に帰宅するほど。
講演会のギャラも断固受け取らなかったとか。

頑固な会津っぽだべな!

焼きおにぎりを堂々と食らうどころじゃない。
過激な清貧アピールで薩長を殴りに行く。それでこそ会津っぽだべした! それが浩でした。

山川浩は教育者となったあと、卒業生を自宅に招いては、酒を飲ませてこう語っていたそうです。

「汚ねえ俗吏(せせこましい役人)になってはなんねぞ……」

ジッと冷たい目で政府を見つめ続け、憤懣やるかたないことがあったのでしょう。

 


私はストレンジャー、捨松の悲しみ

山川浩と健次郎の妹。
山川捨松といえば、大山捨松として大山巌の妻となってからの方が有名です。

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会津と薩摩のシンデレラストーリー。
なんてロマンチックなの!
そう言いたくもなるかもしれませんが、後世の願望や装飾がかなり入っております。

当初、咲と呼ばれていた少女。
会津戦争では、場内から凧を揚げて誇りを見せ、負傷すらしていた彼女。

斗南藩の暮らしで疲れ切った頃の浩の耳に、黒田清隆が提唱する日本人女子留学生計画が入りました。
母すらよい顔をしない中、浩は咲の留学を決めるのです。

母はこのとき、娘の名をこう変えました。

捨松――捨てて待つ。
それほどまでに険しい覚悟があった、留学生としての出発でした。

はじめのうちこそ、まるであどけない人形のようであったものの、捨松はアメリカに長期滞在したトリオのひとりとなります。

当時はまだ、アメリカですら未発達であった女子高等教育。
そのチャンスを得て、捨松はヴァッサー大学へ進学します。

シェイクスピアを学び、サムライの娘としての経験談を語る捨松は、美貌と知性で有名な存在となったのです。

同じく留学中の健次郎は、妹の動向に厳しい目を向けていました。
妹に儒教の価値観に基づく、武士の娘としての心得をアメリカでも教え続けたのです。

男の自分ならばともかく、まだ幼い妹らが学ぶことに意味はあるのか?
キリスト教の受洗を受けたらば、禁教令に背くのではないか?

健次郎は生真面目でした。
だからこそ、学費を無駄にせず、国に尽くすことを第一としていたのです。

そのことを、捨松はどうとらえていたのでしょう?

ペンネーム「ストレンジャー(異邦人)」という生徒の投稿文が、捨松の通ったヒルハウス・ハイスクールに残されています。
これは彼女の言葉でしょう。

日本は文明開化に突き進んでいく。
けれど、女性たちは追いつけないかもしれない。
日本では、女性たちが政治集会議長として参加すること、裁判官として判決を読み上げること、神学の説教をする姿なんて、想像すらできない――。

捨松は、津田梅子ほどは若くはありません。
武士の娘としての教育を受けてきました。年長者の言うことに従うこと。それこそが、日本の道徳だと思い込んできました。

捨松は、東洋と西洋に引き裂かれてしまったのです。

先進的な西洋の女性になりたい。
けれど、自分は東洋の女性として生まれた。津田家と違い、山川家には強い会津武士たる兄もいました。

ご存知の通り、帰国後の捨松は大山巌と結婚して公爵夫人となります。
そのシンデレラストーリーを、留学仲間の津田梅子は【現実逃避であり挫折】とみなしていました。

自分のように、西洋の教育に励みたいだろうに――捨松はそうできないのです。
それどころか、恋愛感情を持っていた同年代の男性とすら結婚できない。

会津戦争で自分の故郷を燃やした、初婚ですらない、肥満した年上の薩摩男性に嫁ぐしかなかったのだ、と。

彼女は恋愛結婚でしょうか。
夫はそうだとしても、妻もそうであったかどうか。ここは、慎重にならねばならないところです。

少なくとも、盟友である津田梅子は恋愛だとは思っていません。

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会津と薩摩の結婚となれば、華々しい和解とも思えます。
けれども、その影で捨松がどう悩んでいたのか?

教育への情熱。
恋心。
そうした妹の気持ちの前に、兄の思いが立ちふさがっていました。

捨松は、梅子のようにアメリカ人篤志家の援助を期待していたこともありますが、兄・健次郎の反対にあいます。

国のために留学したのだから、無駄はできない。
借金なぞもってのほか。

先進的な健次郎ですら、妹のことは理解できません。
婦人の言うことは聞いてはならないという、会津藩の教えに忠実でした。

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捨松はしたかったのは、ダンスだったのでしょうか?

公爵夫人として微笑むことだけだったのでしょうか?

彼女の素顔は複雑です。
夫婦喧嘩になれば、会津戦争で受けた消えぬ傷跡を夫に見せ、あのとき殺せばよかったと激昂しました。

自分の人生で一番幸せだった時間は、アメリカ留学中に、スカートで思い切り走り回り、木に登っていたころだと振り返りました。
捨松は、教育のために翻弄する津田梅子のために、援助を惜しみませんでした。

そこには、ありのままに生きられなかった悲しみがあるのです。

大多数の会津藩士の困窮と比較すれば、捨松は幸福でした。
それでも、そこには深い無念と悲しみがあるのです。

新島八重

津田梅子。

彼女らと大山捨松は、どこかが異なります。

山田風太郎『エドの舞踏会』に登場する捨松は、何か空漠としたさびしさのようなものを漂わせていると描写されます。

そして彼女はこうつぶやきます。

「私、お国のため、アメリカゆきました。でも、帰ってから日本で、そんなこと(※鹿鳴館の舞踏会指導)をするために、向うの大学で勉強したのじゃなかったのですわ……」

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なお、大山巌と捨松の結婚に際して、西郷従道が親睦のために裸踊りを披露しておりまして。

山川家の兄弟は、こんな下劣な連中と親戚になりたくないと悩みました。
そのせいで、あやうく破談となりかけております。

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山川家は、会津っぽは、教育に生きる

軍人としての山川浩は、出身地、性格、負傷ゆえの不遇と左遷もあったとされます。
ただし、彼自身は妹・捨松が大山巌夫人となったため、出世に消極的になった面もあります。

出世したら、姻戚関係者への忖度ととらえかねない。
頑固な会津っぽとして、そんなことは断固として許せないのでしょう。年金が活躍に比して安いという問題にも、そうした要素が関係しているようです。

とはいえ、会津藩出身者としては異例の大出世を遂げた――華麗なる一族であることは確かです。

山川家は男爵にまでのぼりつめております。
明治時代の爵位となりますと、露骨な藩閥政治の影響がありました。

会津藩の男爵とは、他藩とは別物だとお考えください。

ただし浩自身は、家庭的な幸福に恵まれなかったように思えるところはあります。

これも、明治首脳部の艶福家ぶりと比較してのことかもしれませんが。

・最初の妻:登勢
→会津戦争で戦死

・内縁の妻:西郷家某女
→子がないまま離別

・内縁の妻:志づ
→一子・洸が恵まれたものの縁が切れた模様

こうした家庭的充実とキャリアは別です。
山川家の人々は、会津っぽとして世の中で役立つルートを考えておりました。

それはどの分野か?
教育です。

聡明さで知られた山川家では、長女・二葉が女子教育の道を選びました。
東京女子師範学校で、寄宿舎長として若い女性の教育を見守ったのです。

三女・操はロシア留学を遂げ、フランス語をマスターし、宮内庁御用掛に採用。

前述の捨松は、社交界の美女扱いが多いものですが、教育者としても熱心な活動をしていました。
アメリカで知り合ったアリス・ベーコンとともに、盟友・津田梅子を支え続けたのです。

そんな山川家には、柴五郎をはじめ、大勢の書生が出入りしていました。
まずは会津人の教育を救いたい。それが山川家の志でした。

会津地方随一の進学校である会津高校も、山川家のカンパあって開学にこぎつけたものです。

あの日新館を復活させる――。そんな思いが、彼らにはありました。

◆会津高等学校

なお、会津高校と並ぶ葵高校(前・会津女子高校)は、新島八重が力を尽くした学校となります。

◆葵高等学校

会津地方の教育とは、会津人の手によって守られていったのです。

前述の東京高等師範学校には、会津人の人脈がありました。
校長をつとめた高嶺秀夫も、会津出身者です。

そのためか、山川家に出入りしていた藤田五郎、かつての斎藤一が用務員として勤務していたのですから、驚かされます。

東京高等師範学校の嘉納治五郎といえば、その弟子・西郷四郎も忘れてはなりません。

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四郎は西郷頼母の養子であり、「山嵐」を使いこなす姿三四郎のモデルでした。

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そんな中でも、会津人のみならず、日本屈指の輝ける星となったのが、健次郎でした。

 


山川健次郎、その教育者としての歩み

明治の教育者とは、血の気が多い人物も多い。
一歩間違えれば軍人、あるいは不平士族として散っていてもおかしくない人物もおりました。

北里柴三郎がその一例でしょう。

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そして健次郎も、その一人かもしれません。

・会津藩士族にして白虎隊士

・関係者に不平士族反乱を起こした人物が多い(前原一誠、奥平謙輔、長岡久茂)

・西南戦争では軍人としてスカウトをされている

・言うことが容赦なく、キッパリとしている

・兄が浩、親友は斎藤一

・兄同様酒豪で、書斎には酒を平然と置いており、来客にもまず一杯飲ませていた

山川家の愉快な酒盛りは、なかなかおもしろそうではあります。

冷酒のまま、肴もなく、朝までぶっ通して飲み続けるという、ハードなスタイル。
そりゃ、あの無口な斎藤一だって、口が軽くなるというものです。

そんな伝説的な酒豪にして秀才である健次郎。
学歴は、華々しいものがあります。

・日新館時代、フランス語を学んでいる

・17歳までかけ算九九すら知らなかったのに、アメリカ留学先で頭角を表す

・4年間の留学を終えた明治8年(1875年)帰国、翌年から東京開成学校教授補となる

東京開成学校とは、前身が幕府時代の安政4年(1857年)に設立された「開成所」です。
元は洋学校として開学したものでした。

それが明治10年(1877年)に複数の教育機関が合成され、「東京帝国大学」が誕生。
この年には、姉・二葉が見込んだ鉚子と結婚ています。
夫28歳、妻17歳でした。

健次郎がやや晩婚だったのは、勉強に熱心なあまり、結婚にまるで関心がなかったためです。
そこで、姉が縁談を見出したのでした。

この後、夫妻は山川家の中でも幸福な家庭環境に恵まれております。

家庭的にも落ち着いた健次郎は、日本の科学のパイオニアとして驀進。
日本初のX線実験を成功させました。

口調は厳しく、背が高く、眼光は鋭い。
分厚い本を持ち、大股で歩きながら講義するその姿に、学生たちは背筋を伸ばし緊張したものでした。

会津武士らしい教育態度を心がける健次郎の教え方は、真剣を抜きあうような白熱教室。
学問という刀で切り込むべし、そんな気概に満ち満ちておりました。

それでも、厳しいだけではありません。
実験中に学生が負傷をしそうになれば、真っ先に駆けつける。そういう温情もあるのでした。

 

会津藩家老の宿命

明治25年(1890年)、浩は第一回総選挙に出馬します。
福島県第四区(現在の会津地方)でした。

ただ、落選しております。
さしもの家老の英名も、このころとなれば薄れていたのかもしれません。

ただし、落選後貴族院議員として勅任を得ています。

「貴族院の三将軍」こと、谷干城・曾我祐準・山川浩の誕生です。三人とも元陸軍の将軍でした。

そんな山川家には、なすべきこともあります。

山川家は華麗なる出世を遂げてはおりますが、家老として果たすべき役割も重いものがありました。

それは、主君である松平家の保護です。

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明治維新のあと、容保は世捨て人同然の暮らしを送る他ありません。
多くの大名が爵位を得る中、明治13年(1880年)ひっそりと日光東照宮宮司とされています。

禰宜は西郷頼母でした。

日光東照宮は、幕末以来、徳川の象徴として嫌われ抜きました。
高杉晋作ら長州藩士は、くだらないものだと切って捨てております。

戊辰戦争の際には、会津藩主を祀る土津神社はじめ、多くの寺社仏閣が焼き払われました。
現在の土津神社は再建したものとなります。

そのあとは廃仏毀釈もあり、多くの城が破却され、多くの文化財が危急存亡の時を迎えており、日光東照宮も徳川のシンボルとして破壊されそうになりました。
皮肉にも、これを抑えたのは明治天皇でした。

明治政府からすれば、そんな日光東照宮宮司とは、屈辱的なポジションだという感覚があったとしても、何ら不思議はありません。

この容保は、昔の話を黙して語りませんでした。
徳川慶喜はカメラ他趣味に没頭し、それなりに楽しいセカンドライフを送りましたが、容保は世捨て人と化していたのです。

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明治26年(1891年)、ひっそりと容保は世を去りました。
享年59。
その病床には、英照皇太后から牛乳が届けられました。

彼女は孝明天皇の妃です。
天皇が容保に寄せていた信頼を思い出し、それに報いようとしたのでした。

この牛乳に、会津人は感激したものです。

そして会津藩士にとって、一時代の終わりでもありました。
この頃には、浩も結核に倒れ、療養に入っております。

容保の遺品の中に不思議なものがありました。
容保が身につけていた竹筒です。

その中を見て、健次郎は愕然としました。

【宸翰】
堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪
下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也
文久三年十月九日

堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり

【意訳】
朝廷で、暴論を展開し、不正な処置を行い増長する者がおり、朕は胸を痛め、耐えがたいほどであった。
密かに命をくだしたところ、速やかに処置して、心痛のもとを追い払ってくれた。
朕の思いを実行してくれて感謝している。そなたの忠誠には感激した。
この御製を感謝の気持ちに贈るものである。

【御製】
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる

・やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
・武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

【意訳】
この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌

・公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう
・武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう

これを契機に、兄弟は語り合います。

会津藩の忠義を、伝えねばならぬ――。

病床におりながらも、浩の決意は固いものがありました。
あれから三十年。
朝敵、賊軍と罵られ、いかに会津人が苦しめられてきたことか。

それは終わらせねばならぬ。
浩と健次郎は、紙の上で戦うことを決めたのです。

兄が語り、記し、弟が推敲する。

『京都守護職始末』

幕末の歴史に一石を投じる書物です。
しかし、浩はその石が巻き起こす波紋を見ることはありませんでした。

山川浩/Wikipediaより引用

明治政府はやっと明治31年(1898年)、浩に男爵号を授与しました。
それから間もなく浩は54年の生涯を終えたのです。

男爵号と『京都守護職始末』発刊は、健次郎の双肩にのしかかることになります。

それより前に、健次郎にはなすべきことがありました。
それは、松平家当主・松平容大かたはるの困窮問題です。

彼はここで「宸翰」を使い、長州藩出身・三浦梧楼相手に大博打を仕掛けます。
公表する代わりに、会津松平家に対する支援金を取り付けたのです。

成功し主家の困窮を回避。
ただしそれは『京都守護職始末』の刊行が停滞することでもありました。

明治44年(1911年)まで、待たねばなりませんでした。

 


知を武器に、迷信と戦う健次郎

浩の死後も、山川家の人々は新時代を生きていきます。
捨松は、社交界の名花としてだけではなく、前述のとおり教育に生きていきました。

そんな捨松も、晩年はゴシップに悩まされることになります。
これがかなりややこしい話でして、以下に流れをまとめましょう。

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八重は蘇峰を警戒し、阻止

会津出身女性へ恨みを募らせる蘆花

知名度が高い捨松をターゲットにする

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要は逆恨み。完全に徳富蘆花が悪い。
明治の文人には、人格的にちょっとどうかと思われる方もおり、同志社大学創設に協力した八重を、逆恨みした蘆花もその一人でしょう。擁護のしようがありません。

大正8年(1919年)。
そんな捨松は、スペイン風邪で命を落としました。
享年58。

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残された健次郎は、大正、そして昭和まで生き抜くこととなります。

かつて虚弱体質であった健次郎は、鍛錬と節制につとめ、長寿をめざそうとしたのです。
晩年まで冴え渡った知能は、祖父・重英を彷彿とさせます。

初代東大総長はじめ、さまざまな要職に就き、教育者としての手本を示した山川健次郎。
知名度では野口英世に劣るかもしれませんが、会津生まれの知の巨人として、消えぬ大きな足跡を残しています。

その華麗な経歴の中には、なんと、こんなものも。

1990年代からホラーのアイコンとなった恐怖の貞子。
フルネーム・山村貞子。

彼女のモデルは御船千鶴子とされています。
『ゴールデンカムイ』に登場した三船千鶴子のモデルでもあります。彼女だけではなく、長尾郁子も超能力者として喧伝されておりました。

元号が明治から大正へと変わろうとする1910年代頃。
この超常現象ブームの最中に「千里眼事件」が起こりました。

貞子のモデルとなった二名を、科学的根拠で全否定したのが山川健次郎だったのです。

「千里眼は科学にあらず!」

科学者として超常現象を許せない健次郎は、徹底的に実験を繰り返し、全否定しました。

結果、千鶴子は自殺。
郁子も急病死。

その無念が、貞子の物語へとつながってゆくわけです。

 

科学的根拠にこだわる健次郎は、皇室崇拝にも疑念を抱いていました。

明治44年(1911年)に門司駅長が自殺。
天皇陛下の行幸に際して、脱線事故が起こりました。結果、日程が遅れてしまい、耐えきれずに死を選んだのです。

これに対して、健次郎は怒りました。

「神がかり的な天皇陛下崇拝や盲信、そのせいで人命すら失われたら、陛下の名をかえって穢す!」

そのため、彼は愛国者からバッシングされます。
それでも健次郎は、そうした意見にこう立ち向かったのです。

千万人雖ども、我往かん――。

健次郎はめげません。彼には恥じることは何もなかったのです。
叩こうが好きにすればいい。何も困らない。
そういう信念がありました。

健次郎は家庭人としても潔癖でした。
妻子や孫を愛する、心優しい高潔な人物であったのです。

彼は子孫に、会津戦争の苦難を語ることを欠かしませんでした。

 

語り継ぐ健次郎

会津戦争を語り継ぐこと。
慰霊の場を整えること。

健次郎は熱心に取り組んできました。
そのせいで、ムッソリーニとの因縁が生まれたこともあります。

会津戦争の遺体埋葬論争
会津戦争『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられた?

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ドラマの放映もあってか、観光地となった飯盛山。

ポケストップが設置され、神聖な慰霊の場を穢すなとしばしば問題視されておりますが、これは現代人の堕落でもなく、大正時代から論争になっております。

観光地になって、人が大勢出入りして、芸者を連れたツアー感覚で来たらなじょするべ。
そんな論争には、健次郎本人も参加しておりました。

はたして、これを見て健次郎はどう思うのでしょう。

神聖な場所でけしからんと怒るか。
それとも、科学的に問題ないと言い返すか? 興味深いところではあります。

昭和3年(1928年)、彼らのような会津人にとって、大ニュースがありました。
それは雍仁親王妃勢津子の婚礼です。
容保の血を引く妃の誕生に、会津は喜びました。これでもう賊軍ではないのだと、喜びの涙があふれたのです。

それから3年後の昭和6年(1931年)――健次郎は病床に伏します。

病床には、天皇からの見舞いすら届けられました。
そして永眠。
享年78。

山川健次郎/wikipediaより引用

 


その没後の光陰

山川健次郎の遺族から聞かされた希望に、周囲は困惑を隠せませんでした。

自らの遺体を解剖し、医学に貢献したいと熱心に語っていたのです。

しかし、男爵であり、名高い人物をメスで切り刻むとなりますと、心理的には難しいものがあります。

そこで是非にと名乗り出たのが三女・照子の婿である東龍太郎でした。
当時は帝大医学部助教授であり、後に東京都知事となります。2019年大河ドラマ『いだてん』では、松重豊さんが演じておりますね。

その解剖の際に、医師たちはワインを用いて胃を消毒しました。

「あれほど酒が好きだった山川先生だ。天皇皇后両陛下から下賜された酒で、消毒しようじゃないか」

そう語り合っていた医師たちは脳を解剖しながら驚きます。

脳が若い!
解剖してみると、老人の特徴が出ていない!

保存されている桂太郎(享年67)、夏目漱石(享年49)に匹敵すると驚かれたのです。

死後まで驚異的であった。
それが山川健次郎でした。

こののち、日本が太平洋戦争へと突き進んでいきます。

健次郎が聞いたら嘆きそうな、偶像崇拝への傾倒。
皇族の写真である「御真影」が火災で焼失すると、責任を感じて自殺する者まで出てきました。

菊の御紋や天皇制度にまつわるものを破損すれば、これまた不敬であると厳罰の対象とされます。
命を落とした方もおります。

皇宮崇拝をしなかった陸軍人・西竹一。
彼は陸軍内で孤立し、硫黄島で命を落とします。

西竹一(バロン西)
日本人唯一の五輪馬術メダリスト西竹一(バロン西)42才で硫黄島に散った悲劇

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白虎隊士は、夭折するアイコンとして愛国心に利用されました。
出撃した特攻隊にまで「白虎隊」の名は流用されるのです。

白虎隊は死を前提としたものではなく、あくまで予備兵力であったのに……それはあまりにグロテスクな名前の悪用でした。

科学的な裏付けのない熱狂を嫌った健次郎が、そんな歴史を見なかったことは幸福であったかもしれません。

明治6年(1873年)。
14歳の柴五郎が陸軍幼年学校に入学を許可されました。

会津戦争のとき、彼の母はキノコを取りに行けと促しました。
幼い五郎が帰宅すると、家族の女性たちは自刃。悔しくて、悲しくて、五郎は泣きじゃくりました。

その五郎が陸軍人への道を歩みはじめた。
彼が下宿していた山川家の人は、嬉し涙をこぼしました。

「これでいい、これでいい……」

昭和20年(1945年)、大日本帝国が敗戦したとき――。

かつてのこの少年は87歳になっていました。
彼は浩の出世を乗り越えた、会津出身者初の陸軍大将でした。

「義和団事件」の対応は国際的にも高い評価を受けています。

海軍の出羽重遠と並ぶ、会津出身者の数少ない大将。その柴は、太平洋戦争敗北を知ると切腹を試みたのです。

維新の際、和魂洋才だと言い切り、祖国は西洋列強入りを目指して駆け抜けてきました。

けれど、それは表面だけのこと。
政治、学芸、工業、技術、科学……何もかもが欧米に追いつけず、大敗北を遂げ、袋叩きにされたのだと。
柴はその無念を噛み締め、祖国に殉じようとしたのです。

しかし老齢のために死に切れず、三ヶ月間苦しみ抜いてから、その歳の暮れに命を落としました。

少年時代、山川家に出入りしていた柴。
山川家の援助で陸軍に入った柴。
国際的な名声もあった柴。

高潔さと智勇で名を残した名将の、あまりに酷い最期でした。

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会津戦争で敗北し、そこから立ち上がったひとびと。

明治、大正、昭和と見てきて、日本国そのものが滅びゆくと知ったとき、彼らの胸には、何が駆け抜けていったのか。

山川家ゆかりの人々は、明治から昭和にかけて輝いた、不滅の星座のような輝きを放っています。

けれども、それだけでよいものか。

光が強烈なだけに、深い影もある。
そんなひとびとではあるのです。

賊軍。
朝敵。
負け犬――。

そう呼ばれ、生きてきた彼らは、この国の歴史を象徴しています。

文:小檜山青


【参考文献】
『新装版 山川浩』櫻井懋(→amazon link
『山川家の兄弟』中村彰彦(→amazon link
『評伝 山川健次郎』山川健次郎顕彰会
『少女たちの明治維新』ジャニス・P・ニムラ(→amazon link
『会津 えりすぐりの歴史』野口信一(→amazon link
『山川健次郎の生涯』星亮一
『会津維新銘々伝』星亮一
『会津藩は朝敵にあらず』星亮一(→amazon link
『改訂新版 会津女性の物語』(→amazon link
『津田梅子を支えた人びと』飯野正子・亀田帛子・高橋裕子編(→amazon link
『北の会津士魂』好川之範(→amazon link
『国史大辞典』

 



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