天保十四年(1843年)5月4日、西郷従道が誕生しました。
西郷隆盛の実弟で、兄の”大西郷”に対し、”小西郷”と呼ばれることもあります。
お名前は辞書などでは「つぐみち」ですが、なんでも音読みの「じゅうどう」が正しいというお話もあるそうで、何となく薩摩の人らしさを感じますね。
本稿では、西郷従道の生涯を振り返ってみましょう。

西郷従道/wikipediaより引用
最初は斉彬の茶坊主だった
従道は幼い頃、島津斉彬(篤姫の義理のお父さん)の茶坊主として仕えていました。
茶坊主というのはその名の通り、主君が茶道の接待をするときなどのお世話をする役職。
頭を丸めなければいけなかったので”坊主”と呼ばれており、当初は従道も竜庵と号しましたが、のちに還俗して信吾(慎吾)と名乗り、さらに隆興・従道と名前を変えています。
このうちのシンゴが通称として使われたそうです。
しばらくは大人しい仕事をしていながら、18歳で尊王攘夷運動に加わってからは、時代の流れと共に物騒な方面にも関わってくるようになります。
大久保利通らが主導した精忠組(誠忠組)に参加。
当初は『近思録(儒学・朱子学派のテキスト)』を読む体裁でしたが、徐々に思想の過激化が進んでいきます。
そして起きたのが【寺田屋事件(寺田屋騒動)】でした。
過激派筆頭の有馬新七が京都での挙兵を計画していたところ、島津久光の命によって大山格之助ら薩摩藩士が送り込まれ、新七を筆頭とした首謀者たちが討たれたのです(文久2年(1862年)4月)。
西郷従道は殺される前に投降。
事なきを得ましたが、当時、奄美大島で暮らしていた西郷隆盛も衝撃を受けたことでしょう。
鳥羽・伏見の戦いでは銃弾が体を貫通するほどの傷を負ったといいますから、最前線にいたのでしょう。
そして戊辰戦争を生き抜いた従道は、山県有朋と共にヨーロッパで近代の軍事について学んだ後、帰国後は陸軍少将に任じられました。
従道は政府に残るも西南戦争では留守役
1873年に征韓論を巡って、お兄さんの隆盛が明治政府から下野。
このとき多くの薩摩出身者が従いましたが、弟である従道は政府に残りました。
とはいえ兄弟仲が悪かったとかそういうことではなく、西南戦争の時には政府の留守役として東京に残っています。
ヘタに前線へ出ると「あいつは敵の大将の兄弟だから裏切るかもしれない」なんて目で見られるかもしれませんし、やはり共に育った兄弟に銃口を向けるようなことはしたくなかったのでしょう。
責任を果たしつつ風当たりの強くない場所を選んだと見れば、一番穏便に済む道だったでしょうね。
しかし、西南戦争で重要な存在となった通信を担っており、後方から戦争を支援しておりました。
西南戦争後は同じく薩摩出身の大久保利通が暗殺されてしまい、薩摩出身者のキーパーソンとみなされるようになっていきます。
特にトラブルが起きたという話は伝わっていませんし、お兄さんを悪しざまに言って保身を図ったなんてこともしていないようですので、沈黙を保って真面目に仕事をし、信頼を得ていったと思われます。
伊達家と同じ伯爵に 更には島津家とも並ぶ
明治十七年(1884年)に華族制度(ヨーロッパを真似て作った爵位制度)が整えられたときには、明治維新の功績などから、上から3番目の伯爵の地位とされました(伊達家の殿様と同じランク)。
やはり重要な人物だと認識されていたのでしょう。
さらにのちには日清戦争の功績で、第二位の侯爵となっています。
侯爵というのは、薩摩藩主の島津忠義と同じですから、かつての殿様と並んでしまったわけです。
その後は海軍大臣に任じられています。
ここからが従道の真骨頂ともいえるところで、日清・日露戦争を勝ち抜いた数々の人物を見出しているのです。
イトコの大山巌とも共通していて、基本的に「実務は一番よくわかってるヤツにやらせておけ。いざというときの責任はワシが取る」というスタンスだったので、部下になった人々からも慕われていたようです。
日頃小姑のごとく細かいことをあれこれ言ってくる上司より、こういう人についていきたいですよねえ。
残念ながら、現実にはそうでないのでしょうが……。
「山本のやりたいようにやらせればよか」
従道のこうした性格の恩恵を最も受けたのは、副官になっていた山本権兵衛でした。
山本が海軍の改革を推し進めた際、政府の内外から批判を受けたことがあるのですが、従道は「山本のやりたいようにやらせればよか。責任は取る」と言って味方になっています。
後日この改革のおかげで海軍の教育制度や補給体制、健康管理などが徹底されるようになったので、従道と山本の判断は大正解。
この山本がさらに東郷平八郎を司令官に任じているので、
【従道→山本→東郷】
まで信頼感のリレーとでもいうべき流れができています。アツイですね。
俺がトップになったら民衆が納得せん
その後も要職を歴任し、内閣総理大臣候補として名が上がったこともありました。
が、従道本人は断り続けています。
ただの謙遜ではなく、「兄が逆賊なのに、俺が国のトップになっても民衆が納得せん」という理由からです。
既に西南戦争から20年程が経過していましたが、明治政府の中では出身地による派閥がありましたから、世論もそういう見方をしていたのでしょう。
でも、従道が総理大臣になっていたら、海軍大臣時代のように「デキる奴のやりたいようにやらせる」という態度をとり続けたでしょうから、兄が逆賊だから云々という評よりも信任度のほうが高かったんじゃないかなあとも思います。
お兄さんのように華々しいイメージはない。
されど他人を信頼して仕事を任せる度量を持っていた。
小西郷の人気があるのも頷けます。
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【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
西郷従道/wikipedia





