天保十四年(1843年)5月4日、西郷従道が誕生しました。
西郷隆盛の実弟で、兄の”大西郷”に対し、”小西郷”と呼ばれることもあります。
お名前は辞書などでは「つぐみち」ですが、なんでも音読みの「じゅうどう」が正しいというお話もあるそうで、何となく薩摩の人らしさを感じますね。
本稿では、西郷従道の生涯を振り返ってみましょう。
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最初は斉彬の茶坊主だった
従道は幼い頃、島津斉彬(篤姫の義理のお父さん)の茶坊主として仕えていました。
茶坊主というのはその名の通り、主君が茶道の接待をするときなどのお世話をする役職。
頭を丸めなければいけなかったので”坊主”と呼ばれており、当初は従道も竜庵と号しましたが、のちに還俗して信吾(慎吾)と名乗り、さらに隆興・従道と名前を変えています。
このうちのシンゴが通称として使われたそうです。
しばらくは大人しい仕事をしていながら、18歳で尊王攘夷運動に加わってからは、時代の流れと共に物騒な方面にも関わってくるようになります。
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当初は『近思録(儒学・朱子学派のテキスト)』を読む体裁でしたが、徐々に思想の過激化が進んでいきます。
そして起きたのが【寺田屋事件(寺田屋騒動)】でした。
過激派筆頭の有馬新七が京都での挙兵を計画していたところ、島津久光の命によって大山格之助ら薩摩藩士が送り込まれ、新七を筆頭とした首謀者たちが討たれたのです(文久2年(1862年)4月)。
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西郷従道は殺される前に投降。
事なきを得ましたが、当時、奄美大島で暮らしていた西郷隆盛も衝撃を受けたことでしょう。
鳥羽・伏見の戦いでは銃弾が体を貫通するほどの傷を負ったといいますから、最前線にいたのでしょう。
そして戊辰戦争を生き抜いた従道は、山県有朋と共にヨーロッパで近代の軍事について学んだ後、帰国後は陸軍少将に任じられました。
従道は政府に残るも西南戦争では留守役
1873年に征韓論を巡って、お兄さんの隆盛が明治政府から下野。
このとき多くの薩摩出身者が従いましたが、弟である従道は政府に残りました。
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とはいえ兄弟仲が悪かったとかそういうことではなく、西南戦争の時には政府の留守役として東京に残っています。
ヘタに前線へ出ると「あいつは敵の大将の兄弟だから裏切るかもしれない」なんて目で見られるかもしれませんし、やはり共に育った兄弟に銃口を向けるようなことはしたくなかったのでしょう。
責任を果たしつつ風当たりの強くない場所を選んだと見れば、一番穏便に済む道だったでしょうね。
しかし、西南戦争で重要な存在となった通信を担っており、後方から戦争を支援しておりました。
西南戦争後は同じく薩摩出身の大久保利通が暗殺されてしまい、薩摩出身者のキーパーソンとみなされるようになっていきます。
特にトラブルが起きたという話は伝わっていませんし、お兄さんを悪しざまに言って保身を図ったなんてこともしていないようですので、沈黙を保って真面目に仕事をし、信頼を得ていったと思われます。
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