西郷従道

西郷従道/wikipediaより引用

幕末・維新

ホントはすごい西郷従道(信吾)兄の隆盛に隠れがちな”小西郷”の実力に注目

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伊達家と同じ伯爵に 更には島津家とも並ぶ

明治十七年(1884年)に華族制度(ヨーロッパを真似て作った爵位制度)が整えられたときには、明治維新の功績などから、上から3番目の伯爵の地位とされました(伊達家の殿様と同じランク)。

やはり重要な人物だと認識されていたのでしょう。

さらにのちには日清戦争の功績で、第二位の侯爵となっています。

侯爵というのは、薩摩藩主の島津忠義と同じですから、かつての殿様と並んでしまったわけです。

島津忠義/wikipediaより引用

その後は海軍大臣に任じられています。

ここからが従道の真骨頂ともいえるところで、日清・日露戦争を勝ち抜いた数々の人物を見出しているのです。

日露戦争
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イトコの大山巌とも共通していて、基本的に「実務は一番よくわかってるヤツにやらせておけ。いざというときの責任はワシが取る」というスタンスだったので、部下になった人々からも慕われていたようです。

日頃小姑のごとく細かいことをあれこれ言ってくる上司より、こういう人についていきたいですよねえ。

残念ながら、現実にはそうでないのでしょうが……。

 


「山本のやりたいようにやらせればよか」

従道のこうした性格の恩恵を最も受けたのは、副官になっていた山本権兵衛でした。

山本が海軍の改革を推し進めた際、政府の内外から批判を受けたことがあるのですが、従道は「山本のやりたいようにやらせればよか。責任は取る」と言って味方になっています。

山本権兵衛
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後日この改革のおかげで海軍の教育制度や補給体制、健康管理などが徹底されるようになったので、従道と山本の判断は大正解。

この山本がさらに東郷平八郎を司令官に任じているので、

【従道→山本→東郷】

まで信頼感のリレーとでもいうべき流れができています。アツイですね。

 


俺がトップになったら民衆が納得せん

その後も要職を歴任し、内閣総理大臣候補として名が上がったこともありました。

が、従道本人は断り続けています。

ただの謙遜ではなく、「兄が逆賊なのに、俺が国のトップになっても民衆が納得せん」という理由からです。

既に西南戦争から20年程が経過していましたが、明治政府の中では出身地による派閥がありましたから、世論もそういう見方をしていたのでしょう。

愛知県の明治村に移設された西郷従道の邸宅/photo by おはぐろ蜻蛉  wikipediaより引用

でも、従道が総理大臣になっていたら、海軍大臣時代のように「デキる奴のやりたいようにやらせる」という態度をとり続けたでしょうから、兄が逆賊だから云々という評よりも信任度のほうが高かったんじゃないかなあとも思います。

お兄さんのように華々しいイメージはない。

されど他人を信頼して仕事を任せる度量を持っていた。

小西郷の人気があるのも頷けます。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
西郷従道/wikipedia

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