明治27年(1894年)7月25日は日清戦争が始まった日です。
正式に宣戦布告したのは同年8月1日のことですが、この7月25日に豊島沖で日本艦隊が清の軍艦と交戦し、勝利を収めたことから実質的に両国は戦闘状態へ入りました。
日本にとっては近代化を進める上で最初に起きた他国との戦争。
一体なぜこのような争いが起きてしまったのか?
いくつかの前提を踏まえながら、一連の流れをスッキリ整理してみましょう。
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清との結びつきが強すぎた朝鮮王朝
日清戦争という字面だけ眺めますと、日本と清が互いの領域を求めてやりあった――そんなイメージが浮かぶかもしれません。
しかし同戦争は、舞台のほとんどが朝鮮半島であり、キッカケも朝鮮半島でした。
これには古来からの因縁と、当時の国際事情が大きく関係しています。
朝鮮半島は、中国に比べて資源や耕作地に乏しく、歴史は古いながらも独立を維持することが難しい立地でした。
そのため、基本的に中国の歴代王朝に従属して国の形を保ってきています。
これが中国伝統の中華思想(「なんでもある豊かな土地で、優れた文明を持つ中国が世界の中心だ!」という考え方)と実に相性が良く、それゆえに両国は均衡の取れた関係を保ってきたのです。
千年単位でそういう刷り込みがあったため、近代になって清が【アヘン戦争】などによりボロボロになっても、朝鮮は「中国を頼っていれば大丈夫」という価値観から脱却しませんでした。
実際、本当にそれでどうにかなってきたのですから、これは致し方ありません。
また、清も清でアヘン戦争後も「我が国が世界で一番エライ!」という中華思想を持っている人が大多数で、西洋化・近代化の導入には消極的。
改革に積極的な人が出てきても、だいたいが押し潰されたり、力不足で成功しなかったのです。
欧米諸国からすれば、こんなに狙い目な土地もありません。
この頃までに、地球上のほとんどの陸地は彼らに切り取られてしまったのですから。
西洋に対抗するため
一方、東アジアが本格的に欧米の支配下に置かれてしまうと、一番困るのは日本です。
これまでは航海技術の不足や距離的な問題で、日本が欧米諸国の侵略を受ける可能性は極めて低いものでした。
それが蒸気船の登場により、幕末あたりから非現実的な話ではなくなってきます。
この状況でもし、ごく近所の朝鮮半島がロシアや欧米諸国のものになって拠点ができてしまうと、日本は滅亡の危機――というわけです。
そのため、日本は清に
「これからは積極的に協力しあって、西洋に対抗していきましょう」
朝鮮へは
「独立・近代化して自分の身を自分で守らないと」
と持ちかけまたのですが、どちらも突っぱねられてしまいました。
当初の日本は、強引に朝鮮半島の支配を目論んでいたわけではないと考えるほうが自然です。
資源が乏しい上に中国とロシアに挟まれる立地は、維持のためにお金と人的資源が必要になります。
しかし、朝鮮にも大勢の人が住んでいるわけで、完全に見殺しにするとお互い損ですし、古くからの付き合いもあります。
ならば朝鮮自身に強くなってもらおう!
そうすれば、彼らが自らの手で自国を守り、こちらも侵略される恐れがなくなって万々歳というわけです。
そこで日本としても、朝鮮の近代化に援助を提供しました。
それは自らの身を欧米列強から守りたいという、日本の自国防衛のための先行投資でもありました。
清では西太后 朝鮮では閔妃
もうひとつの大問題は、この時期の清と朝鮮が政治家や軍人に恵まれなかったことです。
清の中枢にいたのが西太后で、朝鮮では閔妃という女性。
二人とも政治センスが皆無な割に金遣いが荒い&人の使い所が完全にトンチンカンで、しかもそれを誰も止められませんでした。
これは「女性だからダメ」というのではなく、古来から儒教による価値観で「女に学問や政治は無理」と思い続けていたため、女性に教育をしてこなかったツケがここに回ってきたのではないでしょうか。
もしここで清・朝鮮が旧来の価値観から脱却し、日本と三国で協力できていたら、20世紀の歴史は大きく変わっていたのでは……。
欧州での世界大戦は不可避だったかもしれませんが、少なくとも東アジアの状況は異なっていたハズです。
とまぁ、歴史のIF話はロマンということで、そろそろ現実に起きたことへ話を戻しましょう。
前述の通り、日清戦争は朝鮮半島に関する戦いです。
当然、朝鮮の政治事情も大きく絡んでいます。
当時の朝鮮半島は、宗主国である清の弱体化などによって、非常に混沌としていました。
「今までも清を頼りにしてきたんだから、これからもいざというときは清に頼ればいい」
とする守旧派と、
「日本は最近、清よりも力をつけてきているから、これからは日本を見習って近代化するべき」
と考える開化派が対立していたのです。
当時の朝鮮の実質的な王様だった大院君は西洋嫌いで、キリスト教に対して激しい弾圧を加えるなど、守旧派でした。
そのため、国内では前者が優勢になります。
明治政府でも征韓論を機に内紛へ
しかし朝鮮も次第に、世界情勢を無視しっぱなしには行かないようになります。
当初の朝鮮は、明治に入ってからの日本が「私達と同じように開国・西洋化して、近代的なおつきあいをしましょう」という手紙を送っても、これを無視する有様でした。
朝鮮政府は「“皇帝”は清の皇帝しか認めません! ニセ皇帝の手紙なんか受け取りません!」という態度を貫き、手紙を読むどころか受け取りすらもしたがらなかったのです。
このため、明治政府内でも【征韓論】を巡る政争が起きます。
西郷隆盛は、朝鮮に渡って開国・近代化の交渉を進めようとしました。
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しかし結局は「とりあえず朝鮮は後回しにしよう」ということになります。
反征韓論の大久保利通や岩倉具視らは、朝鮮をつついて万が一紛争に発展し、ロシアほか欧米の列強に付け入る隙を持たれたらヤバイと考えたのです。
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結局、征韓論で負けた西郷はその後、西南戦争(1877年)へと駆り立てられ、板垣退助が自由民権運動(1874年~)に進みます。
そしてその間も朝鮮は相変わらず攘夷の意向を強めていました。
日本国内でのほとぼりが冷めた頃、明治政府は再び朝鮮へ使者を送りました。
それでも朝鮮の態度は頑ななまま。
しびれを切らした明治政府は、軍艦を派遣して空砲を撃つなどの威圧を行い、朝鮮との談判を進めようとしました。
さらに測量や朝鮮政府への薪水要求などまでしようとしています。
……これって幕末のペリーと全く同じやり方なんですよね。ここらへん、日本側も芸がないというか下地がないというか。
当然、朝鮮政府は不快感を示し、小競り合いが起きて事件になりました。
これが江華島事件(1875年)です。
このときは両国ともに「現場の人間がイライラしすぎて起きた偶然の事故」と認識し、大きな問題にはしませんでした。
しかし、江戸時代からの朝鮮通信使など往来等によって悪い間柄ではなかった日本が、半ば武力行使に出てきたことは、さすがに朝鮮政府でも重く受け止められます。
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これをきっかけに、朝鮮政府でも開化派が勢力を伸ばし始めます。
それでもトップの大院君が守旧派なので、急激には変わりませんでしたが。
ソウルで壬午の変が勃発
日本は江華島事件の翌年、一方的に不平等条約である日朝修好条規を結んで、朝鮮に国際法を意識させようとします。
これは当時日本に来ていたお雇い外国人であるギュスターヴ・エミール・ボアソナードというフランス人法学者の意見も影響していました。
ボアソナードは朝鮮のいくつかの港を開かせることなど、明治政府に「決して譲ってはならないこと」を提案したといいます。
この条約ではその他に、貿易に関することや、日本以外の諸外国の漂流民に関する扱いなどが取り決められました。
不平等条約である最大の理由は、領事裁判権があることです。
これは「日本人が朝鮮の開港地で罪を犯した場合、日本人領事が裁判を行う」ということです。
しかし、もともと朝鮮通信使の時代にもそんな感じだったので、朝鮮側も大した問題とは思わなかったとか。
逆に、日本が要求した最恵国待遇については、朝鮮側の大反対で削除されています。
なぜか?
この時点では「朝鮮は今後も欧米に対して開国するつもりはない(比べる対象がない)ので、最恵国待遇をする必要がない」と主張されたからです。
隣の清を見ていれば、それはほぼ不可能なことくらいわかりそうなものなのですが……。
というか、清が偉大であったことはわかるのに、その清が弱体化して西洋諸国にボロボロにされたことがわからないというのが何とも。まぁ、面倒なので認めたくなかっただけかもしれませんが。
ただでさえ、よそ者にデカイ顔をされるのは不愉快なものです。
朝鮮に進出した日本人の中にも、西洋化が進んでいることなどを笠に着る不届き者がいたため、朝鮮人の反感を煽ることになってしまいました。
それが極まって【壬午の変】という暴動事件まで起きました。
このため、日本は自国民保護の名目でソウルに軍を駐屯させるようになります。
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