大日本帝国憲法と自由民権運動

『新皇居於テ正殿憲法発布式之図』安達吟光画/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

「板垣死すとも自由は死せず!」とは言ってない?大日本帝国憲法と自由民権運動

2025/02/10

政治や憲法の話って、とっつきにくいですよね。

それが歴史のお勉強なら尚更ですが、中には親しみやすい話もあります。例えば次の一文。

「板垣死すとも自由は死せず!」

まるで映画みたいな名言で、誰しも小中学校の授業で通るハズです。

これ、実際には別の言葉だったのですが、なんで現在に至るまで誤解されたまま伝わっているのか――そういった話も含めて噛み砕いて飲み込んでいけば、歴史上の政治や憲法ネタも興味を持てるようになるのでは?

明治22年(1889年)2月11日は大日本帝国憲法が発布された日。

今回は自由民権運動(1874年~)からの大日本帝国憲法(1889年)と帝国議会(1889年~)をスッキリ整理してみましょう。

 


自由民権運動とは?

まず自由民権運動から。

これは「国会開設と憲法制定を目指して、板垣退助などが行った政治運動」のことです。

時代は、明治初期の話ですね。

具体的には「明治六年の政変(1873年)」で政府を去った板垣退助が地元・土佐で始めたものです。

この政変は【征韓論】を巡って敗北となった板垣退助西郷隆盛、江藤新平などの主要人物たちが下野(政府を辞職)したものです。

西郷隆盛(石川静正画の油彩)/wikipediaより引用

後に江藤新平佐賀の乱(1874年)を起こし、西郷が西南戦争(1877年)へと駆り出されてしまうのに対し(不平士族の反乱)、板垣は全く違う方法から政府へのアプローチを始めました。

それが民撰議院設立建白書の提出です(1874年)。

板垣は明治政府に対して、こんな意見書を出しました。

「政府は国民に多くの義務を課すのに、国民の意見を聞かないのはおかしい。国会を作って、国民の意見を取り入れた政治を行うべきだ」

元々、五箇条の御誓文の中にも「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とあるため、明治政府にとっても永遠に無視できるものではありませんでした。

さらに、板垣の建白書は新聞にも掲載され、彼自身も積極的に自分の考えを広めていったことで、自由民権運動に賛同する人々が増えていきます。

また、さまざまな士族反乱の末に西南戦争で西郷らが敗れたことにより、生き残った士族たちも「チカラではなく言論で自分たちの立場を守っていこう!」と考えを変えていきます。

この辺、同時進行なのが実にややこしいところです。

 


「吾死スルトモ自由ハ死セン」がなぜか……

こうした士族の反乱を経て、政府としても

「また暴徒化されてはたまらない」

と考え、一時は自由民権運動を取り締まろうとしたこともありました。

このころ板垣が暴漢に襲われるという事件も起きています(1882年の岐阜事件)。

その際、彼が言ったとされるのが有名な「板垣死すとも、自由は死せず」ですね。

板垣退助/国立国会図書館蔵

元の発言は

「吾死スルトモ自由ハ死セン」

だったようで、世の中へ伝わる間に変形したようです。

他の言葉だとする証言もいくつかありますが、いずれにせよ同じような意味の言葉ですので、そこは庶民へ伝わりやすい文言で良かったかもしれません。

もしかしたら、板垣を襲った犯人たちは、運動の中心である板垣にわざと危害を加える事で、自由民権運動に加わった人たちを激高・暴徒化させ、政府が武力で取り締まる口実を作ろうとしたとか?

幕末も西南戦争もそんな感じでしたし。

しかし、このときはそうはいきませんでした。

「力尽くではなく、請願で国に意見を聞いてもらおう」という人々が政府の思った以上に多く、板垣らによる国会開設の請願書への署名は日々増えていったのです。

そして板垣は日本初の政党・自由党を結成しました。

 

大日本帝国憲法とは?

このころ中央では、明治十四年の政変(1881年)が起きておりました。

随分と政変が好きだな!

というツッコミはさておき、これは簡単にいえば、憲法をドイツ式かイギリス式にするかで政府内が揉めて、「議会政治と国会の開設を急ぐべき」としていた大隈重信が失脚します。

以降、岩倉具視と伊藤博文によって憲法制定が主導されることになります。

伊藤博文/国立国会図書館蔵

しかし、大隈も政治を諦めてはおらず、立憲改進党を作って政界へ新たなアプローチをはじめました。

この党は割と早く解党してしまいましたが、後継となる党があるので完全に消滅したわけではありません(こうした動きが受験生泣かせの政党乱立に繋がっていきます)。

中央で政争が起きている間も、国会と憲法制定を求める声は高まり続け、政府はついに折れます。

明治十四年10月に「明治二十三年(1890年)までに国会を作るよ」と発表し、翌年、伊藤博文が憲法研究のため、ドイツとオーストリアに派遣されるのでした。

現地で憲法のプロにみっちり教えを受けた伊藤。

一年半ほどで帰国し、さっそく起草を始めます。

そして三年ほどかけて草案が作られ、その後、審議とドイツ人顧問らの意見を取り入れて完成したのが……大日本帝国憲法です。

大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目/wikipediaより引用

最も参考にしたのはプロイセンの憲法(正式には「ドイツ国憲法」。他にビスマルク憲法やドイツ帝国憲法といった意訳アリ)だとされます。

ヨーロッパの中でも新興国に入るプロイセンを参考にしたのは、かの国の憲法が君主の権力を重視していたからです。

明治天皇を中心かつ神格化したい政府にとっては、ちょうどいいお手本でした。

 


憲法に記された天皇の特権とは?

大日本帝国憲法の中で天皇のみが持つ特権とされているものは、

・統治権
・立法権
・宣戦、講和、統帥権

などがあります。

とはいっても、これは半分以上名目であって、ほとんどの権利は議会の協力を得た上で行使されていました。

ある意味で例外といっていいのは統帥権でしょうか。

「陸・海軍は天皇が直接率いる」という意味ですが、同時に「軍は天皇に直接指揮されるべきものだから、議会や政府の指図を受けない」ということにもなりえます。

この辺が後に大問題どころでは済まない話になるわけです。ご存知、戦時の軍部による独走ですね。

余談ですが、政府が憲法を起草~完成させている間、自由民権運動をしていた人々によって私的な憲法案が作られたこともありました。

「私擬憲法」と呼ばれています。

中には「選挙によって選ばれた議会は、行政権の主張である天皇に優越する」とした超先進的なものまであったようです。

よくこの時代に発表できましたね。

大日本帝国憲法は一応、欽定憲法(=天皇から臣下・国民に与えた憲法)のはずですが、序文で「皇祖皇宗の神霊から授かった権力により天皇は臣民を統治します」的なことが書かれているので、王権神授説のような部分もあるように思えます。

王権神授説とは、書いて字のごとく「王様は神様から権力を与えられたんだからエラい!」という説です。

しかし、ヨーロッパでは16世紀(=明治時代からみて300年程度前)に出てきた説なので、当然近代的ではありません。

 

憲法は先進国の条件として好意的に受け入れられた

明治天皇は立憲君主であろうと務めていましたし、立場上本心を漏らすことは控えていたでしょうから、この辺をどう考えていたかはわかりません。

エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇/wikipediaより引用

しかし、うがった見方をすると「明治政府がいかに天皇を神格化し、統治に利用するか腐心していた」ことの現れともとれますね。

そのくせ条文などでは立憲君主制を強く意識したと思われる「◯◯の場合に天皇は◆◆できる」といった文が続くので、ねじれているというかなんというか……。

神聖視するのか利用しようとしてたのか、どっちなんだ?とツッコミたくなってきます。

この頃お雇い外国人として日本に来ていたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは

「伊藤博文が皇太子(後の大正天皇)に関する話の中で、操り人形を動かすような仕草をしてみせた」

と日記に書き残していました。

憲法の中にもそういった考えが現れていたのでしょうか。

しかし、当時は「憲法ができる」=「先進国としての最低条件」と受け取る人が多く、好意的に見られていました。

「議会ができる」=「国民から選ばれた議員が国政に参加できるようになる」からだと思われます。

日本初の衆議院選挙は、大日本帝国憲法発布の翌年である明治二十三年(1890年)に行われました。

ただし投票権を持つのは成人男性のうちごく限られた一部(直接国税15円以上の人)だけで、選挙で選ばれるのは衆議院のみ。

良くも悪くも“最初の一歩”だったわけですね。

 

帝国議会とは?

議会は「帝国議会」と呼ばれ、略して「国会」とされました。

おおむね「大日本帝国憲法が使われていた時代=帝国議会だった時代」と思っていいでしょう。

帝国議会は、

・貴族院
・衆議院

の二院制で、衆議院が予算先議権を持つ以外、ほぼ対等の権限を持っていました。

この時代の日本での貴族=華族なのに「華族院」じゃないのは、もしかしたら皇族や高額納税者・学者なども貴族院議員になれたからですかね。

ちなみに、華族や貴族院議員になった元大名もたくさんいました。

例としては徳川慶喜や松平容大(容保の息子)、毛利元徳(毛利敬親の息子)などがいます。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用

さすがにこのくらいの時代になると、維新時に大名だった人より、その次の世代が増えており、時の流れが感じられますね。

帝国議会は毎年12月に召集され、会期は三ヵ月とされていました。

必要により勅命で延長したり、臨時会も時と場合によって開くことが可能でした。この辺は現代の国会と似ていますね。(現代は毎年1月に通常国会招集・会期150日)

帝国議会では、衆議院が解散されると貴族院も停会しましたが、逆に貴族院によって衆議院が何かしらの制限を受けることもありました。

現代の国会では「衆議院の優越」があるので、ここが大きく違いますね。

現代から見れば、明治時代の憲法や議会には不十分な点やツッコミどころがたくさんあります。

しかし、その背後には当時の情勢や価値観が大きく影響しているのですから、時代が変わったということです。

大日本帝国憲法が廃止されたのは、日本国憲法(現代の憲法)が施行された昭和二十二年(1947年)のこと。

既に、日本国憲法のほうが長く使われていることになります。

現代の憲法も、今後大きく情勢が変わることがあれば、改正や廃止せざるを得ないときが来るのかもしれませんね。


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【参考】
国史大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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