蕃書調所

蕃書調所/photo by Lover of Romance wikipediaより引用

幕末・維新

優秀な幕臣たちによって設立された「蕃書調所」東大の前身で何を学んだ?

2025/02/10

安政3年(1856年)2月11日は、江戸幕府が設立した洋学所が、正式に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)という名称になった日です。

字面からすると何かの調査機関のようにも思えますよね。

実はここ、東京大学の元となった学術機関のひとつであり、川路聖謨や岩瀬忠震、あるいは勝海舟など、優秀な幕臣たちによって進められたものでした。

幕末も迫るこの時期、いったい何を学んでいたのか?

というと、もちろん洋学(西洋の学問)です。

「蕃書」とは洋書のことで、それを調べる所だから蕃書調所となったんですね。

では一体どんな機関だったのか、見て参りましょう。

蕃書調所/photo by Lover of Romance wikipediaより引用

 


「洋学」と「蘭学」の違いってご存知?

「洋学」と「蘭学」――。

実は、その違いはほとんどありません。

開国までは西洋の学問や技術がオランダ経由で入ってきていたので、オランダの日本語表記に大体ついている「蘭」をつけたものと思われます。

開国後は、当然ながらオランダ以外からも知識が入るようになったため、「西”洋”の”学”問でいいんじゃね?」ということで「洋学」と呼ばれるようになったのでした。

また、これ以前にも西洋の学問に触れている機関はありました。

幕府で暦を作っていた「天文方」です。

天文を学ぶためには西洋の学問が必要になったため、天文方は少しずつ翻訳もするようになりました。

そして天文方の中に「蛮書和解御用」という部署ができ、これをさらに拡大したのが蕃書調所というわけです。

この設立に関わったメンツがかなり凄いです。

 


川路に岩瀬、勝海舟

外国の調査や、西洋技術の習得あるいは通訳など。

対外国の機関として幕末に作られただけあって、冒頭で触れたように、設立に関わった幕臣は名だたる者ばかりでした。

まず注目は大河ドラマ『青天を衝け』で平田満さんが演じた川路聖謨(としあきら)。

海防掛(かいぼうがかり)に任命され、対ロシア問題なども引き受けた人物で、その優秀さは当時から知られていました。

最期は、幕府の江戸城無血開城後に悲嘆し、日本で初めてピストル自殺をしたことでも知られますね。

川路聖謨/wikipediaより引用

岩瀬忠震(ただなり)も設立に関わっています。

日米修好通商条約の事前交渉を進めた幕臣で、米国側のハリスを相手に巧みな交渉術を展開、感心された人物です。

幕末維新は、幕臣の功績が消されてしまい、岩瀬のこともあまり知られておらず悲しいですね。

岩瀬忠震/wikipediaより引用

さらには勝海舟や阿部正弘など。

もはや説明不要といった大物たちも絡んでいます。

まぁ、今でいえば外務省の養成機関を作るようなものですから、優秀な頭脳を集結させるのも当然ですよね。

実際、この蕃書調所が東京大学になるわけですし。

 

和算の下地があったから数学が馴染みやすかった

蕃書調所では多くの学問が行われていました。

下の画像は「蕃書調所の書籍目録」ですが、様々な学問の書籍がずらーーーーーと並んでいます。

蕃書調所の書籍目録(右側のページに「東京帝国大学図書印」とあります)/国立国会図書館蔵

まずはオランダ語教育が始まり、数年のうちに機械学や他のヨーロッパ系言語、精錬学、画学(美術)など、驚異的なスピードでさまざまな分野を取り扱うようになりました。

一番人気は、意外なことに数学だったようです。

慶応年間=開所からだいたい10年後には150人もの生徒がいたといいますから、全体の規模からすると相当の割合だったでしょう。

これは、当時の日本人がガリ勉だったとか数学が得意だったというよりも、【和算】という下敷きがあったからだと思われます。

関孝和をはじめとした和算学者はたびたび世に出てきていましたし、庶民も日常的に算数に親しんでいました。

関孝和/wikipediaより引用

というのも、江戸時代は量り売りのお店が今よりずっと多かったからです。

油や反物やお米などの生活必需品を買うときに、自分で計算する必要がありました。

日常的に使っているものなら、親しみもわきますし、「もっと早くできるようになりたい! そうだ算術を学ぼう!」という意欲も出ますよね。

 


中国語はそのまま読むことが重要だ

その中でも特に計算が好きな人々は、自ら問題を作って神社に奉納したり、皆で話し合って解いたりしていました。

「楽しいから」「おもしろいから」というだけで自ら勉強をしていた江戸時代の庶民、おそるべし。

寺子屋という基盤があったからかもしれませんね。

ちなみに、東洋の学問はまた別の扱いになっていました。といっても、この時代に学問として伝わってきていたのは中国のものくらいですが。

中国語については、江戸時代半ばあたりに

「日本語読みではなく、中国の読み方そのままで読むことが重要だ」

と考えられるようになっていたようです。

洋学ほど幕府が力を入れていたわけではないのですが、細々と続けられていて、「古代の書はできるだけ原文・原語で読まなければならない。そうしないと後世の人の余計な解釈で誤解を招く」(意訳)といった考え方もありました。

とはいえ儒学者たちからはpgrされていたらしく、あまりはっきりした事跡が残っていないので、詳しいことはわかっていません。

さらにそこにきて、アヘン戦争で清(当時の中国)がイギリスにフルボッコされてしまったものですから、中国語教育はあまり進まなかったのでしょう。

アヘン戦争/Wikipediaより引用

現代でも勉強が得意な人は楽しんでやっていることが多いですよね。

全ての教科がデキるようにと意気込むよりも、まずは得意な教科をとことんやるほうがいいのかもしれません。学問はどこかしらで繋がることも多いですし。

歴史と政治なんてそのまんまでしょう。

日本語ができなければ英語をわかりやすく訳すことなんてできませんから、得意なところで取っ掛かりをつかむといいのではないでしょうか。

というわけで、宿題がまだ残っている学生の皆さん頑張ってくださいね。

当コーナーは勉強が嫌いな人を応援しております。


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【参考】
国史大辞典
江戸時代の中国語研究(著・西原大輔)(→link
蕃書調所/Wikipedia
杉田成卿/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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