日本史で「シーボルト」と言えば?
誰しも思い浮かべるのが文政12年(1829年)の「地図持ち出し事件」でしょう。
幕府の役人十数名が処罰を受け、シーボルト自身も国外追放の憂き目に遭ったというものですが、ほとんどの方はこの先の意外な歴史を知らないように見受けられます。
というのも、このシーボルト、安政6年(1859年)に再来日しているのです。
しかも今度は息子のアレクサンダー・シーボルトも同行。
わずか12才でやってきたこのアレクサンダー、終生、日本のために働き続けるのですから、歴史というものは本当にわかりません。
では具体的にはどんな働きだったのか?
本稿では父ではなく、息子のアレクサンダー・シーボルトの生涯に注目してみたいと思います。
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あのシーボルトの息子
アレクサンダーは弘化3年(1847年)、オランダの都市ライデンで生まれました。
父は、皆さんご存じのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
簡単に言うと『シーボルト事件』を起こしたあのシーボルトです(以後「シーボルト」で統一・息子はアレクサンダーで表記します)。
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アレクサンダーは長男で、他に著名な兄弟が次男ハインリヒ。と、さらにもう一人、日本史ではお馴染みの人物がいます。
楠本イネ――来日中のシーボルトと遊女・楠本たきとの間に生まれた娘で、アレクサンダーにとっては異母姉にあたりますね。
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当時、出島にいたオランダ人たちにとって、現地妻をもうけることは当たり前のこと。
彼女も、その運命は覚悟の上だったでしょう。
もともと任期付きの日本滞在だったシーボルトは帰国の日が着々と迫っていたのですが、ここで思いもよらない事件が発生します。
シーボルトが親しく交流していた日本人・高橋景保と禁制品のやり取りをしていたことが発覚。
高橋は罪人として取り調べを受けることになり、俗にいう【シーボルト事件】によってシーボルトは出国を禁じられ、帰化申請も黙殺されるという有様でした。
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高橋は獄中死の憂き目にあい、最終的にシーボルト自身は国外追放と再入国禁止の処分が下され、たきとその娘・イネを残して帰国せねばならなかったのです。
その後、シーボルトは日本研究の成果を認められ、ヨーロッパの学会で高く評価されました。
彼は日本研究の重要性を訴え、その成果を『日本』という学術書にまとめて出版しています。
この時期にシーボルトはヘレーネと出会い、アレクサンダーは生を受けたのです。
父の入国解禁 共に日本へ
シーボルト一家はドイツのボンに移り住み、アレクサンダーはそこで高等学校に通いました。
父のシーボルトは、革命の嵐が吹き荒れたヨーロッパで、新たに誕生した臨時ドイツ革命政府で海軍大臣の地位を目指したとされます。
しかし、肝心の革命政権がすぐに倒れ、政治家としての道を断念。
引き続き日本には関心を持ち続けており、開国を求める国王親書を起草したほか、数多の研究成果がペリーの目に留まり、日米和親条約の交渉締結に大きな手助けとなっています。
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その後の展開は皆様もご承知の通りでしょう。
日本は欧米各国と交流を始め、安政2年(1855年)にはオランダとの間でも日蘭修好条約を締結。
シーボルトの再入国禁止令も解かれることになりました。
スパイ扱いされ、国外追放されてもなお、日本に関心を示し続けたシーボルト。入国が可能になったとあれば、もちろん黙ってはいません。
さっそく安政6年(1859年)、再び日本へと旅立ちました。
このときアレクサンダーも父に連れられてきており、わずか12歳の若さで日本の土を踏むことになりました。
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