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【アレクサンダー・シーボルト】
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日本で語学力を伸ばした
日本にやってきたシーボルトは、実に30年近く離れ離れになっていた旧知の日本人たちとの再会を喜び、同時に社会で起きた様々な変化を耳にしました。
もちろん、楠本たき・楠本イネの親子とも再会。
紆余曲折ありながら二人は無事であり、異母弟となるアレクサンダーにとっても彼女たちとの関係は大いに役立ちました。
シーボルト自身が不在の間、彼女たちの養育を請け負っていた医師・二宮敬作が、甥である三瀬周三を引き連れて来てくれたのですが、この周三がオランダ語堪能であり、アレクサンダーに日本語を教えてくれたのです。
周三が優れた教師だったのか。あるいはまだ若かったからか。
アレクサンダーは驚くべき速度で日本語をマスター。
やがてシーボルト再来日の知らせが江戸にも広まるようになると、当時将軍の侍医だった門下生がいたことも関係し、シーボルトは江戸に呼び寄せられました。
彼は西洋の学問を教える教師の役割も担いつつ、西洋諸国と付き合うにあたってのアドバイザーとしても助言を送っています。
アレクサンダーも父と共に江戸へ。
やがてシーボルトは本国の命で帰国を余儀なくされます。
彼は老中たちとも親しく交流するほど幕府にべったりで、その姿を警戒されたのが原因ではないか?と言われています。
シーボルトは日本に肩入れしすぎて西洋諸国との関係を悪化させたり、「オレが一番詳しい!」と独りよがりな活動をしたり、彼自身にも問題があったのではないかという指摘があるほど。
日本人にとっては嬉しいかもしれませんが、結局、彼は文久元年(1862年)に帰国を余儀なくされ、その後、慶応2年(1866年)に70歳で亡くなりました。
日本に残って英国公使館通訳として活躍
アレクサンダーは、父と一緒に帰国せず、日本にとどまりました。
その理由は、彼の類まれなる語学力。
イギリス公使館の日本語特別通訳官に任命され、アーネスト・サトウらと共に英語も学ぶかたわら、漢文の研究にも取り組んだといいます。漢文を否定する現代人に教えてあげたいほどですね。
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ただし、アレクサンダーの英語力は素人レベルで、他の優秀な研修生たちに比べると、勉強期間や英語力の点では大きく劣っていたといいます。
それでも、彼ほど流暢に日本語で会話できる人物がおらず、その点が高く評価されました。
職場環境は大変良好だったようで
「上司も同僚もみな尊敬できて優しい。ひさびさにヨーロッパ風の暮らしもできて、体調も回復してきた」
と書き残しています。
その後は通訳に任命される一方、イギリス公使・オールコックの実質的な秘書業務や会計も彼の仕事に。
こうして実績を重ね、文久3年(1863年)には、イギリス・薩摩の交渉で通訳を任されています。
両者は前年の【生麦事件】で関係が悪化しており、アレクサンダーはこの難しい局面での通訳を任されたのですが、ご存じの通り両国の交渉は決裂し、【薩英戦争】が勃発してしまいます。
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言うまでもなく実際に交渉するのはイギリスと薩摩藩。
通訳ができることなど限られていたはずですが、彼は晩年まで「私の通訳に何かミスがあったのだろうか」と気に病んでいたようです。
語学力の成長といい。仕事に向き合う姿勢といい。アレクサンダーの実直な人柄が伝わってきますね。
実際、彼は、公使館内だけでなく幕府にも信頼され、慶応3年(1867年)、徳川昭武の遣欧使節団にも参加することになりました。
維新後も世界を飛び回り
この遣欧使節団は、フランスからの招待でパリ万博への参加を目的に派遣されていました。
大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一も同行したことで知られ、史実においてアレクサンダーとの交流があったことは間違いないでしょう。
アレクサンダーはこの機会を利用して父の遺品を整理。
大英博物館に3441点もの膨大な書物や絵巻物を売却しました。
しかし、です。
旅の一行は次第に追い詰められてゆきます。
彼らを支えていた江戸幕府が追い詰められ、とても遣欧使節団どころではなく、資金不足に陥ったのです。
なんせ京都では【大政奉還】が行われるほどですから、帰国を余儀なくされるのも当然の流れ。
いざ日本にたどり着いてみると、社会は出発前と様変わりしていました。
アレクサンダーは引き続きイギリス公使館に勤務し、さらには明治維新後に日本を訪れたオールトリア=ハンガリー帝国の使節団でも通訳を務めました。
当時の英国公使ハリー・パークスの協力もあり、
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わずか10日あまりで日本とオーストリア=ハンガリー帝国は友好条約締結に成功。
この功績を認められ、同帝国のフランツ・ヨーゼフ帝からオーストリア貴族の位を授けられています。
アレクサンダーの名声は明治政府もよく知るところとなり、明治3年(1870年)には日本の外交顧問として新政府に入るよう要請をうけます。
彼は喜んで受諾し、イギリスやオーストリアではなく日本の外交に協力を惜しみませんでした。
不平等条約改正に向けた戦い
日本の外交顧問となったアレクサンダー。
その後は必然的に最大の外交課題【不平等条約の改正】に挑むこととなります。
明治5年(1872年)には欧米へ向かった岩倉遣欧使節団の案内役を務め、各国との会談や情報収集に明け暮れました。
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その中でアレクサンダーは、自身も強力なコネクションを有していたオーストリア=ハンガリー帝国の首都・ウィーンで開催される予定の万国博覧会に注目。
日本の公式な参加を強力に働きかけ、彼の貢献もあって明治政府としては初の万博参加が決まりました。
万博ではお雇い外国人・ワグネルの指導下で「美術工芸品」を中心に出品し、東洋のエキゾチックな品々は欧州で注目の的となります。
ウィーン万博への参加が大成功で幕を閉じると、帰国後はしばらく大蔵省で翻訳などの仕事の日々。
その後、外務省に属して松方正義のもとであらためてパリ万博に参加すると、明治12年(1879年)にはベルリンの日本公使館勤務に抜擢されます。
アレクサンダーは公使・青木周蔵のもとで働き、現地では伊藤博文とともに法律の勉強もしています。
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日本政府の粘り強い動きやアレクサンダーの協力もあり、明治27年(1894年)、ついに青木周蔵のもとで日英通商航海条約が結ばれました。
アレクサンダーは以前から顧問として条約改正会議に出席していて、大きな貢献を果たしたことになります。
また、彼の弟であるハインリヒが、当時、オーストリア公使の顧問・通訳官として会議に出席していたこともあり、兄弟間での交渉もスムーズに進展しています。
完全な「不平等条約の改正」は明治44年(1911年)まで待たなければならなかったものの、大きな成果を挙げた日本とアレクサンダー。
以後も、彼はヨーロッパから日本の外交を支えていきます。
「日本コレクションの収集」という役割も
アレクサンダー自身はプロイセン国籍を取得し、明治20年(1887年)以降はヨーロッパから日本の外交を支えました。
現地にわたって結婚した妻とともに南ドイツで城を入手し、そこを根城に活動。
不平等条約の改正も、この地で暮らしながら関わっておりました。
晩年には日清戦争・日露戦争の勝利によって強国になった日本を警戒する「恐怖感」を払しょくするために活動し、出版活動を通じて対日世論の形成にも貢献しています。
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一方で日本政府に国際情勢に関する情報をもたらし、最期まで日本のための活動をしていたといえます。
明治44年(1911年)に64歳で死去。
その同年。小村寿太郎のもとで不平等条約の改正に成功したのは、なにか因果めいたものが……。
アレクサンダーがヨーロッパに帰ったのちも日本での評価は高く、彼の追悼集会で日本公使・珍田捨己(ちんだ すてみ)はこう発言しています。
「長い期間政府に仕え、日本に親近感を示しつつ全力で貢献してくれた。彼の功績はあまりにも多すぎるくらいだ。ただ、彼が目指した『日本とドイツの友好関係』をより一層強化し、その努力に報いていきたい」
父・シーボルトと同じく日本への愛を示した一方、息子は政治や外交面で大きな成果を残しました。
また、日本の美術工芸品に関心を寄せていたのも父譲り。
岩倉使節団に同行してヨーロッパを訪れた際にコペンハーゲン国立民族学博物館・ベルリン民族学博物館・ライプツィヒ民族学博物館・ベルリン民族学博物館などの資料収集活動に助力し、コネクションを生かして、大量の日本産美術工芸品をヨーロッパへと輸出しました。
同時にヨーロッパにおける日本コレクションも集め、父と共に日本の美術工芸にも多大な貢献を果たしたことになります。
昨今はシーボルト父子研究も盛り上がりを見せており、今後さらに評価が高まる人物の一人かもしれません。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
板沢武雄『シーボルト』(→amazon)
ヴォルフガング・ゲンショレク/眞岩啓子訳『評伝シーボルト』(→amazon)
ヨーゼフ・クライナー編著『黄昏のトクガワ・ジャパン:シーボルト父子の見た日本』(→amazon)
宇神幸男『幕末の女医楠本イネ:シーボルトの娘と家族の肖像』(→amazon)