楠本イネ

楠本イネ/wikipediaより引用

幕末・維新

楠本イネはあのシーボルトの娘|日本初の女医として歩んだ76年の生涯とは

2025/05/05

文政十年(1827年)5月6日は、後に日本初の女医となる楠本イネの誕生日です。

母が日本人女性で、父は外国人男性――今では珍しくもありませんが、当時は、外国と交流をほぼ絶っています。

なのになぜイネは誕生したのか?

理由はシンプル。彼女の生地は長崎で、母の滝が、出島に出入りしていた遊女だったのです。

おそらくイネの他にも、同じような出自の子供はいたでしょう。

しかし、イネの場合、父親がその後の運命に大きく影響し、そして彼女の名も歴史に残します。

なぜなら彼女の父とはフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト。

楠本イネ/wikipediaより引用

すなわち「鳴滝塾」を作り、事件で日本を追い出された、あのシーボルトだったのです。

 


楠本イネの父・シーボルトは地図の持ち出しがバレ

シーボルトは当時、長崎のオランダ商館所属の医師として働いており、そこで滝と出会い、結果、楠本イネが生まれました。

二人はイネをそのまま放り出したりはせず、自分の家に引き取っていたので、きちんと家族として認めていたようです。

しかし、イネが物心つく前、2歳のときに悲劇が起きます。

シーボルトが一時帰国の際、日本の地図を持ち出そうとしたのが幕府にバレ、再入国禁止処分になってしまったのです。

いわゆる【シーボルト事件】ですね。

シーボルト/wikipediaより引用

地図を持ち出したらマズイ理由は至極単純。

国防上の観点からです。

戦争をするとき地形というのは凄まじく重要な要素であり、中国の儒学者・孟子も「天の時、地の利、人の和」が重要であると説いていますね。

「日頃の行いが正しければ自然と国は治まるモンだから、戦なんてする必要ないんだけどね」(超訳)

なーんてことも言っておりますが、まぁその話は置いておきましょう。

地図があれば、大きな山を回りこむように動いて敵の背後を突くことも可能ですし、海でもまた同じようなことがいえます。

というわけで、そもそも国防も兼ねて鎖国状態を続けていた幕府としては、外国人による地図の持ち出しというのは厳罰にすべき事柄だったのです。

シーボルトは「そんなつもりじゃなかったんです。日本がどんな国なのか、故郷の人にも広めたくて」と言いましたが、そんな言い訳は通用しません。

 


混血児ゆえに普通の幸せは望めない!?

楠本イネは、父としばらくの間、別れ別れになります。

シーボルトも、幼い娘と情を交わした相手のことは気がかりだったのでしょう。

医学の弟子達に二人の生活を面倒見てくれるように頼んでから日本を後にしました。

楠本イネの母・滝の肖像画/Wikipediaより引用

帰国後もたびたび滝とイネへ文物を送っているので、いつか再会するつもりだったはずです。

その中にはオランダ語の教本や医学書も含まれていました。

もしかするとそれらは弟子達に宛てて送ったものだったのかもしれませんが、これがイネの人生を決めるきっかけになります。

混血児ゆえに周囲から冷たい視線を浴びることもあったイネは、

「普通の女性と同じように、結婚したり家庭を持つことはできない」

と考えていたようで、本から医学やオランダ語を学び始めたのです。

それまでも女性の助産師(いわば”産婆さん”)はいました。

しかし、解剖学まで学んだのはイネが日本で初めてだといわれています。

師の一人には、大村益次郎もいます。

大村益次郎/国立国会図書館蔵

シーボルトの門下生の一人が宇和島藩の人で、藩主・伊達宗城(だて むねなり)の覚えもめでたく、その縁で益次郎とも知り合ったようです。

宗城は「幕末の四賢侯」に数えられる賢人であり、イネ本人のことも引き立ててくれ、足場が固まり始めます。

幕末の四賢侯

薩摩藩第11代藩主・島津斉彬

宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

福井藩第14代藩主・松平慶永(松平春嶽)

土佐藩第15代藩主・山内豊信(山内容堂)

こうして女医としての知識を深めていったイネ。

しかし、ここで思わぬ事件が起きてしまいます。

 

タダで授かった娘だから名前は「タダ」って……

イネは上記の通り普通の女性として生きることはできないと思っていたので、結婚するつもりはありませんでした。おそらく恋愛すらあきらめていたでしょう。

それなのに、子供を授かってしまったのです。

お相手は医学の師と言われながら、詳しい成り行きはわかっていません。

イネは相手のことをひどく嫌っていたそうなので、憶測でモノを言うのもなんですが、まあ、なんというか、その、同意なき犯罪だった可能性もあり……。

生まれた女の子は「タダで授かった子だから」という、なんだかなぁ~な理由で「タダ」と名付けました。

これはさすがに伊達宗城にも「あまりにもかわいそうだろ……」と諭され、結果「高」と名前を変えています。

娘の楠本高子/Wikipediaより引用

娘の楠本高子/Wikipediaより引用

話が前後しますが、宗城はイネが元々名乗っていた「失本」という名字についても「縁起が良くないから変えなさい」と言っています。

その後は「楠本伊篤(いとく)」と名乗るようになりますが、この記事では「イネ」で統一しますね。

個人的にはイネ=稲=縁起物ということで、そう悪い名前でもないと思いますし。

 


都内に診療所を開設 福沢のススメで宮内庁へ

デカすぎるアクシデントも乗り越え、その後もイネは懸命に医学の道を歩みます。

神様のお眼鏡に叶ったのか。31歳のときには、父・シーボルトとの再会も果たしております。

シーボルト(異国叢書より)/国立国会図書館蔵

別れたのが2歳のときですから、記憶はなかったでしょう。

しかしこのトーチャン、滝とイネの家にいた家政婦に手を出して子供を作っちゃったものですから、ものの見事に娘から軽蔑されます。

感動の再会が台無しだよ!

上記の件といい、これでは男性に対して完全に夢を持てなくなったのも無理はありません。

医師としては順調で、明治に入る頃には師匠からも認められていました。

益次郎が刺客に襲撃されたときにも治療にあたっています。

彼は現在でも処置が遅れれば助からないような”敗血症”という状態になっていたため、残念ながら助けることはできませんでした。

伊達宗城にとっては、かつて縁のあった人が力を尽くしてくれただけでも気持ち的には充分だったかもしれませんね。

その後はお雇い外国人として来日していた異母兄弟の支援で、東京に診療所を開きました。

福沢諭吉と知り合ったことで宮内庁へも推薦。

明治天皇の女官の一人が出産する際にも世話役を任されています。

残念ながら死産だった上に、その女官自身も亡くなってしまいましたが、それまでずっと逆境で暮らしてきたイネにとっては、身に余る光栄だったことでしょう。

楠本イネと娘の楠本高子/Wikipediaより引用

楠本イネと娘の楠本高子/Wikipediaより引用

しかしその後、医師が免許制になると、既に歳を取っている自分では無理だと考え、助産師として新たなスタートを開拓。

62歳で廃業した後は、異母弟・ハインリッヒのもとに身を寄せ、76歳まで生きました。

死因は食中毒だったそうなので、もしそれがなければもっと長生きしていたかもしれませんね。

イネは1977年の大河ドラマ『花神』でヒロインとして描かれていたことがあるのですが、これだけ波乱万丈な人生を歩んだ人ですから、そろそろもう一度主役にしてもいい気がします。


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【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
楠本イネ/Wikipedia
楠本高子/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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