明治十二年(1879年)8月31日、坂本乙女が亡くなりました。
坂本龍馬のお姉ちゃんで、48歳。
「乙女」は当て字で、本名は「留」(とめ)だったそうです。
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別名「仁王」離婚後の第2独身時代の名は「独」
「乙女なんて言われていたなら、きっと綺麗で優しい女性だったに違いない! カワイイ系か!?」
なんて思った皆様、ハズレです。
この坂本乙女様、人呼んで「坂本の仁王様」でした。
身長174~176cmはいいとして、体重なんと110kgオーバーという迫力満点の体格と伝わっています。
時代が離れてますが、徳川吉宗とガチンコバトルをやってほしいくらい。
力士を投げ飛ばした(という噂の)暴れん坊将軍vs坂本の仁王様、結構イイ勝負になるんじゃないかと。
この方のスゴさはこれだけではありません。
薙刀や剣・馬・弓などの武芸から、琴や舞踊・和歌といった芸術面までありとあらゆる才能を持った女性だったのです。
土佐藩の正月行事【乗初式(のりぞめしき)】にもこっそり男装して参加し、十尺(約3m)の薙刀をぶん回したこともあるとか……って、もう完璧すぎて逆らえそうにありません。
彼女は夫との不和や暴力が原因で離婚したそうですが、どっちの暴力だったのかとか聞いちゃいけない気がします。
離婚後は、名前を変えました。
その名も「独」。まさか毒女って意味じゃないよね?と、ツッコミたくなるような豪快さですなぁ。
おねしょの龍馬に根性をたたき込む
話がだいぶそれました。
乙女さん、龍馬にも厳しく当たりました。
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坂本家は龍馬が12歳の頃に母親が亡くなり、その後は乙女さんが母親代わりになってあれこれ教えていたそうです。
武術や学問はもちろん、気持ちの面でも叩き直したといいます。
この頃の龍馬は、おねしょがなかなか治らない・塾でいじめられては泣いて帰ってくる、というような気の弱い少年だったといわれていますから、将来が心配だったのでしょう。
「末っ子とはいえ、男の子がこれじゃいけない!」と考えた乙女さん、根気強く龍馬を鍛えていきます。
お姉さんの教育の甲斐あり、龍馬はおねしょを治すことができ、明るい少年へと変わりました。
また、二人で何回も土佐藩の造船所を訪ね、世界地図や外国の品々を見たことがあったそうです。
龍馬が後々海軍や貿易への道を作ろうと思ったのは、このときの経験からきているのかもしれませんね。
龍馬は1853年、17歳で江戸へ遊学して、その後、脱藩してしまうので、お姉さんと一緒に暮らしていたのは本当に少年時代だけでした。
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