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【坂本乙女】
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「日本を洗濯するぜよ!」
離れてからの二人は、手紙のヤリトリをよくしていました。
有名な「日本を洗濯するぜよ!」(原文は「日本を今一度洗濯いたし申し候」)も、乙女さんへの手紙の中に書かれているものです。
その前に「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺」(意訳:前述のロクデナシどもを一度皆ブッkrsてから)なんて物騒なことも書いてあるんですが、それは公然の秘密というやつですね。
そんな龍馬とお姉さんとの手紙、国の重要文化財に指定されているものもあります。
京都国立博物館に収められていますね。

京都国立博物館のHPではこのようにして手紙を見ることができます(坂本龍馬で検索すればOK)
京都国立博物館の公式収蔵品ページに写真が載っているので、龍馬好きの方は一度見てみるのもいいかもしれません。
途中でやたらと墨が薄くなっていたり、文章がえらく斜めに傾いていたりして、龍馬が楽しんで書いていたような雰囲気のある手紙ですよ。
本当にお姉さんと仲が良かったんでしょうね。
ただし、後に龍馬の活躍が拡大して付き合いも広がっていくと、政治情勢もかなり複雑となり、姉との話も合わなくなったりしています。
例えば、武市半平太を拷問し、最終的に死に追いやった後藤象二郎。

後藤象二郎/wikipediaより引用
乙女は「姦物役人(かんぶつやくにん・腹黒いやつ)」として嫌っていましたが、龍馬は象二郎と協力し合ったりしたので、反論したりするわけです。
こればっかりは、政治の最先端にいる龍馬と、そうでない乙女とでは意見の相違があって仕方ないでしょう。
ビタミンC不足で壊血病に……
龍馬が暗殺されてしまった後、乙女さんは義理の妹である龍馬夫人・お龍の面倒も見ています。
お龍が坂本家にいたのは3ヶ月ほどでしたが、それは当主の権平(乙女さんと龍馬のお兄さん)夫妻とうまくいかなかったためだとか。
「乙女さんは良くしてくれた」と後々言っていたそうです。
お龍も寺田屋事件の際、入浴中だったにも関わらず外の刺客に気付き、着物一枚羽織って龍馬へ知らせるような気丈な人でしたから、義理とはいえお姉さんと気が合ったのかもしれません。

坂本龍馬の妻だった楢崎龍/wikipediaより引用
そんな偉大な乙女さん、最期は病気で亡くなりました。
壊血病というビタミンC不足が原因の病気で、
・古傷が開く
・他の感染症にかかりやすくなる
などの症状が出ます。
基本的に野菜を食べていればかからないものなのですが、コレラにかかると思って嫌がっていたのだとか。
コレラは江戸時代から度々流行を起こしていたため、さすがの乙女さんも怖かったようです。
龍馬の暗殺から12年後のこと、48歳でした。
追記(2025年8月30日)
今日は何の日?明治十二年(1879年)8月31日は坂本乙女の命日――ということで本記事に関連する画像を本文中に4枚追加しました。
墓所を訪問される方のためにGoogleマップも追加しております。
・2025年8月30日:命日にあわせ肖像などの画像のほか墓所の情報を追加
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参考文献
- 磯田道史『龍馬史』(文春文庫, 文藝春秋, 2013年, ISBN: 978-4167858018)
出版社: 文藝春秋 |
Amazon: 商品ページ - 坂本龍馬『手紙 坂本乙女あて:坂本龍馬』(書誌情報不明)
Amazon: 商品ページ - 司馬遼太郎『歴史の中の日本』(中公文庫, 中央公論新社, 1994年, ISBN: 978-4122021037)
出版社: 中央公論新社 |
Amazon: 商品ページ - 「坂本乙女」『ウィキペディア日本語版』(最終閲覧日: 2025年8月28日)
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