明治二年(1869年)11月5日、大村益次郎(村田蔵六)が亡くなりました。
戊辰戦争の局地戦・上野戦争で容赦のなさ過ぎる作戦を立てて、西郷隆盛にドン引きされた人です。
では普段はどんな人だったのか?
というと、やはり只者ではなかったようで……。
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長州藩の医者の家に生まれた大村益次郎
益次郎は文政八年(1824年)、長州藩のお医者さんの家に生まれました。
家はそこそこ裕福であったらしく、26歳までは長崎や大阪のあちこちで医学・蘭学を学んだり、塾に入ったりして学問に専念しています。
現代で言えば医学生+αってところでしょうか。
その後、長州に戻って開業医になり、結婚もして公私共に一人前とみなされるようになります。
そのまま村のお医者さんでいれば物騒な活躍をすることはなかったのでしょうが、時は幕末。
それまでどちらかというと敬遠されてきた蘭学が、ペリーらの傍迷惑な訪問によって「やっぱ蘭学必要じゃね? 詳しいやつどっかにいない?」ということで需要が出てきた頃です。
四国の宇和島藩に蘭学のプロとして抜擢
そして幕末の名君の一人・宇和島藩の伊達宗城(むねなり)から「あなたは蘭学に詳しいと聞いたが、もし良かったらウチで働いてもらえないか?」とお呼びがかかりました。
とはいえ身分に格段の違いがありますから、あっさり出仕は決まらず、少しもめたようです。
なぜかというと、益次郎が宇和島に着いたとき、宗城もお偉いさんも留守にしていたので、当初は下っ端と同じ給料にされてしまったのでした。
短気な人だったらこの時点でとんぼ返りしててもおかしくないですね。
幸いご家老が先に帰ってきて「こっちから頼んで来てもらったのに、ウチの若いモンがとんだ失礼をしました。よーく叱っておきますんで^^;」(※イメージです)と待遇を改めてくれたので、益次郎はそのまま宇和島藩で働き始めます。
そして西洋の兵法や蘭学について講義をしたり、洋書を翻訳したりしていました。
とはいえ医学から遠ざかったというわけではなく、後々日本初の西洋女医となるシーボルトの娘・楠本イネにオランダ語を教えたこともあります。
イネもまた宗城に目をかけられていたので、たびたび会う機会があったかもしれません。
もしくは逆に、益次郎から「こういう女性がいる」ということを聞いて宗城が興味をもったということもありえるでしょうか。
話を益次郎に戻しますと、彼は数年のうちに宗城の参勤のお供をするほど重視されるようになりました。
江戸でも私塾を開いたり、幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)というヨーロッパの学問を研究するための部署で講義を任されるまでになります。
評判は上々で、「あの人に聞けば、今まで全く聞いたことがない西洋のこともとてもわかりやすく説明してくれる」と好評だったとか。
評判が高まり故郷の長州藩にヘッドハント
このあたりから医学やオランダ語よりも兵学の需要が高まって来ていたようで、今度は長州藩からのお声がかりで長州藩士になります。
脱藩ではなく、故郷のお誘いだということで宇和島藩からのお咎めはなかったようです。
萩へ帰った益次郎は、兵学を教えたり、軍艦建造のため製鉄所を作らせたり、少しずつ軍事に携わるようになりました。
この頃付いたあだ名が「火吹き達磨」。
現代ならイジメかと思うようなあだ名ですよね。キヨッソーネが描いた肖像画を見ると納得できますけども……。
そして第一次長州征伐など藩のドタバタの中、高杉晋作が奇兵隊を創設すると、その指導を頼まれました。
元はお医者さんだった人が、今度は人を効率的に殺す方法を本格的に教えるというのは皮肉なものです。
幕末のアレコレを知っている後世の人間からすると、いかにも忙しそうな感じがしますが、奇兵隊の指導係を引き受けてからも私塾をたたむことはなく、洋書から読み取ったことをわかりやすく自己流の教科書にまとめて教えていたとか。
よほど時間の使い方がうまくないとこういうことはできませんから、やっぱりとんでもなく頭の良い人だったんでしょうね。
第二次長州征伐の頃には身分的にも能力的にも藩の中枢に近いところにおり、部隊の再編成や武器の調達なども任されています。
教え方がうまいということは、知識を正しく理解しており、それを実行する力があるということ。
ですから益次郎の率いた部隊は、少数でもあちこちで勝利を収めていきました。
「無駄な行動を徹底的に省いて、相手の自滅を待ってから追い討ちをかける」という実にえげつない戦法だったそうです。怖ッ!
既にこの頃「あいつ鬼じゃね?」(超訳)とまで言われていたとか。そりゃそうだ。
もちろん戊辰戦争でも従軍していて、新政府軍の閲兵式なども担当しました。ホント器用やな。
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