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【大村益次郎(村田蔵六)】
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頭が良すぎて回りをイラつかせる
しかし、頭の良い人にありがちなことで、他人の心を慮ることには少々かけていた節があります。
というのも、上野戦争での軍議の際、薩摩藩の海江田信義と口論になり「君は戦を知らないな、フフッ」(超訳)と公衆の面前で侮辱してしまったことがあるのです。
西郷隆盛が仲裁してくれて事なきを得たのですが、信義は益次郎暗殺の首謀者の一人ではないかといわれているくらいですから、余程キレていたのでしょう。
しかも上野戦争は益次郎のおかげでたった一日でケリがつきました。
気に食わない人間からしてみれば火に油を注がれたようなものですね。
それでいて新政府から軍功へのご褒美としてお金をもらったときには、親元へ送り
「年寄りは、いつあの世へ行っちまうかわからないから、この世にいるうちに好きなことへ使え、と伝えてくれ」(超訳)
なんて国元の妻に手紙を書いているのですからよくわかりません。
家族にしか配慮できないタイプだったってことでしょうか。
元長州藩士に襲われた傷が原因で
戊辰戦争の後、明治政府の中で軍備に携わっていた益次郎は、軍の育成を大阪で行おうと考えていました。
このとき既に西南戦争の兆しを感じ取っていたからといわれています。
しかし、京都の旅館でかつての教え子と食事をしていた際、元長州藩士の一団に襲われ、骨に達するほどの重症を負わされてしまいます。
一度は救出され手当てを受けましたが、傷口から細菌が入ったことにより敗血症という病気になってしまい、益次郎の容態は日一日ごとに悪化。
敗血症は血液の中に細菌がいるので、血液が通るところ=全身に炎症をきたします。
発熱や悪寒・鈍痛など風邪のような症状はもちろん、臓器や意識に障害がおき、最終的には多臓器不全やショック症状によって命を落とすという恐ろしい病気です。
現代では抗菌剤によって治療することができますが、それでも対処が遅れれば危険なことには変わりありません。
ましてや19世紀末では、正しい処置が取れなかったのも無理はありませんでした。
左足に炎症が起きていたようで、オランダ人医師により切断手術等も行われたものの、そもそも体の一部分だけでなく全身に病気の原因があるのですから、手術でどうにかなるものではありません。
かつての教え子・イネやその娘お高も駆けつけて看病に当たり、手術から10日も経たないうちに、益次郎は鬼籍に入りました。
襲撃の首謀者についてははっきりわかっていません。
下手人が長州藩の人間であること、また上記の海江田信義との口論からして、あちこちで知らない間に恨みを買ってしまっていたのでしょうね。
これから新しい軍を作ろうという人を暗殺しても、日本人にとっては得がないどころか大損ですし。
やはり私怨によるものと考えるのが妥当かと。
前線の兵糧に気を配るなど、決して他人に冷たいばかりの人ではなかっただけに、もう少し言動に気を遣えていたら、こんな死に方をせずに済んだのではないかと思うと惜しまれるばかりです。
もし彼がもう少し長生きしていたら?
後々起こる士族の反乱でもえげつない戦略を披露し、素早く事を収めていたのではないでしょうか。
益次郎であれば、一時的な犠牲者が増えるのと引き換えに、類似の乱を防ぐような戦い方をしそうな気がするんですよね。これは完全に私見ですけども。
ただ、西南戦争で西郷とぶつかることになるかと思うと、その戦場はやはり恐ろしいことになりそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
大村益次郎/wikipedia