嘉永六年(1853年)6月3日、米国海軍のマシュー・カルブレイス・ペリーがアメリカ大統領の国書を携えて来日しました。
いわゆる”黒船来航”ですね。
「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も寝られず」
という狂歌が読まれている通り、日本人にとっては一大事件でした。
ただ、大変だったのはペリーたちも同じで、日本を開国させるためにどんな交渉をして、どんなアプローチをすれば成功するか、事前に相当な研究をしていたのです。
本稿では、その辺の事情を見て参りましょう。
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開国の理由は2つ 中国進出と捕鯨船の補給
そもそもなぜアメリカは開国を迫ったのか?
大きな理由が二つありました。
一つは、中国への進出です。
当時はアヘン戦争で清(当時の中国)に勝ったイギリスを皮切りに、中国大陸やアジアでの植民地競争が加速していました。
飛行機のない時代にアメリカからアジアへ行こうとすれば大西洋・アフリカ・インド洋を通るか、太平洋を横断するかどちらかしかありません。
単純な話、アメリカが一番距離的には不利だったわけです。
もう一つは捕鯨です。
現在は日本が欧米からバッシングを受けまくっていますが、当時のアメリカでは照明や機械の潤滑油にするため、鯨油を大量に使っていました。
そして日本近海には、鯨油の原料となるマッコウクジラがたくさんいたのです。
この二つの理由から、アメリカは「日本で燃料とか食料とか補給したいなー。ついでに商売したいなー」(超訳)と考え始めました。
長らく鎖国状態だった日本がそう簡単に通商を始めてくれるわけもありません。
実は、開国=通商の交渉に来たアメリカ人ってペリーが初めてではないんです。
通訳のミスで武士に殴られ、すごすご引き返す
直近ですと、これより遡ること七年前に、ジェームズ・ビドルという海軍士官が日本へやってきていました。
彼は清(当時の中国)へ望厦条約(ぼうかじょうやく)の批准書を持って行ったことがあったので、近所の日本へもお使いに来ていたのです。
当初はビドルの役目ではなかったのですが、担当者が入れ違いに帰国してしまっていたため、彼がやらざるをえなくなってしまったのでした。
が、そんな感じで急遽交渉に当たることになったため、あまり準備ができておらず、通訳のミスで武士に殴られてしまったとか。カワイソス(´・ω・`)
大統領から「武力行使ダメ絶対」と言われていたビドルは、「これ俺じゃ無理だわ」と諦め、大人しくアメリカへ帰っています。
ペリーはこの件を聞き、「武力行使はできないし、日本人の性格をよく知ったうえで作戦を立てよう」と考えました。
そこで現代の日本円にして約1億円になるほどの膨大な資料をかき集め、日本人研究に没頭したのです。
一番高かったのがシーボルトの書いた「ニッポン」という本で、だいたい現在の価値にして200万円くらいだったとか。
ペリーがいかに本気で資料を集めていたかがわかりますね。
おそらく部屋は、図書館みたいになってたんじゃないでしょうか。
対日本人用のマニュアルを作成ってやりよるな
意外なことに、当時のアメリカは武力行使に反対の姿勢でした。
南北戦争直前で自国内の緊張が高まっていたというのもありますし、その段階で対外戦争をするような余裕がなかったからだと思われます。
もし、武力衝突なんてした場合、本来の目的である中国での権益獲得がますます遅れ、ヨーロッパ諸国に追いつくことが不可能になってしまいますからね。捕鯨がうまくいかなければ、それもまた困ります。
そんな感じで、交渉とドンパチを防ぐため、ペリーはありとあらゆる方策を講じました。
そして研究の末、ペリーが作った対日本人用マニュアルがこちらです。
1 返答期限をはっきりさせること
2 簡単に引き下がらないこと
3 国書は必ず重役に手渡すこと
おい!研究成果バッチリやの!
これ全部やられて、それでも国書を突き返せる日本人ってそうそういませんね。
もしもロシアに先を越されたらアメリカ\(^o^)/オワタ
方針が決まったとなれば善は急げ。
ペリーは早速出立の支度を整えましたが、ここで予想外の知らせが届きます。
「ロシア帝国からも日本へ通商を求める使者が出発した」というのです。
以前当コーナーでも取り上げた、ロシアン紳士・プチャーチンですね。
日露和親条約をどうにか締結させた 親日家プチャーチンが日本で続いた不運とは?
続きを見る
元々ロシアは中国と地続きですし、日本ともごくごく近所。
もしこれで後れを取るようなことがあれば、アメリカがアジア周辺で権益を持つことは非常に難しくなります。
そのため、ペリーは大急ぎで大西洋を渡り、アフリカ南端を通ってインド洋を横切り、シンガポールやマカオで補給を続けながら日本へやってきました。ご苦労なことです。
ペリーとアメリカにとっては幸運なことに、その間プチャーチンの船は嵐に遭い、途中で追い越すことができました。
日本にとっては……ノーコメントで。
こんなに苦労してまで開国させたのに
そして長崎ではなく東京湾(当時は江戸湾)に船を乗りつけたペリー。
当初の予定通りきっちり返答期限付きで大統領からの手紙を渡しました。
しかも、念には念を入れてというか、期限ギリギリの日に江戸城の目の前まで軍艦を一隻乗り入れるというケンカの売りっぷりです。
もしここで幕府に余力が残っていたら、戦争が始まってもおかしくはありませんでした。
ついでにペリーも大統領から怒られてえらい目ことになっていたでしょう。
実際、日本側もいきなり受け入れたワケではありません。
幕府側の担当者だった林復斎(大学)が「補給は協力するけど通商はイヤだな(´・ω・`)」(超訳)と言い続け、ペリーを一度引き下がらせています。
その後、別の人が粘りに粘ってきたので、結局、通商もおkしないといけなくなっちゃったんですけどね。
ちなみに、こんなに苦労してまで日本を開国させたのに、ペリーはアメリカではほとんど無名なんですと。
ペリーの帰国直後に南北戦争が始まってしまったので、周囲の反応が「ニホン? なにそれおいしいの?」みたいな感じだったようです。うーん、なんだか複雑な心境になりますね……。
まあ、これ以上開国が遅れてたら日本にとってもあまり良くなかった可能性もありますし、ギリギリのところで双方にとって良かったって所ですかね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
黒船来航/wikipedia
その時歴史が動いた