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【日清戦争】
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天津条約で朝鮮不介入を同意したが
この後しばらく、日清両国は静かな政争を重ねます。
とはいっても、実質的には互いに軍備のための時間を稼ぐ目的だったでしょう。
1885年には、日本と清の間で甲申事変の事後処理として【天津条約】を結びます。
ざっくりいうと「今後、日本も清も朝鮮半島に対して軍事的な介入はしない。もしやむを得ず介入しなければならない場合は、互いに相談すること」という内容です。
しかし、清は軍拡を進めて日本を威圧することに腐心しました。
だから、なぜそのやる気をアヘン戦争の前に……(ry。
なけなしのお金を使って最新式の戦艦「定遠」「鎮遠」をドイツから購入し、北洋艦隊に配置。
さらに1886年に、これらの船を長崎まで補給名目で見せびらかしに来ています。
ついでと言わんばかりに、長崎の町でこれらの船の乗員たちが暴行事件まで起こしました。
ここでコトが大きくなれば、自慢の大砲をぶっ放されて長崎が町ごと崩壊してしまうかもしれない。
また、清の目的もこの時点では開戦ではなく威圧のため、イギリス人及びフランス人の弁護士を間に挟んで和解しました。
日本から一方的に仕掛けたわけじゃない
実はその後も、北洋艦隊はたびたび長崎にやってきます。
日本史の授業ではそこまで習わないため、日清戦争も日本が仕掛けていった――そんな単純な印象も拭えないのですが、決して一方的ではありません。
北洋艦隊としても、威圧と念押しが目的だったのでしょう。
しかしここでまた、西太后の行動が裏目に出てしまいます。
当時、西太后は自分の還暦祝いなどに多額の国費をムダ遣いしており、そのせいで北洋艦隊のメンテナンスができないほどになっていたのです。
その状態でも長崎に来た上、「清はまだまだスゴイんだぞ^^」と主張するために日本の要人を戦艦「定遠」に招き、あまつさえ船内の見学までさせました。
そのせいで定遠のボロボロっぷりどころか、構造や船員の練度の低さまで日本にバレてしまいます。
なぜ清側の人間は誰も止めなかったんですかね……。
このときの日本としては
「いずれ清と戦争することになりそうだけど、今のままじゃ全く勝ち目がない。どこからでもいい、とっかかりになるポイントを探さなければ!」
と思っていたところでしたから、定遠見学はまたとない機会だったでしょう。
明治天皇が皇室予算を軍備に提供!?
情報が集まれば、次は具体的な軍備が必要になってきます。
しかし、日本もお金が足りません。
繰り返しになりますが、この頃の日本にはまだ憲法も議会もできていないのです。
不平士族の反乱の鎮圧に人やお金を使っていましたし、産業もまだ拡大できていない状態ですから、とにかくお財布事情は厳しい。
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そこで明治天皇が「皇室予算(内廷費)のうち30万円を軍備に使うように」と命じます。
明治天皇の日頃の言動からすると、これは「即座に開戦せよ」という意味ではなく、「清にナメられないように軍を整えよ」という意味だったのでしょう。
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これに政府はもちろん、当時の国民皆がビックリ。
「お上にお金を出させるなんて畏れ多い! 我々も少しずつお金を集めようではないか!」と奮い立ち、合計200万円が国民から集まったといいます。
もちろんこれは現在の貨幣価値ではありません(公務員の初任給が50円だった頃の話です)。
こうして230万円を軍備に使えるようになった日本は、どうにか戦う準備はできるように。
目玉だった新艦の建造は日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争で活きることになります。
甲午農民戦争が起きて清が派兵
こうして甲申事変から10年経った1894年。
ついに日清戦争が始まります。
といってもスグにドンパチやらかしたワケではなく、あるキッカケがあり、日本でも清でもなく、朝鮮自身でした。
この10年間、私腹を肥やし続けた閔妃とその腹黒い親族たちに、ついに朝鮮の一般民衆がブチ切れ【甲午農民戦争】という内乱を起こしたのです。
相変わらず閔妃たちには国内の乱を収める力がないので、今回も清に泣きつきました。
これに対し、袁世凱が兵を派遣。しかし天津条約に違反する行為ですから、日本は当然クレームを入れます。
清の言い分は「清の皇帝がいいって言ってるんだからいいの!」という屁理屈でした。
おそらくや明治政府も、清がきちんと条約を守るとは思っていなかったでしょう。
当時の清には「条約を破れば、国際的に信用を失う」という考えがカケラも見えませんでしたから。
逆に、条約に基づいていれば国際社会を味方につけることができるわけです。
そのうち甲午農民戦争が収まってしまったため、最悪の事態は避けられたかに見えました。
しかし、既に日清両軍とも朝鮮半島で戦闘ができる状態ですから、そう簡単には退けません。
ついに日清戦争の開戦
そこで日本軍は漢城(現・ソウル)を制圧し、閔妃を追い出して大院君に迫ります。
「私達が清軍を追い払いますので、もう一度あなた方自身で自分の国を守りませんか」
大院君も閔妃にはさんざん手を焼いていましたし、自分の国も保ちたいので
「日本がウチの領土を盗らないなら」
という条件で了承します。
こうして半島での拠点を得た日本軍は、清軍の後続がやってくる前に動き出しました。
まずは清から朝鮮へやってくる補給船を探し【豊島沖海戦】で撃破。
このとき、清の北洋艦隊指揮官である方伯謙(ほうはくけん)は、恥も外聞もなく逃げ帰りました。
方伯謙は「艦隊温存のため」という、なんだかボヤけた言い訳を残しておりますが、後年の日本軍のことを考えると手放しでは笑えないところです。
ちなみに、このとき撃沈した船はイギリス船でした。
本来ならイギリスから日本へ抗議をするところですが、日本は最後通牒をした上での行動だったので、国際社会からは
「なんだ、日本はあらかじめ警告していたんじゃないか。それなら、そもそも条約を破った清が悪いよね」
とみなされ、責任を追及されることはありませんでした。
この辺は、天津条約にいかにも清が守らなさそうな一文をねじ込んでいた明治政府の作戦勝ちといえるでしょう。
また、陸戦でも清軍の指揮官・葉志超(ようしちょう)が逃げまくり、日本の勝利となりました。
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