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【日清戦争】
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「閔妃と日本のせいでめちゃくちゃだ!」
これらの動きに対し、宗主国である清も黙ってはいません。
清から見れば、この時期の朝鮮は数少ない“威圧が通じる”相手です。失うわけにはいきません。
やがて清に押され、朝鮮での日本の権益は衰え始めました。
この間、イギリスとロシアも東アジアでの覇権を巡って対立を深めていました。
日清戦争の後から日露戦争あたりで本格的に影響してきますので、別の記事で詳細に触れますが、頭の片隅に入れておくといいでしょう。
日露戦争なぜ勝てた? 仁川沖海戦に始まり講和条約が締結されるまで
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一方、日本の動きとは無関係なところでも、朝鮮の政治は腐敗していました。当時の王様の妃・閔妃が我が子を次代の王にするため、あっちこっちに莫大な賄賂を送りまくっていたのです。
さらに、上級役人は私腹を肥やすために軍の給料(米)をちょろまかしていました。絵に描いたようなダメっぷりです。
さらに、日本がイギリスから綿製品を仕入れて朝鮮で売るという中継貿易を行ったことにより、貿易赤字が常態化。
こういうとき、最終的に全部のしわ寄せが行くのは庶民です。
文字通り、食うや食わずの状況に陥った彼らも、最悪の選択をしてしまいました。
このころ大院君は閔妃によって政治中枢から追い出されていたのですが、その政権交代&日本が進出してきた&庶民が苦境に陥ったタイミングがかぶるため、
「閔妃と日本のせいで、俺達の生活はめちゃくちゃだ! あの女も日本人も追い出して、大院君様に戻ってきてもらえば元通りの生活ができるに違いない!」
と考えてしまったのです。
前半は合ってたかもしれませんが、攘夷・鎖国派のトップである大院君を再び担ぎ上げようとするのはどう考えても時代にそぐわないことです。
しかし、世界情勢をよく知らない一般民衆の視点ですから仕方ないかもですね。
壬午軍乱
一方、閔妃の夫である高宗は、さすがにもう少し現実が見えており、近代化を急ごうとします。
しかし、幼いころに即位してずっと大院君の院政状態だったので、あまりにも近臣に味方が少なすぎました。
高宗と同じく近代化を進めたい金玉均という官僚は、
「近場で近代化を成功させた日本に学ぼう」
と、実際に留学もしていたのですが。
しかし、政治が良い方向へ固まる前に、朝鮮国民の堪忍袋の緒が切れるようなことが起きます。
金玉均らが学んできたことを元に、朝鮮の軍も近代化を始めていました。
装備や練度はもちろん、待遇も比較的良かったようです。
しかし、元から豊かとはいえない財政状態で近代化を進めるため、旧式軍の予算を近代化軍に使ってしまいました。
大院君派の旧式軍からすると
「なんで伝統を守ってきた俺達が苦しい思いをしているのに、新参者の作ったアヤシイ軍が好待遇なんだ!」
としか見えません。そりゃそうだ。
政府はこれをなだめるために、旧式軍にも給料を払いました。
が、なんとこれは13ヶ月ぶりの支払いだった上に、本来支給されるべき米の半分は途中の役人にちょろまかされ、糠(ぬか・皮などの部分)に変えられるというヒドさ。
耐えに耐えてきた旧式軍はついにブチキレ、【壬午軍乱】という内乱を起こしてしまいます。
閔妃が泣きつき清が3,000の軍を出兵
同じく苦しめられていた庶民たちも旧式軍に合流し、宮殿を襲撃。
当時軍事顧問として渡海していた日本の担当者もブッコロされるという惨事に発展してしまいました。
外国で自国民が殺されれば、当然政府は抗議をするものです。それが原因で国際戦争になることも珍しくありません。
さらに、ここでも閔妃と大院君の動きが最悪の方向に作用しました。
壬午軍乱の黒幕は大院君だといわれています。このとき、閔妃を追い出して政権に復帰したのです。
閔妃も黙っていません。
彼女は清に対して泣きつきました。
「ウチの国、ならず者たちのせいで大変なことになってしまったんです~……清帝国様のお力でお助けください!」
清も既に列強諸国に切り取られてボロボロでしたが、近場かつ千年単位で子分にしてきた国にまでナメられたくないので、軍を出すことに……。
このとき3,000の兵を送ったのが袁世凱でした。
近現代史ではたびたび出てくる名前なので、何となく見覚えのある方も多いのではないでしょう。
ここで日本が朝鮮と清に対し「待った」をかけます。
日朝修好条規で「朝鮮は独立国だから、今後何かあったとしても、清が助けるのはダメ」ということになっていたからです。
そして日本からも1,500人の兵が壬午軍乱の収集をつけるために渡海したのですが、既に大院君が返り咲いて事を収め、さらに清の軍も到着してしまっていたので、どうにもできませんでした。
清は【北洋艦隊】で日本にプレッシャー
清を味方につけた閔妃は再び大院君を締め出し、今度こそ権力の私物化を図ります。
自分の親戚ばかりで高官の座を埋め、清に頼り切る道を選んでしまったのです。
「そんなことばかりしていれば国が危くなる!」と危惧した金玉均らは、どうにかして近代化路線を復活させようと考えます。
しかし政争でもクーデターでも閔妃一派に勝てそうにないので、日本を頼ろうとしました。
一方、この時点では日本も軍事的な手は出せませんでした。
この頃、清は【北洋艦隊】という新たな艦隊を作り、露骨に日本対策をしていたからです。
この艦隊の旗がまた興味深いデザインをしています。
日本の象徴ともいえる日輪を、中国皇帝の象徴である龍が飲み込もうとしている図案なのです。
しかも黄色=皇帝の色という徹底ぶり。
「中華思想を捨てるつもりなんて、これっぽっちもありません!」と大声で叫んでいるも同然ですね。
その強気、アヘン戦争の前に出しておけばよかったと思うのですが……まあ、イギリス国旗は丸のみできないというか、刺々しくて喉や食道に突き刺さりそうですが。
ここでまたややこしくなるのが、当時清がやっていた別の戦争である【清仏戦争】です。
平たくいうと「ベトナムを巡る清とフランスの戦い」であり、清は海戦で壊滅し、早急な対応が必要でした。
そのため、朝鮮に送っていた清軍のうち1,500人を引き揚げさせ、いざというときベトナムへ送れるように備えたのです。
清の実質的な君主・西太后としては
「北洋艦隊をベトナムへ行かせなさい!」
と言っていたのですが、当の北洋艦隊のトップ・李鴻章が
「ウチの艦隊は対日軍なんで、あんな遠いところまで出せません」
と断っており、その代わりに朝鮮駐留軍を半分持ってきたというわけです。
金玉均が日本へ出兵を要請
これを見た金玉均は、日本へ
「今なら清軍が減っていますから、クーデターを起こせます! 協力してください!」
と連絡。
しかし日本は渋い顔をします。
「清軍はまだ1,500もいるし、もしかしたら清仏戦争もスグに終わるかもしれない。李鴻章もどうするつもりだかよくわからない。北洋艦隊だってすぐに朝鮮まで来られる。こっちだって余裕ないのに、今、朝鮮に手を出して大損するわけにもいかないワケで……」
これが1884年の出来事です。
西南戦争からわずか7年。日本は憲法(大日本帝国憲法)すらできていなかった頃の話でした。
そりゃ、他国に手を出してる場合じゃありません。
しかし、朝鮮にいた日本の担当者がテキトーな返事をしてしまい、藁にもすがる思いの金玉均は見切り発車のクーデターを敢行してしまうのです。
金玉均は、一時、閔妃一派の締め出しに成功したものの、清の袁世凱が軍を派遣したため、たった3日で失敗。命からがら日本へ亡命します。
せめて高宗を連れていければ政治的な勝ち目もありましたが、それもできずに終わっています。
このクーデターを【甲申事変(政変)】といいます。
ちなみに金玉均は、甲申事変の翌年に李鴻章との交渉のため、清に渡ったとき暗殺されてしまいました。
妻子は後に、偶然、日本に保護されたといいます。
なお彼は、朝鮮を私物化したいとかではなく、清・日本との協調体制を整えて欧米に対抗したい――という意欲を持っていたとされ、残念な結果となってしまいました。
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