・長州藩
・陸軍
・元勲
なんて問いかけをしたら、おそらくや日本史受験者の多くの方がお答えできるのではないでしょうか。
答えは山県有朋。
同じ長州の伊藤博文とはなんだか雰囲気が違う。
似たような出自・経歴をたどってきたのに、山県のほうにはドコか翳がある。
それはナゼなんだろう――と考えると、山県の人生そのものが苦渋の連続だったからかもしれません。
つぶらな瞳の奥にはどんな想いが隠されているのか。
本稿では、1922年2月1日が命日である、山県有朋の生涯を見ていきたいと思います。
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どこか寂しい家庭環境
山県は天保9年(1838年)、長州萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)に生まれました。
父は有稔、母は松子。
幼名は辰之助(たつのすけ)、小助(こすけ)、小輔(こすけ)。
父は手小役(てこやく)と呼ばれる雑用係の下級役人でした。
山県は少年期から槍術に励みました。
勉学は、父・有稔が教えます。この有稔は和歌国学に傾倒しており、我が子にも影響を与えるのです。山県は和歌をよく詠みました。
15歳で元服した山県は手小役として勤め始めると、ほどなくして日本は激動の時代を迎えます。
嘉永6年(1853年)、黒船の来航です。
山県の家庭環境は、寂しいものでした。
わずか5歳で母を失い、かわりに彼を育てあげたのは祖母。
その祖母も元治2年(1865年)、仕立てたばかりの縮緬(ちりめん・絹織物)に身を包み、投身自殺を遂げてしまいます。
山県が高杉晋作と藩を立て直すべく奔走していた頃です。
孫の足手まといになるまいと死を選んだのだ――と、後に山県は回想しています。
先だって4年前には実父も亡くなっており、彼の血を分けた親族は5歳上の姉・寿子のみ。
慶応3年(1867年)に結婚した妻・友子も42歳という若さで明治26年(1893年)に先立っております。
夫妻の間に生まれた三男四女も、二女・松子をのぞけば、8歳までに夭折してしまいました。
黒船来航以来走り続けた山県に、つきまとう暗い影。
山県は、人間を深く信じることができないのではないかという疑念に苛まされます。
彼自身、病弱な一面があり、青年期に迎えていた幕末動乱の最中にも、しばしば病気療養をしていたほど。
長州藩の人々は、理屈っぽく智を求める傾向があり、薩摩藩の人々は異なるという印象が抱かれがちです。
山県の場合、そんな長州人としての気質だけではないどこか寂しい部分も、生涯つきまとうのでした。
松蔭先生の言葉より……その名は「狂介」
山県のような足軽・仲間組の子弟は、藩校「明倫館」で学ぶこととは無縁です。
ではどうすれば、この動乱で身を立てられるのか?
江戸や京都に出て、時代の空気に触れるしかなかろう――そんな熱気が、長州藩で立ちこめ始めます。
山県にチャンスが訪れました。
安政5年(1858年)、長州藩が京都に派遣する6人の藩士の一人に選抜されたのです。
親友である杉山松介の推挙によるもの。
なお、この杉山は後の【池田屋事件(1864年)】で死去しております。親友とも縁が薄い、そんな山県でした。
山県は京都で、久坂玄瑞や梅田雲浜と交流を結び、影響を受けます。
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帰国後の10月、久坂の推薦で松下村塾入りま。幕末に活躍した塾生の中では、入塾も遅いほうでした。
翌年の安政6年(1859年)には吉田松陰が、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画に問われ、斬首されてしまったのです【安政の大獄】。
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ほどなくして万延元年(1860年)、今度は井伊直弼が暗殺されました【桜田門外の変】。
青年となっていた山県の心にも強く陰を落としたことでしょう。
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文久2年(1862年)頃、「狂介」と改名。
「狂」というとちょっと物騒に思えるほどですが、吉田松陰の教えにこのような言葉があります。
「諸君、狂いたまえ」
狂うほど何かにのめり込み突き進め――そういう意味です。
追い込まれていく長州
文久3年(1863年)、山県は、高杉晋作が組織した奇兵隊の軍監を務めることとなります。
小手役からの大出世。年齢が近く思想も一致する高杉晋作と、意気投合していたのですね。
しかし、時代は激動の最中。
長州藩は、度重なる危難にぶつかります。
文久4年から元治元年(1864年)に変わろうとする数年は、まさに危機一髪の正念場でした。
詳細を省き、長州が追い込まれていった事件を時系列で並べて参りましょう。
【京都】
八月十八日の政変(1863年)※京都から追い出される
池田屋事件(1864年)※拠点を新選組に襲われる
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禁門の変(1864年)※会津と薩摩に撃退される
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【長州】
下関戦争(1863年と1864年)※外国相手にフルボッコ
長州征伐(1864年と1866年)※幕府に軍を派遣され
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長州征伐のうち1866年次については、直前に【薩長同盟】が秘密裏に結ばれており、窮地から脱する起点になったとも言えますが、度重なる事件により久坂玄瑞や入江九一らの松下村塾門下生たちが数多く命を落としました。
後に首相となる伊藤博文や井上馨らは海外留学を機に攘夷を控えるように改めます。
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しかし山県は、それを認めようとはしませんでした。
実際、山県らはこの頃、正念場を迎えておりました。
長州内も決して一枚岩とは言えず、藩内は
「正義派」
vs
「俗論派」
に分裂、激しい権力闘争の末に、山県らが藩の実権を握ったのです。
山県の俗論派、および俗論派との融和を目指した赤禰武人(あかね たけと)への憎悪は凄まじいものがありました。
赤禰の実績を抹消しようとしたほど。
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第二次長州征伐が行われた際の山県は、防衛を担当した小倉口から小倉藩領に攻め入ります。
そして山県はある思いを抱くようになりました。
【薩長同盟】によってその思いはますます強くなります。
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