源平時代の源義経。
戦国時代に姫若子と呼ばれた長宗我部元親。
容姿端麗、イケメンにして戦上手な武将は、いつの時代も際立って畏敬の念を持たれますが、幕末維新の頃にも東北にそんな美丈夫がおりました。
庄内藩の酒井了恒(のりつね)――。
薩摩の剣豪・大山綱良をして「おなごのようなよか稚児」と言わしめた優しげな外見に反し、新政府軍との戦いでは連戦連勝を重ねて「鬼玄蕃」として恐れられた武士(もののふ)。
戦にめっぽう強く、見た目は中性的な美青年でありながら、さらには人格も高潔という、まるでマンガのチートキャラです。
もし彼が新政府サイドで活躍していれば、その後の史実は、坂本龍馬や勝海舟、あるいは西郷隆盛すら凌駕する人気だったかもしれません。
何もかもが美しき敗者・酒井了恒(酒井玄蕃)。
明治9年(1876年)2月5日が命日となる、その生涯を追ってみました――。
鬼かと思えばよかちごじゃった!
『西郷どん』で、北村有起哉さんが演じている大山綱良(大山格之助)。
戊辰戦争で出羽方面(東北の日本海側)を転戦し、戦果はいまひとつ冴えないものでした。
なぜならその行く手に庄内藩が立ちはだかったからです。

大山格之助(大山綱良)/wikipediaより引用
庄内藩は名将・酒井了恒(さかい のりつね)以下、高い士気を誇っていました。
彼のあまりの強さ、大胆不敵さに、いつしか敵は彼を“鬼玄蕃”と呼び始めたほどです。
「また鬼玄蕃にやられたか!」
味方の敗走報告を聞くたび、おそらく大山は苛立ったことでしょう。
戊辰戦争が終結した維新後の東京。
かつての宿敵“鬼玄蕃”と対峙した大山は、思わず目を丸くして言いました。
「容貌かくも温和で、おなごのようなよか稚児じゃったとは……」
そう。目の前にいたのは、まるで女性のようにほっそりとしていて美しい、そんな青年だったのです。
美青年という意味の“よかにせ(若者)”ではなく、美少年を意味する“よか稚児”というフレーズを使ってしまったところに、大山の「好みのタイプじゃ!」という本音が出ている気がします。
では庄内藩とは一体どんな存在だったのか?
幕末では如何なる役割を果たしたか?
本稿の主役・酒井了恒の前に少し触れておきたいと思います。
海坂藩のモデルとなった庄内藩
現在の山形県庄内地方にあった庄内藩は、藤沢周平の時代小説の舞台となる「海坂藩」のモデルとして有名です。
統治したのは酒井家。
あの徳川四天王の一人・酒井忠次を祖とする御家です。
しかし元々、置賜(おきたま)地方をのぞく山形県は、最上義光の最上家が支配する57万石の大藩でした。

直江兼続を追撃する最上義光(長谷堂合戦図屏風)/wikipediaより引用
それが江戸時代初期のころの最上騒動がもとで同藩が改易(1622年)に追い込まれ、領地が4つに分けられると、そのうちの一つが庄内藩(約14万石)として、酒井家に受け継がれていきました。
最上義光による善政が行き届いていたためか。
当時からこの地方は色々と恵まれていました。
例えば「北楯大堰」による農業生産の増大です(以下の関連記事に詳細)。
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北楯利長の生涯|水馬鹿と呼ばれた戦国武将が不毛な庄内平野を稲作地帯に!
続きを見る
農業面だけでなく商業面でも以下のように恵まれておりました。
・紅花栽培によってもたらされる「のこぎり商法」の恩恵(往路で紅花を売り、復路は西日本で仕入れた品物を売ること/押しても引いても利益が出ることから“のこぎり”と呼ばれました)
・最上川開削による船運発達
・東日本最大の港「酒田港」による貿易促進
村山地方は藩主交替が安定しなかった中、庄内藩は家臣領民一丸となって信頼関係を持つ、比較的統治が安定した藩であったのです。
山形県には、古い由緒ある、そしてとても豪華な雛人形がたくさん残されています。
これも、紅花貿易による豊かな暮らしの名残です。
※同じ山形県でも、置賜地方は全国的にも財政難で有名な米沢藩でした
幕末庄内藩の受難
幕末において悲運の藩といえば、会津藩が真っ先に思い浮かぶかでしょう。
しかし庄内藩も、当時は会津藩と並んで敵意を集めるほど、追い詰められています。
会津藩が憎悪をぶつけられた一因として、お抱えの新選組が京都警備の際、倒幕派相手に猛威を振るったことがあげられます。
新選組の母体となった浪士組は、その大半が江戸へと引き揚げました。
そして彼らは【庄内藩御預かり】となり、江戸の警護を担当したのです。

文久3年(1863年)から、庄内藩は江戸市中の警備しておりました。
のちに西軍から憎悪をぶつけられることになる会津藩と庄内藩。
江戸はじめ東日本では、悪から市民を守る力強い存在でした。
それは
【京で肥後様(松平容保)、江戸で酒井様、どちら梅やら桜やら】
と、花に譬えられたほどの人気ぶり。
物騒な事件が頻発する京都と比べ、当時の江戸は治安が守られておりました。
しかし、慶応3年(1867年)の終わりから状況が変化します。
相楽総三、益満休之助ら、西郷の密命を帯びた者たちが暗躍しだしたのです。
殺人、強奪、暴行……現代でいうならばテロリズムと呼べる、そんな悪事を働いた彼らは、薩摩屋敷へと姿を消しました。

薩摩御用盗――江戸の人々は彼らをそう呼び、ふるえあがります。
しかし、それこそ一派の狙い。
彼らの目的は武力衝突を誘発するため、挑発行為を繰り返したのでした。
そして庄内藩も、ついに堪忍袋の緒が切れます。
慶応3年12月25日(1868年1月19日)、彼らは薩摩藩邸に乗り込み、焼き討ちにしたのです。

酒井玄蕃マンガより(→link)
戊辰戦争への幕は、こうして切って落とされたのですから、庄内藩が敵意を向けられないはずがありません。
江戸の治安維持をマジメに行い、凶悪なテロリスト相手に戦っただけ。
にもかかわらず、あまりに酷な仕打ちでした。
白皙(はくせき)の名将、出馬す
庄内藩は、幕末の政局から距離を置いていました。
にもかかわらず、あまりに理不尽なカタチで泥沼の戦火へ。
東北の奥羽越列藩同盟も、会津藩と庄内藩を救うことを目的としたものです。

奥羽越列藩同盟旗/photo by Pentacube (talk) wikipediaより引用
戦禍はついに庄内藩まで迫る情勢となり、酒井了恒(のりつね)も応戦することとなりました。
彼は幼い頃から聡明で、庄内藩の江戸警護でも実績をあげていたのです。
彼の生まれた酒井玄蕃家は、代々家老を務める名門でした。
そこで酒井は、天保13年(1843年)に誕生。
藩校致道館(山形県鶴岡市観光連盟→link)では、兵学・剣術・馬術・漢詩・雅楽・笛を得意とし、才能あふれる少年として知られています。
庄内藩が江戸の警護を命じられてからは、寄合組頭に就任。
幕命を帯びて、潜伏する浪士を捕縛する等、活躍し続けました。
そんな彼の人生に暗雲がたちこめたのは慶応3年(1867年)のことでした。
庄内藩では公武合体を掲げる改革派を処断する「丁卯(ていぼう)の大獄」が起こり、祖父・右京が処断されたのです。
孫の代まで、家督相続したうえでの逼塞(ひっそく・謹慎のようなもの)という、厳しい処分を受けました。
しかし庄内藩が危機に陥ったことで、酒井に出番が回ってきました。
彼は寄合組頭から中老にまで抜擢され、庄内藩を率いることとなったのです。
このとき彼は、僅か26才。
後に鬼玄蕃と恐れられる武士の誕生となりました。
庄内藩はリッチで強かった
慶応4年(1868年)4月。
庄内藩は近接する柴橋・寒河江領の年貢米を搬出しました。
幕府から預けられたものという認識ゆえの行動です。
ところが、これに奥羽鎮撫府が目を光らせました。
この奥羽鎮撫府参謀を務めていたのが薩摩の大山格之助です。
彼らの認識としては、既にこの地域は天領であり、庄内藩の行為は米の盗難としました。
にわかに緊張の走る庄内藩と西軍。
鎮撫府はついに庄内藩領へ攻め込みました。
が、そこで撃退されてしまいます。
これには大山も愕然としたことでしょう。酒井率いる庄内藩の強さがついに表に出たのです。
では、なぜ強かったのか?
彼らの装備が大変優れていたということも理由の一つ。
前述の通り、庄内地方は最上義光時代から経済的に大変恵まれておりました。
江戸時代において、幕末まで財政が息切れしなかった藩は貴重であり、庄内藩もそうでした。

酒田の商人たちの保護は最上家時代より始まっており、井原西鶴の『日本永代蔵』で紹介されるほどの繁栄ぶりです。
その酒田商人でも際だっていたのが、本間家。
殿様をしのぐほどの資産家でああり、酒田では、こんな戯れ歌がありました。
「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」
【意訳】本間様みたいにリッチになるのは無理だけど、殿様レベルになれたらいいよね
現在、本間家旧本邸は酒田でも有数の観光地になっておりまして。
私が今までみた日本家屋の中では、最も豪華なものでもあります。
庄内藩兵は、この唸るほどの本間マネーで最新式の武装を備えておりました。
中には、会津藩の女スナイパー・山本八重(新島八重)が使用したことで名高いスペンサー銃もありました。

スペンサーカービンライフル(1865年)/photo by Hmaag wikipediaより引用
会津藩でスペンサー銃を使用していたのが八重だけ。
しかも弾薬不足ですぐに使用できなくなったことを考えると、いかに本間家が財力に恵まれているか、庄内藩の装備が強かったかがわかります。
鬼玄蕃の無双伝説
「なんだ、庄内藩が強いのは武器のおかげなんだ!」
そう思うかもしれません。
否、それだけでなく、酒井も優れておりました。
例えば新庄城の戦いでの酒井は、二人の隊長を失い、劣勢に追い込まれると、彼は自ら味方の先頭に立ちます。
そして、刀をさげてこう大喝したのです。
「退く者は斬る!」
すると味方は発奮し、劣勢からの逆転勝利を得ます。
西軍の防御戦と、神宮寺岳という天然の要害に阻まれた際には、無灯火の夜間行軍で雄物川(おものがわ)を渡河。
まさか進軍しているとは気づかない無防備な敵の背後に襲いかかり、蹴散らすという胆略を発揮しました。
刈和野の戦いでは、酒井は病で寝込んでしまいました。
自分が不在のあいだ、味方が大敗したと知ると、酒井は翌日輿に乗って指揮を執ります。
周囲を敵に包囲され、武器弾薬も底を突きそうな中、酒井はこう言います。
「このまま敵に勝てずに撤退するのは、恥を後世に残してしまう! 一斉に打ち払うぞ!」
酒井の言葉に味方は大奮起、敵を蹴散らすと、刈和野を奪回。
すぐさま撤退に転じます。
結果、追撃も受けずに、庄内藩兵は自領まで戻ったのです。
戊辰戦争終結時、庄内藩領はほぼ無傷でした。
それどころか秋田藩領三分の一を支配下においたほどです。
鬼玄蕃の名にふさわしい、その強さでした。
慈悲深さは敵からも慕われて
鬼にふさわしい強さながら、酒井の慈愛溢れる性格は、多くの人々から慕われました。
酒井は、常に兵士と同じ食事をとり、家に入るときは兵士を先に入れました。
しかも雨が降っていようと、そのまま待っているのです。
夜間に使者を送った際は、戻るまで草履を履いたまま待ち続ける。
山の上で布陣しているときは、茅葺きを焼いて温める。
アタマでわかっていても行動に移すのは難しい。そんな厳しい状況も酒井は率先する指揮官でした。
だからこそ、鬼玄蕃様のためなら死ねる――と、庄内藩の兵士たちは、常に高い士気を保ってたのです。
そしてその優しさは、味方以外にも発揮されています。
新庄城陥落の際は、藩主の居室には決して土足で踏み込まないよう命令を徹底、土蔵を封印して掠奪を禁じました。

酒井は進軍先での掠奪暴行を禁止し、戦死者はきっちりと埋葬し、調度品には金銭を支払いました。
酒井は、この禁令を破り乱暴狼藉を働いた仙台藩兵を、仙台藩に許可を取ったうえで斬首しています。
畑泥棒をした兵士が謹慎処分とされたほど、酒井はルールに厳格でした。
酒井は、進軍先で籾蔵を開放し、飢えた人々や孤児にわけ与えました。
秋田藩領の民は庄内藩兵を恐れることはなくなり、抜け道を教え、快く宿を提供したほどです。
敵すらその美しい酒井の行動に、惚れ込んでしまったのでした。
なにせ「庄内様、庄内様!」と、攻めこまれた秋田藩の領民がそう慕ったというのですから、これまたスゴイ。
新庄城を陥落させたあと、酒井の前にまだ幼い少年が、捕虜として引き出されました。
酒井は天を仰いで、こうつぶやきます。
「涙が、とまらない……」
そして自ら捕虜のいましめを解き、路銀を与えると、彼の下男ともども解放したのです。
もう、これには全庄内秋田が泣いてしまうわ……。
このままでも十分に「漫画の主人公ですか?」「話、盛りすぎですか?」と疑いたくなるのですが、酒井は更に、転戦先で連作『戊辰役二十絶』という漢詩を詠むほど、風雅でもありました。
現代人ならば「はぁ、鬼玄蕃様、尊い……」とぶっ倒れそうですが、同時代の人もそう感じていたようです。
「見る処察する処、聞く処、何れとして美しからずというは無きが如し。珍しくも尊き人なり」
【意訳】何をしても美しいとしか言えないよ、こんなにスゴくて尊い人いないよ
彼を知る桶越隆胤(ひごしたかたね)という人は、そう語り残しています。
不運なり、秋田藩
敵対する秋田藩からすれば、酒井率いる庄内藩はおそろしい敵でして。
せっかく西軍という勝ち組についたのに、秋田藩は庄内藩にボコボコにされるという悲運に見舞われたのです。
秋田藩は奥羽越列藩同盟と藩内尊皇派の板挟みにあい、尊皇派が列藩同盟の使者を殺害してしまう羽目に陥りました。
ずるずると引きずり込まれるように西軍についたうえに、庄内藩に連戦連敗。
秋田藩の装備は、火縄銃や刀剣槍に過ぎず、勝てるはずもありません。
幕末の秋田藩は、かなり悲惨な境遇なのでした。
藩主居城の久保田城まで進撃する庄内藩兵があまりに強すぎるため、藩主の佐竹義堯は、死を覚悟したほど。

佐竹義堯/wikipediaより引用
困り果てた西軍は、秋田戦線に最新鋭の武器を装備した佐賀藩兵を援軍として送り込みます。
装備面の実力からいうと、実は戊辰戦争で最強といえたのは、薩摩・長州・会津・仙台ではありません。
西の最強が佐賀藩、東の最強が庄内藩でした。
戊辰戦争の戦力における頂上決戦は、あまり目立たないこの秋田戦線なのです。
最強決戦は膠着し、さしもの庄内藩もジリジリと戦線を押し戻されます。
そうこうするうちに、9月22日に会津鶴ヶ城が陥落。大勢は決したのでした。
降伏、そして西郷の寛大な処分
酒井らが守り抜いた庄内藩領は、会津藩領とは異なり、ほとんど損害がありません。
彼らは戦争に勝って、勝負に負けたのです。
そんな状況の中、酒井が詠んだ絶句がこちらです。
戦勝薩奴擁帝城(戦勝の薩奴 帝城を擁し)
爾來堪貧勤王名(爾來 貧るに堪えたり 勤王の名を)
關河一破連雞乱(關河一たび破れて連鶏乱れ)
又不昔時白石盟(復せず昔時白石の盟に)
【意訳】薩摩の賊が京都を征圧し、それ以来勤王の名をほしいままにした。奥羽列藩同盟は崩壊、白石同盟の時点まで戻ることはできなかった
しかし庄内藩は、幸運でした。
西郷隆盛が寛大な処分を行い、庄内藩を厳しく罰することはなかった。
そのため現在に至るまで、庄内地方は西郷隆盛の人気が高い地方です。

西郷隆盛(石川静正画の油彩)/wikipediaより引用
元庄内藩士が、恩に報いるため西南戦争に馳せ参じた例もあるほど。
ではなぜ、西郷が庄内藩に対して寛大であったのか?
実は西郷だけではなく、薩摩藩は敗者に寛大です。
喧嘩して殴り合ったあと「おはんはよか敵じゃった」と讃えるような、そんな精神を感じます。
例えば桐野利秋は、会津若松城落城の際に敵の無念を思い号泣し、松平容保を感動させたほどです。
あるいは大山巌は会津藩出身の山川捨松にぞっこん惚れ込みました。
相手の実家が渋る中、大山周辺の西郷従道らは山川家に押しかけ、屈託なく結婚しようとしました。
山川家が、"うちは朝敵だから”と拒んでも、
「西南戦争以来、うちも朝敵じゃっで問題なか!」
と粘りに粘り、陥落させています。
要するに、あまり根に持たないどころか、相手を尊敬する、そういう精神性を感じます。
これは長州藩と比較するとより顕著で、明治政府成立後は長州藩出身者のほうが旧幕臣、佐幕藩出身者につらくあたりました。
長州藩士のメンタリティというよりも【長州征伐】で息の根を止められかけた……そんな苦い記憶からの反発もあったのでしょう。
そんな西郷らが、「よか稚児」であり、強敵である酒井を厳しく罰することはなかったのも、納得できます。
庄内藩の多くの人々は、このときから西郷を敬愛するようになりました。
明治維新以降、酒井は下野した西郷をおとずれ、はるばる鹿児島を訪れ、理由を聞いたこともあるほどでした。
死後に証明されたその智謀
ここまででも華麗なる鬼玄蕃様伝説なのですが、維新後も政府に出仕したうえ、なかなかすごい属性が追加されることになります。
酒井は政府の密命を帯びて清国にわたり「北清視察戦略」を提出。
なんと!
その明晰な頭脳を買われて、スパイになったのです。映画の世界だけじゃないんですね。
そんな酒井は、明治9年(1876年)、戊辰戦争のころから患っていた持病の肺結核で亡くなりました。
享年35という若さ。
そして鬼玄蕃の最強伝説は、60年以上の月日を経て、また新たな一章が付け加えられます。
中国大陸に進軍した日本軍は、やがて広大な国土、険しい地理や気候風土、食料国民性の違いに苦しめられ、泥沼へと突入してゆきます。
酒井が生前残していた報告書「北清視察戦略」には、まさにその懸念が述べられていたのです。
酒井の見識は、日本の失敗すら予測していたのでした。
まさにおそるべきその観察眼、そして知略でした。
※マンガ版はコチラへ!
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【参考文献】
『「朝敵」たちの幕末維新』(→amazon)







