フランス

ナポレオンが目をつけフランス企業が工事したスエズ運河~どうやって開通させたのか

デカイ事業って、何かとロマンがありますよね。

しかし、国家レベルのものとなると、夢なんぞよりアレコレと打算が大きくなるわけで……。

1869年11月17日、エジプトのスエズ運河が開通しました。

サウジアラビアとアフリカの間にある紅海と、ヨーロッパ南部の地中海を繋ぐ有名な運河ですね。

運河とは「陸地を掘り広げて、船舶の通行や灌漑などに便宜を図る水路」のこと。

日本では道頓堀(大阪)や貞山堀(宮城)などが有名でしょうか。どちらも江戸時代の初期に作られたもので、かなり歴史があります。

実はスエズ運河も古い時代に原型がありまして。

紀元前の頃からエジプトの王様たちは

「このあたりに船が通れれば、いろいろ便利なのになぁ……」

と思っていたらしく、いろいろな試みをしています。

残念ながら、紅海の海岸線の変化によって頓挫したり、その後のアレコレで痕跡が失われたりして、長い歴史の中で埋もれてしまいました。

それを調査させたのが、あのナポレオンだったのです。

ナポレオン/wikipediaより引用

 


「昔やってたんなら今もできるだろ」

ロゼッタストーンの発見で有名なエジプト遠征。

このときナポレオンは地形などの調査も進めていました。

運河を作ることができれば軍事的にも経済的にもメリットが大きいですから、「昔やってたんなら今もできるだろ。どの辺だったか調べてこい」というわけです。

そもそもエジプト遠征がイギリス-インド間の連絡・輸送を妨害するためでしたので、ここにフランスが運河を作れれば、それもやりやすくなります。

そして調査の結果「だいたいこのあたりに、このくらいの規模の運河が作られただろう」という目星がつきました。

1881年に描かれたスエズ運河/wikipediaより引用

こうなると他の国も同じところに目をつけますが、このときはイギリスが

「フランスがこの辺で運河を作ろうとしてるらしい。乗り遅れるな!」

ということで、ナポレオン騒動が終わった後に調査を始めました。

ただしこのときは、こんな結論が出されています。

「紅海と地中海で水面の高さが違うから、閘門(こうもん)を作る必要がある。対費用効果が見込めるかアヤシイ」

結局、頓挫していたんですね。

閘門(こうもん)とは、運河の内外で水位差がある場合に作られる設備のこと。

これによって水位差を調整し、船が安全に航行できるようにします。

地面を掘り抜くだけでも結構なコストがかかりますから、閘門を作ればなおのこと費用がかさみます。

遠く離れた異国の地、しかもあっちこっちで戦費が膨大になっている当時では、「じゃあ作ろう」とはいいにくい数字になるわけです。

そんな感じでイギリスは一度引っ込みました。

スエズ運河開通直後の風景(19世紀)/wikipediaより引用

 


1858年にフランス人がスエズ運河会社を設立

それから数十年後――。

あらためて調査したところ、実は「地中海と紅海に水面差はない」ことがわかり、再び運河建設の計画が立てられます。数十年分損した感じですね。

さらに、建設予定のルートで試しに馬車による輸送をしてみたところ、ヨーロッパ~インド間にかかる時間が半分以下になりました。

馬車よりも輸送量で優る船の通行が可能になれば、その経済的恩恵は計り知れません。

なんせ飛行機がない時代のことです。

他にヨーロッパとアフリカを結ぶ海路というと、喜望峰(アフリカ最南端)経由しかありませんので、そりゃ短縮したいわけですよね。

かくしてこの地の運河事業に目をつけ始めたのがフランスやオーストリアです。

フェルディナン・ド・レセップスというフランス人の元外交官&事業家が中心となり、1858年にスエズ運河会社を作って建設に乗り出します。

レセップスの教え子でもあったエジプト総督サイード・パシャも乗り気で、建設許可書を出しました。

スエズ運河の掘削は、常時3万人もの人が工事に携わり、完成までに150万人ほどが働いたという大工事に。

おそらくピラミッドを作るのと同じくらいの人数かと思われます。あちらはどんな人数規模で作っていたのか、さまざまな説がありますけれども……まあ、だいたいのイメージということで。

しかし、ピラミッドとスエズ運河の工事では、大きく違う点がありました。

労働者の待遇です。

 


10年で数千人の労働者が命を落とし

一昔前まで「ピラミッド工事の現場は奴隷が働かされていた」という説が主流でした。

最近の研究では「用事があれば休むことができ、報酬としてビールも振る舞われる、農閑期の公共事業だった」という説が有力になっています。

しかし、スエズ運河では全く逆だった……とされています。

10年ほどの工期中に、数千人の労働者が命を落としたといわれているのです。

ここに目をつけたのが、またしてもイギリス。

もともと「この辺がフランスのシマになるとヤバイ。インドと連携しにくくなる」と考えていましたので、イチャモンをつけられそうなところを探していたのでしょう。

イギリスは「労働者が奴隷扱いされているじゃないか、けしからん!!」という名目で、スエズ近辺へ軍事的に介入。

ついでに労働者の反感を煽り、反乱を起こさせて一時緊張状態になりました。

同時期のイギリス本国では、児童労働や常識を逸脱した薄給などの労働問題が蔓延していたんですけどね。以下の記事に詳細がございますので、よろしければご覧ください。

救貧法
人がゴミのようだ!った英国「救貧法」地獄のブラック労働とは?

続きを見る

フランスその他の国からすれば「お前が言うな」とツッコミたかったところでしょう。

また、イギリスは1850年からアレクサンドリア-カイロ-スエズに鉄道を通して輸送速度を上げる計画を立てていたので、この面においてもスエズ運河開通に反対する理由がありました。

完成直前のスエズ運河/wikipediaより引用

運河計画に携わっていた人達からすれば「知らんがな」って感じだったでしょうね。

さらに、フランス以外の市場ではスエズ運河会社の株は下火になっていました。

やはり「これほどの大事業に見合う採算が取れるのだろうか」と思っていた人が多かったようです。

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