野口英世/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

実は遊び人だった野口英世と彼を支えた人々――偉業は一人にして成らず

人間誰しも長所と短所がありますよね。

伝記が書かれているような偉人たちだとついそのことを忘れてしまいがちですが、もちろん彼らにだって恥ずかしい性癖や、ろくでもない悪癖の一つや二つはありました。

当コーナーでこれまで扱った人でいえば、ナポレオンは体臭フェチですし、モーツァルトはとんでもなく下品なジョークが大好きだったとか。お食事中の方すみません。

当然我が国の偉人にも一つや二つや三つほど欠点があってもおかしくはないわけで。

明治九年(1876年)11月9日、野口英世が誕生しました。

ご存知、千円札の人ですね。

そういう意味では、今日の日本で最も顔を見られている人といっても過言ではないでしょう。

 

野口英世のコンプレックスになった左手

野口英世に関しては、古くから伝記も書かれていて、ご存知の方が多いですよね。

特に「小さい頃に手を大火傷をしたが、手術によって回復し、後に素晴らしい医師になった」という流れは、日本人にとってお馴染みの話の一つでしょう。

ですので今回は彼の一生を”欠点”という面から見てみたいと思います。

福島の偉人をディスってやろうなんて気は毛頭ありませんので、悪しからずご了承ください。

さて、彼は現在の福島県の農家に生まれました。

長男だったので、普通ならそのまま家業を継いで畑仕事に勤しむことになっていたでしょう。

家の囲炉裏に落ち、左手の指がくっついてしまうほどの大火傷を負ったのは1歳にもならない頃。

乳飲み子の状態では全く記憶がなかったでしょう。

しかし、左手が不自由であることは、彼の大きなトラウマになってしまいます。

物心ついたころにはすっかりコンプレックスになっており、お姉さんとのケンカのタネにもなったとか。

それを見て不憫に思った母・シカは、英世が小さい頃から「学問で身を立てなさい」と言い聞かせて育てました。

母・シカと野口英世/wikipediaより引用

決して裕福ではない生活で、よくこの発想が出てきたものです。

シカは後に高齢になってから一生懸命勉強して読み書きを身につけていますので、地頭の良い人だったのでしょう。

この頭脳は英世にも受け継がれたようで、母の方針に従って現在の小学校・中学校にあたる学校で優秀な成績を修めます。

 

不自由な手を手術してくれた医師を見習い医術の道へ

また、このころ出された課題の作文で「この左手が苦痛で仕方がない」というテーマで書き、クラスメイトや先生から大きな反響を受けました。

それまで周囲は何も思わなかったの? とツッコミたくなりますが、英世自身は何でもないように振舞っていたか、あるいはあまりその話をせず、伝わっていなかったのでしょうね。ままあることです。

そして皆が「会津若松にいい医者がいるっていうから、手術してもらえるようにお金を出そうじゃないか!」と言ってくれたおかげで、英世は最初の手術を受けることができました。

このとき執刀したのはアメリカで西洋医学を学んできた渡部鼎(かなえ)という人物でした。

渡部鼎/wikipediaより引用

英世は学校を卒業してからしばらく彼の医院で医学を学ぶことになります。

完璧ではなかったものの、少しでも左手の指を動かせるようにしてくれたのですから、感激も感謝もしていたでしょうしね。

また、当時は医大やそれに順ずる学校がまだ整備されていなかったので、国内で医学の道へ入るには、既に医師になっている人物の元で学ばなければなりませんでした。この辺はまだ江戸時代とそう変わりませんね。

そしてライフワークとなる細菌学の世界を知るわけですが、英世のカッコ悪いところが出てくるのはそのあたりからです。

 

豪傑!試験のために借りた大金を女遊びに使いきる!

当時は医術開業試験というテストに合格しないと医師として認められないことになっておりました。

筆記試験と臨床試験の二段階に分かれていて、英世は東京で受験するため、知人や先生から大金を借りて上京します。

筆記試験については難なくクリアできました。

が、なんと英世は、ここで在京費用のほとんどを使い切ってしまったのです。

使った内容といえばズバリ女遊びでした。残念すぎる。

しかし彼はそんなことでは諦めません。

渡部を通して知り合っていた血脇守之助という人物から援助を受けて、学費や滞在費用を捻出します。

血脇守之助/wikipediaより引用

当時そんな余裕のなかった血脇に、昇給の交渉をさせてまでお金を借りたのはどうなのよ。

後々アメリカ滞在中に「あなたに受けた恩は決して忘れません」と血脇へ言っており、色々と便宜を図っていたりするので、バックレてやろうというゲスな考えはなかったようですが。

なんとかお金の都合はつき、ここでまたしても左手が英世を苦しめます。

お医者さんに行ったとき、先生が「痛いのはこの辺ですか?」と言ってお腹などをポンポンと叩くことがありますよね。

あれを”打診”というのですが、指が切り離せたとはいえ普通の人と同じようには動かしにくかった英世にとって、これは至難の業だったのです。

そして臨床試験ではこれが必須でした。

そのため、臨床試験を受ける前に左手をどげんかせんといかんということになったわけです。

幸い、血脇の紹介で優秀な医師に無償で(!)二回目の手術をしてもらうことができ、英世の左手はそれまでよりも良く動くようになりました。えがったえがった。

臨床試験にも無事合格し、晴れて医師を名乗れるようになります。

 

北里の研究所へ

結局、英世は開業医にはなりませんでした。

やはり資金難と左手のコンプレックスは解消できなかったようです。

その代わり、兼ねてから興味を持っていた細菌学の学者になろうと考えます。

医師免許取得後、まずは順天堂医院(現在の順天堂大学付属順天堂医院)で働き、その後、細菌学の第一人者・北里柴三郎が所長を務めていた研究所へ。

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語学が得意だったことから外国の本や文書の翻訳や通訳を任されたりと、西洋医学に触れる機会をたくさん得ることができたようです。

その縁を利用して、あるときアメリカから来た医学博士に「アメリカへ留学したいんですが、どうしたらいいでしょうか」と相談しました。

そのときは即座に渡航することはできませんでしたが、可能性がゼロではないことを知った英世は、あらゆるチャンスを探して留学の道を探ります。

一時は清(当時の中国)に渡って医療活動に従事していたこともあり、そのときも上記の博士に留学の希望を伝えています。

この頃にはかなりお給料をもらえていたようなのですが、やっぱり女遊びその他で使い果たしてしまい、結局、留学への道が遠のいてしまうんですけども……先生、何やってんすか(´・ω・`)

 

ほぼ結婚詐欺でアメリカ留学費用をゲット

結果的には渡航費用も用意でき、無事アメリカに留学してより高度な知識を身につけました。

が、この費用の調達方法が実にヒドイ。

結婚するつもりのない相手と婚約をして、先方からの持参金でアメリカに渡ったのです。

どう見ても結婚詐欺ならぬ婚約詐欺です。

当然相手からは「いつ帰ってくるんですか、本当に結婚してくれるんですよね」と催促の手紙を何度も送られ、英世はのらりくらりと言い訳を続け、結局、破談にするという最低なことをしています。

それでいて後にアメリカ人の女性と結婚しているのですから、もう何というか。

自身が散財しなければ婚約をする必要もなかったわけで、その点については弁護のしようがないでしょう。

本題に関係ないためか、彼の伝記などではこの点が省略されているんですよね。

道徳教育的にマズイから?

医学に対する情熱がホンモノで実績も残しているだけに、この点については本当に残念としか(´・ω・`)

でも、そのくらい長所と短所の振れ幅場が極端だから、万人には到達できない偉業もやってのけたのかもしれません。

皆さんご存知の通り、英世の死因は黄熱病の研究に熱中しすぎたためで、自らも感染してしまったというものでした。

やはり医学への真摯な気持ちは人一倍強かったのでしょう。

「自分はどうしようもない悪癖があるからロクデナシなんだ!何をやってもダメなんだ!」

なんて自身を責めている方も、なにか突出した部分でなら歴史に名を残せるかもしれません。

一度きりの人生ですから勝負に出てみるのも良さそうです。

長月 七紀・記

【参考&TOP画像】
野口英世/wikipediaより引用

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