アンコールワット

アジア・中東

超複雑なカンボジアの歴史と内戦をスッキリ解説! アンコールワットの夜明け

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1953年(昭和二十八年)11月9日は、カンボジアがフランスから独立した日です。

しかし、この国にとって真の独立はこれより数十年後のことでした。

どういう経緯だったのかを含め、カンボジアの歴史と内戦に注目したいと思います。
現代の部分が長くなるので、それ以前はざっくりになりますが、悪しからずご了承くださいm(_ _)m

 

アンコールワットは中尊寺金色堂と同窓生!?

カンボジアには、少なくとも1世紀ごろから国があったと考えられています。
その頃の中国の歴史書に、現在のカンボジア付近に扶南ふなん王国という国ができていたことが書かれているのです。

3世紀ぐらいから中国・インド双方の中間にある交易都市として栄え始め、6世紀には真臘しんろうという今のカンボジアにとって原型に近い国ができ、クメール文字という独自の文字が考えだされました。

9世紀にはアンコール王朝(クメール王朝)という王朝が始まります。
この国が12世紀に作ったのが世界遺産アンコール・ワットです。

タイやベトナムの一部も含めて領土を拡大させたクメール王朝/wikipediaより引用

もし建築物に「同窓生」という概念を当てはめるとすれば、アンコール・ワットと中尊寺金色堂がそんな感じになります。大きな枠組で考えれば同じ仏教寺院ですしね。

アンコール王朝は決して盤石ではなく、内乱や外国との争い、大規模建築による国力の疲弊などがありました。まあこの辺はどこでも同じですかね。
13世紀からは元やタイのアユタヤ王朝とも戦っており、大陸国の悲哀が伺えます。

そして15世紀には首都アンコールが陥落。
その後も遷都を繰り返しながら国の形は残りました。根性、すごいです。

近年もたびたび水害に悩まされていますから、この頃にはもっとすごかったでしょうし、移転くらいは困難でも何でもなかったのでしょうか。

 

ベトナムとタイに侵攻され続け、独力ではどうにもならず……

16世紀にはポルトガル人がやってきており、日本との交易をしていたことも記録されています。

かぼちゃはこの頃日本に伝来したともいわれていますね。
「カンボジア」→「カンボチャ」→「かぼちゃ」と変化したのだとか。随分可愛らしい変わり方をしたものです。

海の向こうの国との交易が始まったことで、外交関係も複雑になってきます。

タイやベトナムとの戦争に際し、フィリピン総督のスペイン人や、シンガポールにいたフランス人領事に助けを求めたこともありました。
が、いずれも失敗。ここで完全に植民地化されなかったのは不幸中の幸いですかね。

19世紀にはカンボジアを含めたインドシナ半島戦域がフランスの植民地になりました。

フランスが進出していたベトナム・ラオス・カンボジア/photo by historicair wikipediaより引用

このあたりから嫌な予感がしますが、カンボジアは自ら保護国化を望んでいるので悪いとも言い切れません。
ベトナムとタイに挟まれ、侵攻され続け、独力ではどうにもならなかったからです。

日本人にはなかなか想像がつきませんが、ものすごく端的にいうと信長包囲網を国単位でやられるような感じでしょうか。

イメージ云々はともかく、王様が自ら頭を下げるというのは、相当の勇気が必要だったでしょう。
しかし、市民、特に農民は納得せず、王宮前まで来て直訴をしたなんてこともありました。徴税に来た役人を農民が暗殺するという物騒すぎる事件も起きています。

それでも保護国という立場は変わりませんでした。

 

第二次大戦後はベトナム戦争に巻き込まれ

第二次世界大戦が始まってフランス本国がドイツに侵略されると、カンボジアは日本との関係を重視し、国内への進駐を認めました。

当時の日本軍は次々に版図を広げていたので、アテになりそうだと思ったのでしょう。
日本の明号作戦(フランス領インドシナ半島制圧作戦)に呼応し、カンボジア独立を狙います。

日本の敗戦後、カンボジアは再びフランスの保護国になってしまったのですが……ときの国王・シハヌークは諦めずに独立運動を続けました。
自らフランス・アメリカ・タイなどで世論に訴え、国内では憲法公布などを行って19553年に独立を果たします。

シハヌークはその後、首相兼外務大臣ののち国家元首としてカンボジアの国政を担っていきました。

が、ここでカンボジアの発展を大きく妨げる大事件が起きます。

ベトナム戦争です。

「何で隣の国の戦争が関係あるんじゃい」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、地続きの隣の国でドンパチをやっていて、全く巻き込まれないでいるというのは至難の業です。
そんなんできるのはスイスくらいではないでしょうか。

 

ベトナム戦争の経過を6行まとめ

というわけで、ここでベトナム戦争の経過が重要になってきますので、カンボジアの話をする上で最低限のことだけお話しますね。

①第二次世界大戦後、再びインドシナ半島全域を植民地にしようとしたフランスに対し、ホー・チ・ミンが主導する北ベトナムの人々が反抗

②フランスは南ベトナムに傀儡国家を作り、南北のベトナムが相争う

③南ベトナムではその後アメリカを後ろ盾とした新しい国ができたが、政策がダメダメ過ぎて国民の反感を買う

④これを見た北ベトナムが武力による南ベトナムの併合を狙う

⑤アメリカ、「共産主義の北ベトナムが勝ったら、インドシナ半島全部が共産主義になりそう! ヤバイ!!」(超略)で参戦、北(ベトナムへの)爆(撃)開始

⑥北ベトナム、ゲリラ戦でアメリカ・南ベトナムを翻弄。アメリカ軍撤退、ベトナム戦争終結

ベトナム戦争に関しては、枯葉剤と各方面への被害・諸々の虐殺事件・反戦運動などなど、もっといろいろと書くべきことがあるのですけども、今回はカンボジアのお話なので割愛します。

余談ですが、ベトナム戦争の記録を詳しく調べようとすると、ほぼ確実に虐殺現場のカラー写真が出てくるので、なかなかおすすめできないのが残念なところです。

目を逸らしてはいけないんですけど。
知るまでの過程で拒絶されたら意味がありませんから。

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュの台頭

さて、この間におけるカンボジアの動きも、戦線に呼応するかのように複雑なものでした。

シハヌークは北ベトナムにつきました。
そして「ウチの国内を通っていいよ」と言っていたところ、シハヌークの外遊中に親米派がクーデターを起こし、クメール共和国樹立を宣言、ベトナム系住民の迫害・虐殺を行ってしまったのです。

これを機に、アメリカ軍はカンボジア国内の北ベトナム側拠点にも空爆を行うようになりました。

そこで出てきた新勢力がポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」という政党です。

ポル・ポト/wikipediaより引用

聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
民衆に人気のあったシアヌークがポル・ポトについたことにより、カンボジアの運命が激変します。

ポル・ポトは当初、農民の味方だったのですが、政権を奪い取るやガラリと政策を変えました。

「原始共産主義こそ完全な社会! 逆らうやつは全員ブッコロ!!」(超略)という姿勢を露わにし、そして実際に大量虐殺を行ったのです。
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