今回は、織田信長自らが将軍・足利義昭との和解に動くお話です。
流れとしましては
①足利義昭が職務怠慢で信長に叱られる
信長が義昭お説教の中身とは~超わかる信長公記87話
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②ワシは将軍じゃ!織田包囲網でやっつけちゃる!と義昭キレる
石山・今堅田の戦い 将軍義昭が強気になる理由~超わかる信長公記88話
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③そっち(義昭)が望むならやってやらぁ!←今回ここ
と信長が出陣してきたときの話になりますね。
これまでさんざん親切にしてきた将軍にケンカを売られた信長。
さすがに穏便なやり方はしておりません。
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京都入り 知恩院に陣を構える
元亀四年(1573年)3月25日、京都に向けて信長が出立します。
3月29日には道中の逢坂(大津市)に、細川藤孝・荒木村重が出迎えに来たと信長公記にはあります。
殊勝とも卑屈ともとれますが、信長にとっては好ましいこと。
褒美として、郷義弘の刀を村重に、名物の脇差を藤孝に与えています。
文化人としての素養を備えた二人だけに嬉しいことだったでしょう。まぁ、この5年後に村重は信長を裏切るんですけどね。
同日の正午、京都入り。
信長自身は東山・知恩院に陣を据えました。
同行した諸将は粟田口・祇園・清水・六波羅など、現在の京都市東山区のあちこちに分散して滞在していたようです。
歴史上でも、そこここで見かける地名が揃っていますね。
こうして滞在していた武将や兵たちが、京都でどんな生活をしていたか?
そんな日常風景も気になるところで、今度、機会があったら触れてみたいと思います。
洛外を焼いたった
ともかく信長はまず4月3日、将軍への威圧として、洛外(らくがい)の堂塔寺庵以外へ放火しました。
洛外というのは、平安京の外側のことです。
内側のことを「洛中(らくちゅう)」といいます。
堂塔寺庵は、大まかに言って
「平安京の外側のうち、仏教関連以外の建物などを焼いた」
と捉えれば良いかと。
日常風景どころではない、物騒な展開で身が引き締まります。
ここで信長は一度将軍方に連絡を取ったらしく、「返答次第では和睦してもいい」という意思を伝えたようです。
しかし義昭にも誇りと意地がありますから、そう簡単には応じません。
信長は、さらなる実力行使を決めました。
将軍御所を取り囲み、上京も焼き払う
翌4月4日、二条の将軍御所を包囲し、今度は上京(かみぎょう)を焼き払いました。
「上京」は、京都の二条通りより北側を指します。
現在の京都市上京区とは少々ズレがありますが、方角としては同じです。
上京のどこからどこまでを焼いたのかは書かれていないものの、さすがにこうなると、意地だのなんだのと言っている場合ではありません。
義昭は和議に応じることを決め、信長も了承しました。
……なんだかしょーもなく見えますね。
信長も呆れ果てたのか。
4月6日に和睦の手続きを取った際、自分では足を運んでいません。
代理として庶兄・織田信広を将軍のもとに派遣しています。
この織田信広はかつて今川家の太原雪斎に城を包囲されて生け捕りにされ、織田家で囲っていた竹千代(徳川家康)との人質交換に出された――という不名誉な経歴を持っています。
しかし織田家中においては、大事な相手との折衝に赴いたりして、信長と血縁の近い親類=連枝衆の一員として中々重要なポジションにいたようです。
信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由
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なお、信長本人は、翌日には京都を引き上げ、近江の守山(守山市)に布陣して別の敵にあたっています。
なんだかコチラの準備の方が大切だったようで。
ちょっと足利義昭も可哀相になってきますね。
”別の敵”とは?
次回また触れさせていただきます。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)