カンボジアの歴史

アンコールワット

アジア・中東

超複雑なカンボジアの歴史と内戦をスッキリ解説! アンコールワットの夜明け

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地方で強制労働させ、逆らえばすぐに虐殺する

ポル・ポトは、中国の文化大革命や毛沢東からの影響を強く受けて原始共産制に魅力を感じたそうで。

その中国は同時期に見事に失敗してるんですけどね。

今より情報の伝達速度が遅いとはいえ、それを全く知らなかったとは思えないのですけども、何がどうしてこうなってしまったのやら……。

「人が減ったら中国から連れてくればいい」とか考えてたなんて話もあるほどです。

ともかくポル・ポトは、原始共産主義のもと、知識人や役人を次々と地方の農場に送って強制労働をさせました。

「知識があると反乱を起こす”かもしれない”」からです。

これほど被害の大きい屁理屈があるでしょうか。

当然、逆らう者は強制収容所で軒並み死刑にしています(※カンボジアの博物館には、赤ちゃんさえも地面に叩きつけて殺すクメール・ルージュのイラストが……)。

完全に壊れてしまってます。

しかし、強烈な監視社会、恐怖政治とは怖いもので、それが蔓延ってしまうのでした。

 


日本人の犠牲者も数名いた……

この頃シハヌークは監禁され、政治に関わることができなくなっていました。

さらに、ベトナム戦争が終わっても国内の統一が図りにくかったベトナムが、カンボジアに攻めてきます。

いつでもどこでも、人間は共通の敵がいると団結しますからね。

ベトナムはソ連、ポル・ポトが中国の支援を受けていたため、同じ共産主義でも味方ではなかったからでもあります。

そしてベトナム軍がカンボジアに侵攻。

クメール・ルージュが国境まで追いやられると、ようやくカンボジアは恐怖政治から開放されました。

しかし、この頃までに少なく見積もっても200万以上の人が原始共産主義の犠牲になっています。

数十年間国勢調査は行われておらず、また上記の理由からして「国政の邪魔になる人間」の数など把握しているはずがないので、正確な犠牲者数はわかっていません。

他に飢餓による犠牲者もいます。

あまり知られていませんが、日本人の犠牲者も数名いると考えられています。

わかっているのはカンボジアの男性と結婚していた日本人女性で、そのうち二人が奇跡的に生還しました。

ベトナムはカンボジアをまともな国にするべく動き始めました。

ただ、外国に口を出されるのが気に入らないのはどこでも同じなのでしょう。

国際世論も「よそに新しい国作ったらそれ傀儡じゃね?」(超訳)と考えたため、ベトナムが作った政府よりもカンボジア人の政府を応援し、内戦状態に陥ります。

ここまでの数十年で一体何人が犠牲になったのでしょう。

しかし、国際世論のせいでこじれた問題ですから、国際世論が変われば状況も変わります。

1980年代後半になって冷戦が終わる雰囲気を見せ始めると、共産主義国家の考えも柔和になっていきました。

そして各政権間で会談がもたれ、ベトナム軍がカンボジアから完全撤退。

1993年には総選挙が行われ、シハヌークを国王とする新しいカンボジア王国が始まりました。

 


家族立会いのもと埋葬されたポル・ポトの最期

ポル・ポトは頑強に抵抗を続けました。

が、徐々にお偉いさんが逃げ出します。どう見ても復権はありえませんしね。

しかもその状況で自分の腹心を「勝手に和解を試みたから」という理由で殺害したことがきっかけで、クメール・ルージュ内部から監禁され、裁判にかけられました。

判決は当然死刑で、翌年亡くなっています。

毒殺または服毒による自殺の可能性もあるそうで、遺体が既に焼かれてしまっているので今後の調査は不可能でしょう。

古いタイヤと一緒に焼かれたそうです。

なぜタイヤなんだか……。

それまでの所業からして市民に八つ裂きにされても仕方ないほどでしたが、火葬の上、家族立ち会いのもと埋葬しているあたり、カンボジアの方々も優しいものです。

現在、クメール・ルージュは完全に消滅しております。

しかし、国内各地に埋められた地雷などの爪痕は大きく、特に法律の制定が急務となっています。

裁判官・検察・弁護士などの法律に関わる知識人層がほとんどいなくなってしまったからです。なんせ民法が適用されたのが2011年ですから、細かい法律に関してはまだまだこれからというところでしょう。

日本からも相当な支援が行われているので、時間の問題かもしれませんが。

 

今後は日本との関係がますます強化されていくハズ

そんなわけで、カンボジアのまだまだ課題は多い一方、明るい兆しもあるようです。

これは現地に行った方からの又聞きなのですけれども、とても学習意欲が高くてエネルギッシュな若者が多いんだとか。

日本語を学ぶ人も多いそうです。

当サイトの編集長談によりますと、1999年頃に現地を訪れたとき、当初、中国人と間違われ邪険に扱われていたところ、日本人だとわかった途端に笑顔で色々と歓待してくれたなんて話も。

あくまで市民感情レベルの話ですが、当時、中国は資本にまかせて同国へ進出していて、現地の人に良く思われていなかったんだとか。

現状は不明ながら、そう大きく方針は変わってないでしょうから、その点は日本も気をつけねばならないのかもしれませんね。

日本とは要人の往来も多いですし、少しずつ経済関係も増してきているので、あと何十年かしたらもっと重要視される国になるかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
カンボジア/wikipedia
カンボジアの歴史/wikipedia
原始共産制/wikipedia

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