読んで字のごとく「遠い国と国交を交わし、近くの国へ攻め込む」という、中国・春秋戦国時代の話。
実際問題、日本も某ならず者国家に敵視されておりますが、一方、少し地理的距離が離れれば親日国も数多あり、今回はそのうちの一つに注目したいと思います。
1809年(日本では江戸時代・文化六年)9月7日は、タイの国王・ラーマ1世が崩御した日です。
タイといえば、日本のリタイア組が移住先に選んだり、アジア旅行のハブになっていたり。
その他、国民の特徴としても「微笑みの国」とか「僧侶が多くて崇敬されている」などなど、いろいろな点が好意的に受け取られておりますよね。
歴史や社会制度に関することでいえば、
「第二次世界大戦中、東南アジアで唯一独立を保っていた」
「王様が非常に尊敬されており、不敬罪が存在する」
などでしょうか。
今回は、現王家の祖先であるラーマ1世までのタイの歴史を、ざっくりと見ていきましょう。
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「ドゥヴァーラヴァティ王国」はモン族が建国
“ラーマ1世”の称号は、子孫であるラーマ6世によってつけられたものです。
ややこしいので統一させていただきますね。
そもそも現在のタイ付近にできた最初の国は、現在のタイ人ではなく、モン族という別の民族のものでした。
「ドゥヴァーラヴァティ王国」といいます。
なんだか舌を噛みそうな名前です。
彼らは東のクメール人(現カンボジアの主要民族)に攻め込まれて滅亡。
現在のモン族は、タイではなく、その隣国ミャンマーに多く住んでおり、いわゆる少数民族でもあります(人口の2%ぐらい)。
一方、タイ人の祖先はもともと中国南部におり、13世紀頃からモンゴルに追われる形で南下を始め、モン族が去った後のチャオプラヤー川上流にスコータイ朝を開いたのが進出のキッカケでした。
このとき作られたタイ文字が今の原点となっており、同時に上座部仏教を保護したり、文化的にも発展しています。
他にもタイ人系の国として、現在のチェンマイ付近にはランナー王国、ラオスにはラオ人のランサン王国などがありました。
トンブリー朝のタークシンが王の名乗りを上げる
スコータイ朝は9代目の王・マハータンマラーチャー4世のとき、後継者争いの末、親族が王位を継いでアユタヤ朝となります。
現在はタイの旧称となっている「シャム」を名乗り、ミャンマー(当時はビルマ)やカンボジアなどと戦って領地を拡大していきました。
また、スコータイ朝はチャオプラヤー川から海へと進出し、交易も盛んに行われるようになっていきます。
このころ戦国時代だった日本から、職にあぶれた浪人などがたどり着き、傭兵として雇われていたこともありました。
彼らの生活する日本人町も作られていて、山田長政が有名ですよね。
更に時を経て、日本では江戸時代中期にあたる1767年。
ビルマのコンバウン朝の侵入によってアユタヤ朝は滅亡します。
その後、地方政権の一つであったトンブリー朝のタークシンがビルマ人を撃退し、王となって独立を回復、トンブリー朝を開きました。
現代にも似た名前の「タクシン」という人がいますが、これは彼らが中国系タイ人だから似ているだけで、タイ語ではつづりが違うんだそうです。
日本語だと長音「ー」の有無で見分けるしかないのが何ともややこしいところです。
「ワシは阿羅漢に達した! 国民はワシを拝むように!」
タークシンは「自分は中国系である」ということに非常に強いコンプレックスを抱いていたようで、晩年にはそれを原因とした精神疾患を起こしてしまいます。
具体的には
「ワシは阿羅漢(あらかん)に達したので、国民は皆ワシを拝むように」
というトンデモ命令を出してしまったのです。
阿羅漢とは、仏教で「尊敬されるべき徳を持った修行者」や「聖者」のことを指します。
「羅漢」ともいいます。
宗派によって「十六羅漢」や「十八羅漢」、「五百羅漢」などがあり、日本でもそういった名前の仏像が多々ありますので、何となく見覚えがあるという方もいらっしゃるでしょうか。
チベット仏教では十八羅漢に玄奘三蔵を入れたり、五百羅漢は釈迦に付き従った500人の弟子の総称とされたり、仏教キーワードのひとつです。
しかし、そもそもの定義が「修行者」「僧侶」なので、出家していない人物が「羅漢」と名乗るのはご法度です。
タークシンも仏教徒なので、それを知らなかったはずはないのですが、そこが「正気を失う」とされる所以でしょう。
堕ちた王から人心離れ、代わって台頭したラーマ一世
タークシンは俗世のまま羅漢を名乗ったことになるため、当然、誰も王を拝みはしませんでした。
彼はそれに憤り、命令に従わない僧侶たちを鞭打ち刑などに処すという暴挙を働きます。
暴君のテンプレみたいな言動です。
こうなると、かつて優れた王だったとしても次第に人心は離れていくもの。
ラーマ1世も彼から離れていった、その一人でした。
ラーマ1世はアユタヤ朝のいわば貴族階級で、かつてタークシン王が挙兵したときにタークシンの母を保護したことを皮切りに、武功を上げてどんどん昇進していた人物です。
当時はカンボジアへ遠征していたのですが、王(とその命令)よりも国内の安定を優先し、遠征を中断して当時のタイの首都・トンブリーに戻ってきています。
そしてタークシン王を処刑し、王位について現在のタイ王家であるチャクリー朝を開きました。
「チャクリー」はラーマ1世の元の名前です。
また、チャクリー朝は首都の名を取って「バンコク朝」、またバンコクのある島の名から「ラッタナーコーシン朝(ラタナコーシン朝)」とも呼ばれています。
こんなにいくつもの呼び名がある王朝も珍しいですね。
タイの学生さんは歴史の授業が大変だ。
エメラルド仏寺院を建立
ラーマ1世はトンブリーのチャオプラヤー川を挟んだ対岸にバンコクの町を作り、遷都を行いました。
その後も仏教や文学を重んじる政治を行い、民衆に慕われたとされています。
彼が作らせた中で有名な建築物としては、観光地として知られるワット・プラケーオ(エメラルド仏寺院)が挙げられます。
ちなみに「エメラルド仏」と呼ばれているものは実際には翡翠製(たぶん硬玉)だとか。
そもそもエメラルドは衝撃に弱いので、仏像のような細かい細工を大量に施す加工をするのは難しいでしょうね。
翡翠なら古代からいろいろな細工物や実用品が作られていますから、仏像を作ることもできたでしょう。
その後、チャクリー朝は北部のランナー王国や南部マレー半島のイスラーム勢力を次第に統合して、一時は現在のラオスやカンボジア、マレーシアまで勢力を伸ばしました。
面積としては、現在のタイの倍くらいはあったそうです。すげえ。
しかし、チャクリー朝の成立時点で18世紀後半。
世界は近代化とそのための資源や植民地獲得、外交合戦の時代に突入していきました。
ゆっくり成長するという悠長なことは言っていられない時代に、タイは代々の王様の元で変革や駆け引きをしつつ、生き残っていくことになります。
2019年現在、チャクリー朝の王はちょうど10人で、「文武両道タイプ」や「子供を作りすぎて王族が増えまくった」、あるいは「初めてヨーロッパに留学し、タイの近代化を急いだ」など、一人ひとりがまさに時代を作ったといえる王様ばかりです。
機会があれば一人ずつ見ていきたいと思います。
長月 七紀・記
【参考】
ラーマ1世/wikipedia
チャクリー王朝/wikipedia
タイ王国/wikipedia
タイの歴史/wikipedia