2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、主役の西郷隆盛は何度もこう宣言していました。
「倒幕し、民がメシを腹一杯食べられるようにする!」
素晴らしい発想ですが、実際にどうなったか?
というと、残念ながら平穏からは程遠い状況。
2021年大河『青天を衝け』では、幕臣サイドから幕末維新が描かれる――と言いつつ、現実は、渋沢栄一自体が新政府サイドに鞍替えしており、明治時代の薄暗い歴史などほとんど何も描かれませんでした。
例えば、戊辰戦争負け組となった佐幕藩関係者は、以下の記事のように、北海道の荒野をさまようような開拓事業に追いやられた例があります。
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そこに気づかれた視聴者はいないでしょう。
栄一と同じ立場だった幕臣(旗本や御家人)にしてもそうです。
相方の渋沢成一郎が「彰義隊」に参加し、箱館戦争こそ描かれながら、まるで土方歳三の死を盛り上げるためだけの舞台にも見えました。
敗戦後の幕臣については、餓死するような例もあったのですが、そうした苦境にはほとんど触れられていません。
別に、暗澹たる歴史ばかりを描いて欲しいわけではありません。
薄暗い部分をまるっと無視して、美辞麗句が並ぶバランス感覚に危惧を覚えるのです。
そもそも渋沢栄一が、オームレスや孤児を救済するために運営した「東京養育院」だって、薩長が強引な討幕を推し進めた結果、首都が荒廃したのが一因で必要になったものです。
なぜ、そうした負の一面にはフタをされてしまうのか。
実際は、とても理想的とは言えなかった“場当たり的な明治維新”後の実態があったのに、触れたくない事情でもあるのでしょうか……。
2015年以降の幕末大河ではほとんど触れられていない、江戸から東京になった街の状況や、大奥にスポットを当ててみましょう。
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大奥崩壊~篤姫すら苦しんだ
「大奥」と聞いて、皆さんはどんなイメージをお持ちになられます?
この男女逆転版のように「一人のモノに多数の美形異性が仕えるハーレム!」という印象でしょうか。
それは、間違っていません。
鈴のしゃなりしゃなりと鳴る廊下を歩く上様は、史実です。
が、現実はそれだけでもありません。
大奥の上級女官は、男性官僚も一目置くほど政治力が強く、下級女中は力仕事をこなしていました。
資産家の商人など、町人階級の者たちは、女子の教育機関としてこうした女中に我が娘を送り込みます。
というのも、そこでは化粧からマナーまで一流の者になるための修行が行われ、大奥女中出身というだけで女性は注目を集めたからです。
こうした女子教育機関でもあった大奥が、明治維新によって終焉を告げられました。
同時に、経済的にもインパクトがありました。
大奥に仕える女官は、結構な給与を得ていました。
その使い道といえば、豪華な衣装や、外出時のお饅頭といった菓子類。
江戸時代の上流商人は、大奥からの愛顧によって財を成していたのです。
一部の商人は明治政府に入り込むのに成功したものの、幕府と共に潰えた商家がいくつもありました。
しかもそこには、明治政府の経済政策がお粗末過ぎてダメージを喰らった事例もあったのです(詳細は後述)。
実家の島津家に対し容赦ない怒り
江戸時代が続いたなら、キャリアウーマンとして嫁ぎ先を見つけられたはずの女官たちも、大奥崩壊を機に実家へ戻りました。
彼女らは大奥で身につけた所作や考え方が、キャリアの証どころか気取った風習と白眼視され、嫁ぎ先も見つけられません。
そのため実家と縁を切り、茶道やマナーの師範となる元大奥女官が、明治初期にはよく見られたものです。
大奥トップであった篤姫(天璋院)こそ、この処分に激怒した筆頭でもあります。
宸翰(しんかん・天皇直筆)の額すら攻撃した新政府軍。
特に実家の島津家に対し、篤姫は容赦ない怒りを書き残しています。
彼女は島津家と敵対する彰義隊や、奥羽越列藩同盟に期待を寄せたほどで、歯がみしながら大奥を去り、次代の宗主・徳川家達の育成に余生を懸けました。
徳川家の女として骨を埋める――そんな篤姫の遺徳を徳川家は評価し、第二次世界大戦まで彼女の好物である「あんかけ豆腐」、「さがら茶の御膳」、「白インゲンの甘煮」を祥月命日に食べたともいいます。
女子教育の理想と現実
大奥という女子教育機関が消滅した後、明治政府が新たな女子教育に尽くしたのであればまだ良かったのでしょう。
しかし現実はさにあらず。
明治4年(1871年)、欧米の女子教育に感心した黒田清隆の提案により、日本初の女子留学生が渡米しました。
このメンツが、かなり偏りがあるのです。
津田梅子は幕臣の娘であり、山川捨松は佐幕派(会津藩)の出。
要は戊辰戦争における負け組の者たちばかりです。
もしも明治政府が本気で女子教育を重視していたならば、留学メンバーの中に皇族や公家娘、薩長土肥のお姫様が、少なくとも半数は入るのがバランス取れた配分だと思いませんか?
これが現実です。
彼女らは、養育費にも窮するような、佐幕派負け組の女子ばかり。
当時の人は、米国留学と聞いて「世捨て人にするようなものだ」と女子の親たちを批判的に見ているのですから言葉もない。
ただし、それは仕方のない話かもしれません。
当時の日本は、まっとうな家の娘は十代半ばから嫁ぐものとされました。それが留学先のアメリカで学習期間にあてられては、日本での将来が先行き不安と思われても仕方のない話です。
実際、帰国した女子学生は、日本で塩対応を受けます。
「負け組の、適齢期遅れ、日本語も不自由な西洋かぶれ女ども」
そう言われてしまった女子留学生は、負け犬でしかありませんでした。
メンバーの一人・山川捨松は、アメリカ人の親友アリス・ベーコンに「私は適齢期過ぎたって母が嘆く始末!」と自虐めいた手紙を送ったほどです。
当時の捨松は、まだ20代前半。
卒業時、アメリカの新聞は捨松の優秀さを絶賛し「彼女は日本の宝です」と書いたほどでした。その教養と美貌は、アメリカでは絶賛されたのです。
しかし、日本の価値観では、負け犬でしかありません。
結局、明治政府は、留学をさせるだけさせて、帰国後のフォローは全くしません。
ただし、捨てる神あれば拾う神あり。
薩摩出身で妻を失っていた大山巌は、パーティ会場でシェイクスピア劇『ヴェニスの商人』のヒロイン・ポーシャを演じた捨松にぞっこん惚れ、すぐに求婚します。
しかし、会津藩である捨松の兄たちは「薩摩と結婚なぞあっではならね!」と激怒です。
当の捨松はというと……これが乗り気でした。
というのも彼女は帰国後、女子教育を推進しながら塩対応されることにウンザリしていたのです。
西郷隆盛や西郷従道のイトコである大山の夫人になれば、社会的な発言力は大幅アップするはず。
そんな彼女の狙いは、半分当たりで、半分はずれといったところでした。
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