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【明治維新後の江戸の街や大奥】
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私が留学したのはダンスをするため?
大山夫人となった彼女の使命は、鹿鳴館で華麗なステップを踏むことでした。
『私が留学した意味は何かしら、ダンスをすることばかり?』
そう嘆いてもおかしくない捨松は、旧友によって救われます。
留学仲間の津田梅子が、女子教育への道を捨てずに邁進。
彼女への援助を惜しみなく続けました。
そしてついに明治33年(1900年)、梅子は「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開くのです。
梅子は、たった一人で女子教育を目指したわけではありません。
あの伊藤博文も、彼女の援助をしています。
ただし、彼女らの理想の実現までは、時間と手間がかかりました。
当時の政府はじめ世間は、大奥型と言いましょうか。女子として、結婚相手としての教養や知性ばかりを求めていたのです。
欧米型の知識欲を促す女子教育は、梅子や捨松といった留学仲間が意志を結集しなければ難しいものでした。
どうしても、政府はじめ上層部が目指す教育と、女性自身が目指す教育の間に、隙間風が吹いていたのです。
ここもあまり語られることのない新政府の欠陥ではないでしょうか。
帝都が野良ウサギまみれに
『西郷どん』では、島津久光による参勤交代中止が英断として取り上げられました。
出費の嵩む大名行列は、確かに藩の財政を大きく損ねるものです。
しかし、これをただの英断と見なすのは、いささか疑問が残ります。
参勤交代の中止は、江戸、そして後の東京における環境悪化を招いてしまいました。
それというのも、放置された大名屋敷が荒れ果てたからです。跡地を田畑とする動きもあったとはいえ、大名屋敷跡地が向いているわけもなく……。
大名屋敷の整備をしていた庭師等も、失業しました。
江戸っ子からすれば、薩長が余計なことをした――となっても仕方ない話です。
もしも跡地利用が上手で、うまい後釜ビジネスを武士向けに勧めることができていれば、批判はされなかったのでしょう。
しかしこれが、散々な結果に終わるのです。
幕府を失った幕臣たちの進路は、当時、3ルートありました。
さて、どれが人気だと思いますか?
「1」 は、上司がほぼ薩長閥だわ、裏切り者っぽいから「やってられねえ」。
「2」 は、勧められる産業がショボすぎて失敗に終わる。
そこで最も選ばれたのが「3」です。要は、消去法で選ばれたわけですね。
ただし、この「3」には大きな落とし穴が待っていました。
なんせ無禄ですから悲惨そのもので、一家餓死、あるいはたまに腹一杯食べて突然死する者もいたと言いますから、不憫でなりません。
実はこれは、薩長はじめとする明治政府にとってもお粗末な話でして。
薩長は地方藩であり、全国区の統治は未経験です。
明治の藩閥といえば、陸軍の長州と海軍の薩摩が有名ですね。
これは「武」という武士の特技を生かしたものだからこそ問題はありませんでした。
しかし、そうでない産業は
「どうしたらよいかわからない」
のです。
例えば、外国との外国語によるやりとりは、幕臣のほうがはるかに得意でした。
津田梅子の父・仙や、福沢諭吉が特技としていたわけです。
もちろん藩閥なんてこだわっている余裕もなく、出仕させられた者もおりました。
しかし、福沢のように「やってられねえ」と拒む者もおります。
明治政府は、地元ばかり優遇してないで(藩閥政治)、他にもっとやり方があったのでは?
そんな風に突っ込みたくなるのも仕方ないでしょう。
ついでに「2」の産業についても少し見ておきましょう。
津田梅子の父である津田仙は、数少ない産業成功者でした。
明治政府の指導がよかったというよりも、外国人農業専門家のアドバイスにより適切な西洋野菜の栽培が進み、大成功を収めたのです。
当時の日本は外国人を迎え入れておりました。つまり、西洋流の食事を作らねばなりません。
しかし、西洋野菜や肉、乳製品は少なく、なんとかして生産しなければならないのに、誰にも肝心の知識がありませんでした。
そこで明治政府は、大名屋敷の跡地等で桑や茶の生産を指導したものの、ことごとく失敗。
明治初頭の東京は人口が減り、土地は荒れ果て、華やかな帝都からほど遠い様相となっていたのです。
こんな話があります。
明治政府は、当時の士族にウサギ飼育を奨励しました。
食用の肉として育てようとしたのです。
しかし、です。
ヌケサクとしか言いようがないのですが、肝心の処理方法を指導しそこねたため、東京は一時期、野良ウサギまみれになってしまったとか――。
こうした迷走を知ると、津田仙をどうして政府で招かなかったのか、とツッコミを入れたくなってきます。
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