大正元年(1912年)8月30日は渋沢成一郎(喜作)が亡くなった日です。
大河ドラマ『青天を衝け』では高良健吾さんが演じたキーマンで、渋沢栄一の従兄弟。
共に血洗島村で育ち、共に江戸へ出て、共に上洛するという、若いエネルギーに溢れた二人ですが、その先は袂を分かち、別の人生を歩んでいきました。
では成一郎が歩んだ道とは一体どんな世界だったのか?
史実の生涯を振り返ってみましょう。
※以下は渋沢栄一の関連記事となります
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渋沢成一郎(喜作)は栄一の2才上のイトコ
渋沢成一郎(喜作)は天保9年(1838年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で生まれました。
父は渋沢長兵衛という人物で、渋沢栄一の従兄にあたります。
渋沢家は血洗島村内に多数の分家を構えていたため、そこら中に親戚がいたんですね。
栄一が天保11年(1840年)の生まれで歳も近いことから、二人は幼い頃から親しい間柄でした。
尾高惇忠の私塾にも二人して通い、「漢学の勉強に関しては、私のほうが多少上手でした」と栄一は語っています。
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同時に栄一は、二人の性格的な違いをこう分析してもいます。
「私は一歩一歩着実に進んでいく堅実な性格だったが、成一郎は一足飛びに志を果たそうという短気なところがあった。その上で人を侮るようなところもあり、私でさえその対象になるんではないかと思ったこともある」
大河ドラマ『青天を衝け』でも、どちらかというと成一郎の方が浮ついた印象はありますね。
とはいえ、同じ師に学び、同じ環境で育った二人。
黒船の来航によってもたらされた混乱の中で、ともに尊王攘夷を志したのはドラマと同じです。
成一郎(喜作)・栄一・さらに師の惇忠は三人で密議を重ね
「高崎城を乗っ取り、そこから横浜へ進軍して外国人を片っ端から斬り殺す」
という襲撃作戦を企画しました。
と、これが江戸から故郷へ帰ってきた惇忠の弟・尾高長七郎の猛反対に遭い、計画は取り止め。
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しかし彼らは兵力・軍備集めをほぼ完了し、後は決行!寸前まで進んでいたので、計画を知る人物たちが多数いる危険な状態に陥ってしまいました。
もしも誰かが幕府に密告するか、あるいは幕府の取締役に見つかれば死刑は確定。
栄一は成一郎に声をかけ、二人で「伊勢参りのついでに京へ上ります」と言い残し、京都に潜伏することを決めました。
倒幕とは真逆の行動 一橋家に仕える
やむを得ず京都に逃れた二人。
しかし、ただ危機を回避するための逃亡であり、具体的なプランなどありません。
栄一は父から一時金を受け取っていたものの、有力な志士との出会いや遊びに費やしてしまい、さらにはこのころ長七郎が人斬りの罪で捕縛されてしまいます。
長七郎が捕まったのは他人事ではありませんでした。
彼らの攘夷強行計画を知られてしまうかもしれません。
このままではお縄になってしまう。どうしたものか……と悩む彼らに手を差し伸べたのは、当時一橋家に仕えていた家臣・平岡円四郎でした。『青天を衝け』では堤真一さんが演じられていますね。
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ドラマでもそのように、若い書生と語り合うのが好きだった円四郎は、以前から栄一らと親交がありました。
京都へ上る際も、円四郎との関係から「一橋家の家臣」を詐称したほど。
円四郎は二人を呼び出すと「計画」についてそれとなく尋ねます。
案の定、長七郎へ綴った手紙が幕府サイドに見つかり、攘夷を計画しているなどの情報が円四郎にも届けられたのです。
栄一は円四郎を信頼していたため
「攘夷を実行しようと思ったことはあります。が、実際に事を起こして人斬りにおよんだことはありません」
と素直に釈明。
円四郎は「もう君たちには行き場がないだろうから、いっそ私のように一橋家に仕えてみるというのはどうか」と驚きの提案をするのでした。
浪人という現状を考えれば願ってもない話。
しかし、それまで倒幕の心を抱いてきた二人がいきなり幕臣になるというのは、あまりにも正反対であり、彼らも判断つきかねます。
彼らは二人で相談しました。
成一郎(喜作)「これまで幕府をつぶすために走り回ってきたのに、幕府と深いかかわりがある一橋家になど仕えられるか!『食べるために信念を曲げた』と言われるし、何より自分が恥ずかしい!」
栄一「もちろん一理ある。ただ、このまま野垂れ死にするくらいなら『食べるために信念を曲げた』と思われても、後で見返せばいいじゃないか。試しに仕えてはみないか?」
成「いや、何としてでも江戸に帰る!帰って牢獄から知り合いを助け出さなければ」
栄「牢から人を助けるにしたって、ただの浪人でいるよりも一橋家の家臣になるほうが救える確率も上がるだろう。悪い選択ではないんじゃないか?」
成「なるほど。それは確かに」
かくして二人は仕官を決意したのです。『青天を衝け』とまるで同じ展開ですね。
パリへ旅立つ栄一と別れ、彰義隊の頭取に
一橋家の当主は、後に「最後の将軍」になる一橋慶喜でした。
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彼らは慶喜の下で、着々と身分を向上。
しかし、幕府の14代将軍・徳川家茂が亡くなり、慶喜が次期将軍となったことで転機が起きます。
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「こんな時代に将軍なんて、単なる罰ゲームじゃないか」と栄一は深く失望し、政務へのやる気を喪失。程なくしてパリへ旅立ちます。
このころ慶喜の弟・徳川昭武をトップとするパリ万博への公使団が結成され、そこに誘われたのです。
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一方、成一郎は、公使団に加わることなく、将軍・慶喜の幕臣となりました。
彼は慶喜から厚い信任を受けており、新参の家臣ながら奥祐筆(機密文書を預かる重要な職)にまで出世。世が世なら、生涯安泰になるほどの立場に登り詰めます。
しかし、現実はそう甘くないのが、日々、政情の変わる幕末。
慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を表明したことで幕府は消滅し、翌年に勃発した鳥羽・伏見の戦いに敗れたことで、幕府軍は「朝敵」にまで成り下がってしまったのです。
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慶喜は江戸城へ戻り、新政府軍への恭順を表明するのですが……。
慶喜恭順の知らせを受けた成一郎ら幕臣たちは、多大なるショックを受けました。
そりゃそうでしょう。これから薩長が攻めてくるであろう場面で、大将はいの一番に船で逃げ、その後は江戸の寺で引きこもっているというのです。
残された幕臣らは、新政府軍との対決に向け激論を交わします。
しかし、どうにもなりません。他ならぬ慶喜が、新政府軍への抵抗を禁じ、薩長へ恭順の意を示すよう命じたのです。
主君の汚名を晴らすには新政府軍を討つしかないが、それをすれば命令違反を犯すことになる。
彼らはジレンマに苦しみ、抗戦派の本多敏三郎・伴門五郎らはひそかに同志たちと会合を繰り返し、第三回目の会合に招待されたのが成一郎と天野八郎という人物でした。
成一郎は参加を迷っていたようですが、尾高惇忠の強い勧めもあり、加入を決意します。
彼らの会合は参加者が伸びず、慶喜の側近であった成一郎を招くことで機運の高まりを狙ったようです。
実際、その次の集まりでは参加者が大幅に増加。
第四回会合の結果、頭取(隊長)を成一郎、副頭取を天野とする反乱軍「彰義隊」が誕生したのでした。
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