抹茶の歴史

源平・鎌倉・室町

日本に抹茶が根付き中国で廃れた意外な歴史~全ては栄西と源実朝から始まった

2022年『鎌倉殿の13人』の放送を機に発売された名産品の一つに『侍ハーバー 勝栗抹茶』という菓子があります。

ドラマの舞台である神奈川県の名物「ありあけのハーバー」の関連商品で、同年12月末までの期間限定。

それが武士と大河つながりで、2023年は徳川家康

そしてWBC開催期間は侍ジャパンパッケージで販売されました(→link)。

侍ハーバー

侍ハーバー/公式サイトより引用(→link

茶はご存知、中国由来ですが、抹茶という楽しみ方は実は日本にだけ残った独特の文化です。

中国では現在、なんと逆輸入されてブームの予感がしているとか。

◆抹茶ブームが日本から中国に逆輸入 茶の湯文化の復活もなるか(→link

しかもその起源は鎌倉時代で、将軍・源実朝とも深い関わりがあります。

一体なぜ日本においては独特の進化を遂げたのか?

抹茶の歴史を振り返ってみましょう。

 


栄西、茶と衝撃の出会いを果たす

竹筒に入れた水をゴクゴクと飲んだり。

宴会で酒を飲んだり。

『鎌倉殿の13人』で、北条義時たちが口にする飲み物は主にその辺りで、牛乳はもちろんジュースもなければ、お茶は……ありそうでない。

本格的に普及しだしたのが鎌倉時代だからです。

茶の伝来そのものは平安時代であったものの、爆発的な広まりは見せませんでした。知る人ぞ知る程度に止まっていたのです。

それが爆発的に広まるタイミングが訪れます。

「この神秘的な茶! みなさん、これを飲まないと、この国に未来はありませんよ……」

そう猛烈に推すインフルエンサー・栄西が登場したのが鎌倉時代でした。

吾妻鏡』にこんな記述があります。

建保2年(1214年)のこと。鎌倉幕府三代将軍・源実朝が二日酔いで苦しんでいると、栄西がお茶を勧めてきた――。

茶は二日酔いにも効きます。

しかし栄西の狙いはもっと壮大でした。

「茶を飲めば健康になる。 日本でも取り入れるべきです。そうすればよりよい国になる!」

なぜ栄西はそんなことを考えるようになったのか。

もともと彼は仏教を学ぶべく南宋に渡り、浙江・明州(寧波)で茶店に立ち寄った際、衝撃を受けました。

飲むだけで疲労が回復していく!

気分もシャキーン!

なんなんだ、これは!

茶店の主人から振る舞われたのは「五香煎」という茶。これは是非とも日本に伝えねばならない――。

そんな情熱を燃やして記したのが二巻の『喫茶養生記』であり、帰国後、源実朝に勧めたは必然の流れと言えるでしょう。

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栄西が、抹茶を強烈に推奨した理由もわかります。

中国料理の歴史において、当時の宋代は一つのターニングポイントとなっていました。

現代にも伝わる調理法は宋代に確立したものが多く、当時はそれだけ技術や経済が発展。

要は、社会が成熟したのであり、それ以前、遣唐使が終わって、大陸から文物の流入が止まっていた日本にとって、垂涎のものばかりだったのです。

栄西は仏僧ですから、東坡肉(トンポーロー)のような肉料理は導入できません。

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そこで栄西が積極導入したのが茶――神秘のスタミナドリンクです。

宋代での団茶は、きれいな模様を表面に入れ、茶碗の中で色を楽しむ、上流階級の嗜みともいえる文化もありました。

しかし栄西にとっては、あくまで健康飲料。

山を駆け巡って狩りを楽しむだけはよろしくない。

誰かの屋敷に行って酒を飲んで、歌い踊るだけでもいかん。

カフェインを含む茶を飲んで、眠気を吹き飛ばし、学問に励むだけでなく写経もしたい。

教養や信仰への意欲が高まる鎌倉時代だからこそ、茶は歓迎されました。

抹茶は、鎌倉に新時代をもたらす飲料となったのです。

 


中国では廃れた抹茶

中国の茶――と言えば、日本人が抱きがちな共通認識として吉川英治『三国志』があります。

『三国志演義』を基にして書かれた小説で、非常に印象的な茶のシーンが加筆されました。

物語は、劉備が関羽と張飛らと義兄弟の契りを結ぶ「桃園の誓い」から始まりますが、その前に、劉備が老母のため茶葉を買うシーンが吉川によって付け加えられたのです。

この場面がどうしても印象的だったのでしょう。

『三国志演義』を読み、吉川の小説には掲載されていた「茶を買う場面がない!」とクレームをつける人までいたとか。

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そもそも後漢末期に喫茶文化は存在していたのか?

茶葉を煮詰めて飲むことはあるけれど、商品として流通していたのか?

そこを考察すると、当時お茶を買う行為はグレーゾーン扱いとされます。

唐代になると「団茶」が普及しました。

蒸した茶葉を粉末にして固め、それを溶いて飲むのです。携帯には適しており、宋代はこの団茶がさらに精巧になります。

栄西が伝えた形式は、南宋・浙江を基にした形式のものでした。

その製法はざっと以下の通り。

①茶葉を蒸す

②茶葉を粉末にする

③抹茶を器に入れ、湯を注ぐ

④攪拌する

これが栄西が伝えた当時の飲み方で、抹茶粉末と湯飲みさえあれば簡単に作れます。

しかし、その後の中国では、抹茶を溶かす飲み方は廃れました。

明の初代皇帝・洪武帝が「茶葉を粉末状にする行程」を禁じたのです。

本来の美味しさが損なわれ、無駄であると見なされ、かくして中国では、煎茶の形式が定着しました。

華麗な茶道具。

蓋碗を優雅に飲む手つき。

それはそれで素晴らしいものですが、日本と中国の茶文化は異なる方向へと進化していきます。

他国でも、茶は煎じる形式が主流です。

抹茶は溶けにくく、攪拌せねば底に溜まるため、煎茶の方がより気軽に飲めたんですね。

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