横山光輝『三国志』1巻/amazonより引用

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不朽の名作『横光三国志』はいわば日本の町中華? その成立を考察してみた

「ジャーンジャーンジャーン!」

「げえっ!」

「むむむ!」

と言えば?

そうです。歴史ファンにはお馴染み横山光輝の『三国志』――通称“横光三国志”ですね。

潮出版社の漫画雑誌で横光三国志が連載されていたのは、実に今から約30~40年前【1971年 - 1987年】のこと。

にもかかわらずLINEスタンプが出れば今なお買ってしまうし、漫画喫茶に行けば思わず単行本を眺めてしまう。

長きに渡って歴史ファンの心を掴んで離さない、あの作品は一体何なのか?

実は、その成立を考えると日本の“町中華”が見えてきました。

「町中華って、はぁ? こいつ何考えてんだ?」

そう思われるかもしれませんが、少々お付き合いいただければ幸いです。

 


吉川英治版『三国志』とは?

横光三国志と切っても切れない作品――それが吉川英治版『三国志』です。

両者を読み比べると、僭越ながら『(吉川版を)原作としなくて大丈夫なのかな……』と悩むほどに酷似しております。

当時は著作権やオリジナリティに関してそこまで厳しくなかったのでしょう。

吉川版は『三国志演義』(以下『演義』)の翻訳ではなく、作者による創作部分や付加要素がかなりあります。

例えば……。

・劉備が母親にお茶を買う冒頭は吉川版のオリジナル

当時、お茶がそこまで普及していたのか、判別は難しいところであり、『演義』は「桃園の誓い」から始まります。

立間祥介氏が『演義』の訳書を出した際、読者から「お茶を買う場面を飛ばした!」とクレームをつけられたそうですが、さほどに吉川版がスタンダードになっていたんですね。

他にもあります。

・貂蟬が「連環の計」成功後に自害する

『演義』では、呂布の側室になります。

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曹操が真っ赤な衣装を身につけたイケメン

『演義』はじめ、曹操が美形であることは本来まずありません。

赤はめでたい色ですので、悪役の曹操がそんな色あいの衣装を身につけることはありえない話なのです。

日本における曹操の再評価は『蒼天航路』以来だという誤解をたまに見かけますが、吉川版の時点でかなり優遇されていると言えるでしょう。

あまりに吉川版が有名すぎるため『演義』の翻訳ととらえてしまい、その要素を引き継いだ日本の『三国志』作品は数多くあります。

横光版だけでなく、NHKの人形劇もそう。

曹操が真っ赤であれば、そういうことだとご判断いただければと思います。

 


吉川が考える魅力を描いた?

横光三国志だけでなく、日本人の『三国志』感を形成したとも言える吉川版の三国志。

その連載期間は昭和14年(1939年)から昭和18年(1943年)までであり、日中戦争と重なっていました。

そんな時期にも関わらず発表されたゆえに「中国の古典への敬意がある作品」という説明がされることもあります。

むしろ、これは逆かもしれません。

日本人の中国への理解を深め、誘うためにも、吉川が考える魅力を描いたのではないかと思えるのです。

吉川はこの作品連載の前夜に中国戦線を訪れ、「兵の死体を見た」とも書き残しています。

幼い頃から久保天随(くぼてんずい)の訳した『通俗三国志』を読み耽っていた吉川は、憧れと中国訪問で得たインスピレーションをもとに、この作品を書き上げたのです。

日本と中国には共通点がある。大東亜共栄圏として、互いを理解しつつ、発展するべきではないのか?

むしろそんな役割を担った作品であり、そこにはどうしても政治的な意図がないとは言い切れません。

当時は、中国への理解を深めるため、以下のような作品もありました。

土井晩翠が作詞し、軍歌となった『秋風落五丈原』。

 

北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌『まちぼうけ』。

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中国大陸への憧れと理解を促した作品です。

 


日本は漢籍由来の教養ありき

吉川英治だけの認識問題でもありません。

執筆当時の中国への目線を考えてみましょう。

2020年現在、書店に行くと、中国や朝鮮半島への罵詈雑言をまとめた本が目に入ります。そうした本を扱うストレスのあまり、書店員を続けられない方もいるそうで。

◆「中韓へのヘイト本」はなぜ本屋に置かれるのか(→link

この手の問題に触れるとこんな声も聞こえてきます。

「いやいや、中国人が日本人を嫌いなんでしょ。そのくせあいつらは平気で日本をパクったりするじゃない」

しかし両国の、長い歴史面から見てみますと、どうにも歯がゆい部分もあります。

かつての日本では、大陸を訪れたこともなく、生まれ育ったわけではなくても、中国を受容し理解したいと願う伝統がありました。

近現代と近世の境目となった「幕末」に目を向けてみましょう。

すぐに明治時代に入るため、幕末の日本も「脱亜入欧」を目指していたと一括りにされがちです。

しかし江戸時代まで徹底して四書五経や中国由来の古典を教科書としてきた歴史があり、知識階層からは『そんな簡単に捨て去れるものなのか……』という疑念もありました。

例えば幕末の吉田松陰西郷隆盛は、ナポレオンに憧れていました。

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では、西洋思想が中心なのか? といいますと、そう単純なものでもありません。

幕末の維新志士側の思想として「陽明学(ようめいがく)」もあります。

それまで日本の大多数の藩では「朱子学(しゅしがく)」がテキストとして採用されていたものです。

朱子学と陽明学の違いは、それだけでも何冊もの本が書けるほどですので、ざっくりまとめますと、陽明学は革命につながりかねない思想があり、危険視されていました。

当時、陽明学に興味があると示せば、

「ほう、陽明学ですか……なかなか、はじけたことを言い出しますね……」

と、ニヤリとされるような要素があったんですね。

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幕末の志士たちは西洋から知識を学んだとされますが、教育の基礎としては、まず漢籍の素養が要求されました。

そういう土台がないと「無教養だから汚れ仕事をしていればよい」とまで見なされるほど。中国古典を読みこなし、漢詩を作ることがステータスシンボルだったんですね。

だからこそ歴史上の偉人たち、例えば上杉謙信伊達政宗木戸孝允近藤勇夏目漱石乃木希典……など多くの日本人が、自分の心情を漢詩にしているのです。

昨今「漢文の授業なんて要らない」という声もたまに聞かれますが、もしそれを削除してしまうと、日本人の心情すらわからなくなりかねない危険性があります。

例えば『教育勅語』についてもそうでしょう。

「悪いことばかりじゃないと引用される部分」を分析しますと、儒教規範に沿った徳目が多い。

そもそも教育勅語には、山県有朋らの『儒教道徳を忘れては問題だ』という意識が反映されているのです。

「親孝行しましょう」「夫婦は仲良く」といった内容ですね。

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明治時代の教養にしても「中国の古典を読みこなせてこそ文人である」という意識があり、教科書にも掲載された中島敦の『山月記』は、そんな中国古典が結実した傑作でもありました。

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