仙石秀久や長宗我部信親の征伐軍を薩摩へ送り、一度はコテンパに跳ね返された秀吉の九州征伐。
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すぐさま黒田官兵衛や弟・秀長らを派遣し、自らも軍を率いて、遂に島津を屈服させた秀吉は、次にいかなる一手を繰り出したのか?
東には北条、北には伊達らの奥州勢。
未だ反勢力は健在であり、一国の覇王と呼ぶには完全ではない最中、突如、掲げた政策が「キリシタン」の追放・弾圧であった。
秀吉傘下の者たちには、官兵衛や高山右近、小西行長をはじめ、キリスト教と馴染み深い武将も多い。
果たしてコトは無事に進むのであろうか……。
伴天連追放令
◆なぜ秀吉はバテレン追放令を出したのか?
神の前に人は平等――そんなキリスト教の考え方を危険視したとする説がある一方、宣教師たちと共に活動していたポルトガル商人たちを問題視したという見方があります。
彼ら商人たちが行っていたのが「奴隷売買」。
マカオと日本を拠点に次々と日本人奴隷を送り出していたというのですから、そりゃまぁねぇ。
ただし、戦場で人さらいをしての奴隷売買は、戦国時代だと日本中で行われ、秀吉自身も手を出していたと思われます。
なお、高山右近さんは、カトリック教会で最高の崇敬対象である「聖人」に次ぐ「福者」の称号をローマ法王からもらっています。
秀吉に追放された後は前田家をたより、さらに信仰を求めてマニラへ。
現地で亡くなられています。
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ガラシャ
◆戦国一短気で、家臣も次々にぶった斬った暴れん坊として知られる細川忠興さん。
後に非業の死を遂げる細川ガラシャさんが奥さんだということでも現在の戦国ファンには知られておりますね。
武家の名門出で、父はチート武将の細川藤孝。
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千利休の弟子でもあり、まさに文武両道だった人でも性格までは関係なかったんすかね。
さてどうなることやら……。
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