1952年の山田耕筰(背景にある肖像は恩地孝四郎作)

明治・大正・昭和時代

朝ドラ『エール』志村けんさん配役のモデル・山田耕筰は日本近代音楽の父だった

日本を代表する作曲家・山田耕筰――。

その名にピンと来ない方でも、彼の名曲『赤とんぼ』なら誰しも一度は耳にしたでしょう。

 

明治時代にドイツへ渡り、帰国後の活躍から日本近代音楽の父とも称される人物です。

そんな山田耕筰を2020年朝ドラ『エール』で故・志村けんさんが演じておりますが(ドラマでは小山田耕三)、史実では一体どんな人物だったのか?

偉大なる作曲家の足跡を振り返ってみます。

 

山田耕筰の父は山っ気たっぷり株式仲買人

山田耕筰の母・久は板倉藩(福島県)士族の娘で、美しい目が特徴でした。

しかし、夫は幕末水戸藩の内戦により戦死。出戻りとなった彼女の実家は、明治維新によって朝敵とされ、三河で暮らしておりました。

そんなある日、久は喧嘩で追われてきた男を庇ったのですが……その噂を聞きつけた板倉藩御殿医の子・山田謙造です。

彼女に興味を抱き、度胸ある久に求婚し、二人は結ばれました。

この謙造が、変わり者でした。幼子を抱えた久を残し、ふらりと放浪してしまうような人物だったのです。

稼業については妻ですらわからない。

金に困ることこそなかったものの、謙造の周囲は幕末の熱気がまだ消え去らないようで、若者が家の中で論議をしていたかと思ったら、いきなり引っ越しを言い出す――そんな不思議な山田家でした。

のちに久は悟ります。

夫は株式仲買人だ――。

金融ブローカーとして濡れ手に粟を狙う謙造に、久は嫌なものを感じていました。

頭脳は明晰ながら、あまりにも自由奔放で無軌道。こんな生活は我が子の教育にもよろしくないと感じていたのです。真面目な武家の娘らしい心持ちでした。

久は、次第にある教えに救いを求めるようになります。

プロテスタントです。

規律正しく、清貧を理想とする思想こそ、久が求めたものに一致。謙造は、そんな妻に最初こそ黙っておりましたが、彼女がプロテスタント信仰を我が子に教えるとなると狡猾な妨害をするようになります。

愛し合っていないわけではない。ただ、憎しみがないわけでもない。

無軌道で荒ぶる父と、頑なに地に足ついた生活を望む母。

明治19年(1886年)、東京の本郷にあるそんな山田家に、耕筰は生まれました。

 

父を喪い母と鎌倉へ 魚釣りで家計を助ける

山田耕筰にとって、父の記憶はぼんやりとしたものです。

明治29年(1896年)のこと――。

「耕坊!」

大きな声が聞こえてきました。父が何かを吐き出している姿。痰を吐き、息子がそれを取る役目でした。

医師でもある父は、余命幾ばくもないことを悟っていたのでしょう。

それまでは山っ気のある人物でしたが、足を洗い、キリスト教の伝道事業に関わるようになっていきます。

ある日、父が大声で「耕筰!」と息子を呼びつけました。

「坊」をつけない呼び方は珍しい……。何事か?と驚いている息子の耕筰の頬に、突然痛みが走りました。平手打ちをされたのです。

怯えた息子が逃げ去ってから間も無くして、父は亡くなります。

10歳にして山田耕筰は父を失いました。

母子家庭となった山田家を救ったのは母の信仰心。耕筰は巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入ります。

プロテスタントは、貧者の救済を担っていました。山田はこの施設のもとで過ごすことになります。

勉学だけではなく活版場での下働きもせねばならないほど、生活は苦しく、13歳の時、肋膜炎に倒れた耕筰は一命をとりとめるものの、母と鎌倉での半年にわたる静養を余儀なくされました。

とはいえ、幼い彼なりに魚を釣り、少しでも生活費を稼ごうとしました。

地元漁師に「坊っちゃまの道楽」扱いされながら、大波に飲まれそうになりながら、魚を釣り続ける耕筰。周囲の猟師たちも、その姿を見ているうちに、親孝行な子だと認識していきます。

耕筰は、釣った魚で行商までして、母に尽くしました。

東京に戻るまで、そんな母と子の生活が続いたのです。

 

義兄ガントレットに音楽の素晴らしさを教えられ

引っ込み思案でおとなしい少年は、どこか寂しい環境の中で、感受性を研ぎ澄ませてゆきました。

横須賀に駐留する軍楽の音。

日清戦争の折に耳にした、威勢の良い歌。

姉が習ってくるミッションスクールの賛美歌。

明治日本という国家が奏でる音楽を聴いて育ってゆきます。

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プロテスタント信仰のある家族で育った自営館によって、貧しい生活を助けられた山田が、西洋音楽に目覚めるのは当然の流れと言えました。

明治32年(1899年)、耕筰は東京から岡山に移りました。姉の恒を頼り、岡山の養忠学校に入学したのです。

この前年、姉の恒はイギリスから来日していた牧師兼教育者のエドワード・ガントレットと結婚していました。

彼は優しく、実の弟のように彼を可愛がってくれました。このかわいい弟を呼び寄せ「ペテロ」と呼び、教育を施すこととしたのです。ペテロとは聖ペトロから取られた名前です。

夕食を取ると、義兄はオルガンを弾きます。

山田はこの義兄のために楽譜めくりをしながら、ベートーベン、モーツァルト、メンデルスゾーンの旋律を耳にしてきました。

そのうち、楽譜も読めるように……となると楽譜めくりだけでは満足できません。

自ら演奏し、曲を作る――耕筰は一歩ずつ音楽の才能に目覚めてゆきます。

ガントレットはそんな義弟を応援してくれました。英語、速記術、そしてエスペラント語まで指南。期せずして山田は日本におけるエスペラント語最初期の学習者となるのです。

 

私は音楽家になる

ガントレットは、ともかく義弟のペテロが好きで仕方なかったようです。

よく登山にも同行させ、惜しみなく珍しいおもちゃを買い、電車模型を義兄弟で走らせては二人ではしゃぎました。

そんな義兄は、なまじ外国人の家にいるため反発されやしないかと、山田を気遣い、護身用のピストルまで渡していたというのですから驚かされます。もっとも、実弾はこめていなかったそうですが。

そんなガントレットは、妻と共に話し合っていました。

あの可愛いペトロを、この先もっとよい学校へ行かせるべきではないか?

かくして彼らの愛と支援を受け、山田は明治35年(1902年)、関西学院中学部に転入します。

義兄と離れた寂しさはあったものの、通学は山田が習ったことを練り上げる機会となりました。

そして入学から2年後の秋。

初作品『MY TRUE HEART』を作曲したのです。

それまで音楽に心惹かれたことはありました。義兄ガントレットに薫陶を受け、のめりこんでいきました。そして学校で学ぶこの頃になると、はっきりとした願望が胸に湧き上がってきます。

私は音楽家になる――。

そのためには専門の教育を受けたい。

 

音楽の道を応援してくれながら世を去った母

このころ柴田という教師が、渡米を計画していました。山田もそれに同行しようと考え初めます。

とはいえ目的が音楽指導ではまずい。

英文学研究という名目ではどうだろうか? と策を練りつつ、母に相談するため、姉夫妻の家に戻ります。

そこで山田が目にしたのは、病に倒れ、看病を受ける母の姿でした。

卒業前に進路の相談をしたい、旅券のこともある。そう語る我が子に、母はやつれた顔で語りかけます。

「お前がここに来た理由。私の余命が短いこと。それに、本当の気持ちもわかっている。何よりも音楽を学びたいのでしょう。渡米して英文学を学ぶというのは口実。見抜いているから。でも、日本にも官立音楽学校はあるのだから、そこでまず学びなさい。その上でどこへでもお行き。兄にも姉にも、母の遺言として言い聞かせるから……」

夫を亡くしたあと、苦労しながら自分を育ててくれた母。その母は、我が子のことを見抜いていました。

母が音楽への情熱のみならず、音楽校の存在や進路まで気にかけていたことに感激し、胸を詰まらせるしかない耕筰。

それからほどなくして母・久は、我が子の奏でる賛美歌を聴きながら世を去ったのでした。

母の死は、ますます彼の決意を強めます。

かくして関西学院中等部を四年で切り上げ、明治37年(1904年)、東京音楽学校予科の受験を目指しました。

苦労して合格を果たすものの、家族の目は冷たいもの。姉の恒が5円を仕送りしている中、労働もする苦学生としての日々が始まりました。

しかし耕筰は、ここで貴重な青春の日々を送ることができました。
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