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【山田耕筰】
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何もかもが旋律となって昇華されていく
許嫁から別れを告げられた山田。
その目には、ドイツの風景や街並み、そして白夜、絵画、道ゆく人々の姿が映ります。
耳には、風の音や鳥の声が入ってきます。
日本からは、友人の励ましの手紙も届きます。
その中には、驚愕の経験もありました。
なんと、学校視察にやってきたヴィルヘルム2世が、山田に興味を見せたのです。
「日本人が音楽だと? 不思議だ。しっかり勉強したまえ」
カイザー(皇帝)の激励する濁声も、山田の脳裏に刻まれたのでした。
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悲嘆も、経験も、異国でであった可憐な少女の面影も……何もかもが彼の中で旋律となって昇華されていく。そんな日々。
交響曲、管弦楽曲、オペラ……山田の作る曲は「日本人初」とされるものばかりでした。
28歳となった大正3年(1914年)、山田は帰国を果たします。
実はこの年、岩崎の主催する東京フィルハーモニー会に管弦楽部が創設されました。
ドイツから帰国した山田は、その指揮者にはまさしくうってつけ。さっそく指揮を委ねられ、翌年には第一回公開演奏会が開催されます。ただし、この楽団は定期演奏会を開いただけで解散されました。
この歳に永井郁子と結婚するものの、翌年には離婚。女優の村上菊尾(本名・河合磯代)とスピード再婚を果たします。
どうにも山田には、スキャンダラスな噂がつきまとうようです。
同時代の三浦環にもそんな誤解があったものですが、この“永井郁子”の名前とスピード離婚、再婚については少し頭の隅にでも入れておいていただければとは思います。
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カーネギー・ホールで自作の交響曲を演奏
公私ともに波乱のあった山田ですが、彼ほどの実力があれば、引く手数多。
すぐさま次いで小山内薫と「新劇場」を結成します。
大正7年(1918年)には渡米し、一年半ほど滞在しました。
このとき、カーネギー・ホールで自作の交響曲『勝どきと平和』の演奏を果たしています。
翌年には、交響詩『暗い扉(と))』、『曼陀羅(まだら)の華』等による2回目の演奏会を指揮したのでした。
山田は国際的にも高い名声を誇りました。
昭和6年(1830年)には45歳で招聘されてフランスへ。昭和11年にはレジオン・ドヌール勲章を受けています。47歳となった昭和8年(1932年)には、ソヴィエト連邦へ招かれて妻とともに赴いております。
30代は彼自身が最も精力的に創作活動に打ち込んだ時代でもあり、日本の音楽史においても重要な時代です。
山田は総合芸術楽劇『堕ちたる天女』や『青い焰』、『マリア・マグダレーナ』、『野人創造』など、多くの曲が送り出してゆきます。
その活躍は音楽にはとどまりません。
三木露風「牧神会」に参加。
北原白秋とともに、日本独自の詩と音楽を生み出すべく、雑誌『詩と音楽』を創刊し、「音楽の法悦境」「立体音楽堂の構想」といった独自の作曲論を展開しました。
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北原白秋作詞、山田耕筰作曲により、新たな音楽を芸術と感性にもたらそうと、二人は協力したのです。
私達が音楽の時間に習うような童謡は、まさしくこの二人が始めたものでした。
※映画『この道』
少年時代の古関が山田に怒りを覚える
充実した歳月のあと、元号は大正から昭和へと変わります。
昭和2年(1927年)、日本初のトーキー映画『黎明』の音楽を担当したのも山田でした。
一方、このころ、福島県と愛知県で、何通もの手紙が行き交っておりました。
福島からの手紙は、内気な古関裕而という少年から。
愛知からの手紙は、勝気な内山金子という少女からのものです。
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まだお互い顔をあわせたことすらないものの、熱い恋心に燃えていた二人。
内山はイギリスの音楽コンクールに入賞した古関に楽譜を送って欲しいと頼み込み、古関は写しを送ると約束したのでした。
ロマンチックなこの文通が、やがておよそ一世紀を経て、2020年の朝ドラ『エール』で再現されるのですから、有名人とはなかなか大変なものです。
さて、山田の話にどうしてこの文通が出てくるのか?
手紙で山田について言及されているからなのです。音楽を愛する若い二人にとって、山田はまるで神のような大作曲家でした。
しかし、その文面は次第に「腐った品性」と山田を罵倒するものとなっていくのです。あんな男はいつか超えてやるという古関の野心も、恋する内山ならば吐露できました。
なぜ、文通でそんな展開になったのか?
雑誌で報じられたスキャンダルを古関が信じてしまったのです。
福島の純朴な古関にとって、
「山田耕筰氏と受難の永井郁子(初婚、スピード離婚したソプラノ歌手)女史」
「恋神現る――意味深長の長椅子」
「奪はれた唇……彼も喘ぎ彼女も喘ぐ」
という記事はあまりにも扇情的でした。
これを受けた古関から、金子への手紙にはこう書かれておりました。
私も、つひ一・二ヶ月前迄は、氏を崇拝してました。しかし、あの『主婦の友』の三・四月に連載された山田耕筰の内面を知った時、私は極度に、憤慨しました。
彼の芸術は立派だかも、知らないが、あの、腐った品性を、読んだ時、彼の作品にも、その悪性がしみ込んで居るかと思ふと。
日本随一の偉大な作曲家と崇拝してた、山田耕筰。今は彼を信ずる事が、出来なくなりました。
自分は、芸術に於て、山田耕筰氏以上にならい、否、断然山田耕筰氏を抜かうと思つてます。しかし、人格は、もう考へる丈けで、いやになります。
(誤字は文中のまま)
だからといって、ここまで罵倒されるというのも山田には酷な話かもしれません。時間もかなり経過してはいます。
このあと、古関と内山は文通を経て結婚に至り、音楽家を目指すことになります。
ロンドン行きの夢を絶たれて、福島で悶々としている古関夫妻。そんな彼らが昭和6年(1930年)上京できたのは、コロムビアレコードに対して相談役であった山田が、古関ならばよろしいと太鼓判を押したからなのでした。
日本が戦争へ向かう中、古関裕而という作曲家は、このあと時局が求め制限するまま、兵士の背中を押す軍歌を作曲することとなります。
それは山田も同じことでした。
大日本帝国の音楽家として
北原白秋と山田のコンビが作った童謡に『待ちぼうけ』があります。
この歌に出てくる話は、日本ではなく中国古典由来のものです。
『韓非子』の「守株待兔(しゅしゅたいと・くひぜをまもりてうさぎをまつ)」を童謡としたのです。
どうして日本ではなく中国なのか?
それは満洲国で歌われる「満洲唱歌」として作られたものであったから。中国の故事を日本人が作詞作曲することこそ「五族共和」の体現とされたのでした。
音楽と政治は決して無縁ではありません。
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山田も、拡張する大日本帝国の音楽家としての歩みをたどるようになります。
昭和15年(1940年)、オペラ『夜明け』(のちに『黒船』に改題)が初演され、この公演に対して翌年には朝日文化賞が贈呈。
昭和17年(1942年)には帝国芸術院会員に名を連ねました。
日本音楽文化協会会長に就任したのは昭和19年(1944年)のこと。
古関が歌謡曲で民衆を駆り立て、慰問団に参加するのであれば、山田は軍服を見にまとい、軍刀を身につけ、挺身隊を結成し、各地を演奏旅行で回りました。
大御所らしく、日本人を鼓舞する音楽を作り続けたのでした。
※皇紀2600年奉祝曲『神風』
古関と違い、山田は徴兵まではされません。だからといって、戦争と無縁であると言い切ることもできない。
皇紀2600年奉祝曲の指揮をとっていたのは、山田なのです。
中止となった夏季東京と冬季札幌のオリンピック。そして万博まで一体化して構想されていた企画に音楽面で参加し、その先頭にいたのは山田でした。
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終戦後の昭和20年(1945年)、音楽評論家の山根銀二から戦争犯罪責任を追及された山田。
これに対して「果して誰が戦争犯罪人か」を書いて反論します。
この件については、山田も、批判した山根も、古関にせよ、皆五十歩百歩であるとは感じられます。
むしろあの時代、反戦を唱えて音楽を作り発表できたのか? という状況です。
戦意高揚につながらないものは音楽ですらない。
音楽だけではなく、芸術そのものが軍需品であったことは確かです。
三浦環のように、祖国が勝てるわけがないと冷静な目で世を見て、時局に賛同せずにいた音楽家はごく少数の例外でした。
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ただ、そこを見て見ぬふりをして通り過ぎるか、認識するか。
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明治から昭和にかけての日本そのもの
戦後になり、ヒットメーカーとなった古関。
彼は昭和を見続けた作曲家となりました。
一方、山田にはそこまでの長い時間はありません。
昭和23年(1948年)62歳のとき、脳溢血で倒れます。
昭和25年(1950年)には第一回放送文化賞を受賞。翌年には「山田耕筰賞」を設立し、後進を見守るようになりました。
さらにその2年後の昭和31年(1956年)には、70歳にして文化勲章を受賞しています。
この歳、長年連れ添った妻・菊尾と離婚し、辻輝子と2度目の結婚をしています。
そして昭和40年(1965年)末、世を去りました。
享年79。
山田耕筰は、日本人ならば誰もが知る音楽の巨人です。
ただ、必ずしも好意的に見られていたわけではありませんでした。
結婚の経緯にすっきりしないものを感じる方がいても、おかしくはありません。古関が手紙で罵倒するほどのスキャンダルがあったとしても、不思議はないのかもしれません。
セクシャルハラスメント、#Metooという概念が誕生する遥か前のこと。そうした恋愛遍歴は大目に見られ、かつ芸術家ともなればそうしたものであったことは確かです。
そうしたプライベートのみならず、戦時中はのちに論争となったほど軍部に協力したことも事実です。
山田にせよ、古関にせよ、音楽と政治、国の歴史は切り離せないということでしょう。
古関裕而の人生とは、昭和史の体現でした。
山田耕筰の人生は登りゆき、そして落ちた、明治から昭和にかけての日本の体現といえるのでしょう。
『エール』でそうした音楽と戦争、近現代史の関わりがどう描かれるのか。
注目したいところです。
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文:小檜山青
【参考文献】
山田耕筰『山田耕筰自伝 若き日の狂詩曲』(→amazon)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史』(→amazon)
『国史大辞典』
他