歴史好きの皆様には、いまいち反応のよくない2019年大河ドラマ『いだてん』。
確かに、オリンピックを主としたドラマですから、戦国武将の合戦謀略や、幕末志士たちの波乱万丈をお好みの方に、どストライクとは言い難い内容でしょう。
しかし、見放すのはまだ早い。
歴史的要素が薄いと思われる『いだてん』でも、エンタメ的には十分に熱い。
たとえば当時は
「野球なんてけしからん!」
という風潮があり、だからこそ、そこにはドラマも生まれました。
今回、注目してみたいのは、野球のみならずスポーツ全体を日本に広めた天狗倶楽部です。
ドラマの中では
「て・ん・ぐ!て・ん・ぐ!」
という盛り上げで早くも一部で話題になってはおります。
天狗倶楽部――。
一体どんな集団だったのでしょうか?
お好きな項目に飛べる目次
日本近代スポーツの黎明期とは
明治の世を迎え、近代化へと舵を切った日本。
様々な文物を吸収し、急激な西洋化をすすめる中、「スポーツ」も上陸しました。
江戸時代まで、スポーツといえば武家の鍛錬である剣術、馬術、弓術といったものが主流です。
庶民に慣れ親しんだ相撲もありましたが、西洋由来のスポーツは日本人にとって未知のものであり、特に武士教育を受けた幕末の人たちからは「けしからん!」となりがちでした。
剣術や柔術は武士のたしなみであり、神聖な道場で鍛錬すべきものです。
しかし、西洋由来のスポーツは純然たる娯楽。健康促進という名目はあるものの、従来の価値観からはとても受け容れられません。
そんなメンタリティとは無縁なのが、明治以降に誕生した若者たちです。
「楽しくて、体によくて、ワクワクする! スポーツって最高だぜ!」
「江戸時代生まれのおじちゃんにはわからねえよな!」
血気盛んな彼らにとってはこうなるワケで。
一方の年配層から見ると、スポーツを好む若者は「あんな娯楽性の高いものを好む輩どもめ!」とすら思われておりました。
明治時代、スポーツに関わる論争は、世代間での対立にもつながっていたわけですね。
『いだてん』の舞台は、そういう時代。
明治が舞台でちょっとなぁ……と思っていた方、なんだかワクワクしてきませんか?
野球やろうぜ!「天狗倶楽部」誕生!!
そんな時代に結成されたのが愉快痛快な「天狗倶楽部」です。
きっかけは、野球の試合でした。
「若者が野球に夢中になると精神に悪影響が及んでしまう!」
当時はそんな【野球害毒論】が提唱されておりました。
現代人からすると口あんぐりですが、若者の【オレたちゃ堂々を野球をやるぜ!宣言】は、大人への抵抗でもあったのです。
始まりは1909年(明治42年)頃。
ドラマで武井壮さんが演じる冒険小説家の押川春浪(おしかわしゅんろう)です。
彼が声をあげて、野球の試合を始めたことが「天狗倶楽部」誕生のキッカケでした。
スポーツを楽しむ、日本初のレクリエーションクラブです。
結成が「頃」と曖昧なのは、主宰者の押川すら。
「どういうきっかけだったかなあ」
と回想するほどでして。
おそらくやノリで集まって、あれよあれよと膨れあがっていったのでしょう。
ちょうど現代のネットカルチャーが、次々に新たなノリで新サービスが産まれていくのと似ているかもしれません。
この押川は、冒険心あふれる活きの良い青年でした。
5才下の弟・清が野球選手として才能を見せ始めたことをきっかけに、野球というスポーツにのめりこんでいったのです。
野次将軍の吉岡やインテリ派の中沢
押川の周辺には「快男児」と自覚する多くの青年が集まってきました。
例えば、名物応援団員の吉岡信敬(よしおかしんけい)。
野球選手としてはまずまずながら、ともかく応援が素晴らしく、「野次将軍」というあだ名で呼ばれる名物男となりました。
『いだてん』では、満島真之介さんが演じます。
ちなみに「天狗倶楽部」のエールは、
【テング、テング、テンテング、テテンノグー♪ 奮え、奮え、天狗♪】
だそうです。
作中でも是非、再現していただきたいところ。
そして頭脳派のメンバーが中沢臨川(なかざわ りんせん)。
工学博士であり、インテリでした。
豪快なバンカラタイプだけではなく、知能派の若者も在籍していたのが、「天狗倶楽部」なのです。
『いだてん』では、近藤公園(こんどう こうえん)さんが演じます。
スポーツ振興にも大いに貢献する
「天狗倶楽部」は、日本初のスポーツクラブです。
そのためか、現在からすると活動範囲も広く、近代スポーツ黎明期において大変な影響力も持っていました。
メンバーの出入りは自由。
ともかくスポーツで盛り上がりたい若者ならば、即座に飛び込める魅力があったのです。
彼らの職業も様々で、アスリートのみならず、作家、ジャーナリスト、博士、公務員、はては学校長から僧侶まで、様々なものでした。スポーツを愛する闊達な心があれば入会できたわけで、門戸の広い大らかな団体でした。
野球なんて卑しい競技は潰しちまえ!害悪論のピンチ 守り抜いたのは押川春浪
続きを見る
しかも代表者の押川が執筆業に就いていたこともあり、スポーツジャーナリズムの黎明期を牽引した団体ともなります。
もっとも、そのせいで押川は新渡戸稲造相手に「野球害毒論」を巡って大論争を繰り広げ、そのため消耗し、失意のうちに最期を迎えることにはなるのですが……。
オリンピック予選 羽田運動場の建設に尽力
こうしたジャーナリズムだけではなく、天狗倶楽部は、スポーツ振興にも直接協力しました。
明治44年(1911年)、スウェーデンで開催される第5回ストックホルム国際オリンピック大会。
その日本代表選考会である「オリムピク大會予選競技会」が開催されたのは、日本初の本格的なスポーツ競技会場である「羽田運動場」です。
この建設に尽力したのが、中沢臨川です。
もともとは押川のスポーツ振興の情熱を受けて、中沢が立ち上がりました。
中沢は大学卒業後、京浜電鉄に技師長として勤めておりました。
当時の京浜電鉄は、現在の羽田空港のあたりに6万坪もの土地を所有しておりながら、しかし使用予定がありません。
そこで中沢が、押川と共に京浜電鉄経営者へ直談判。
なんとか説得して、1万坪をスポーツ競技場として整備できるよう説得したのです。
京浜電鉄側としてはただの慈善行為ではなく、スポーツ観戦を目的とした乗客増加を見込んでのことです。
現在ならば特にバッシングの対象ともなりませんが、当時は新聞にこう叩かれました。
「スポーツ振興とかいうけど結局金目当てだろ!」
それだけ当時は、スポーツが何かとバッシングされやすかったのでしょうね。
残念ながらこの競技場は、数年後の台風で冠水してしまい、使われなくなってしまいました。
とはいえ、日本初の五輪選考会会場であった歴史は残ったのです。
飛び入り参加の三島が五輪へ!
「天狗倶楽部」のメンバーであり、スポーツ万能で知られた三島弥彦は、この大会に当初審判として参加する予定でした。
しかし生来のスポーツ好きの血が疼いたのでしょう。
なんと、飛び入りで100メートル、400メートル、800メートル走に参加。並み居る選手を抑え、堂々優勝してしまったのです。
思いも寄らぬことながら、代表の切符を射止め三島は、長距離走の代表・金栗四三と並んで、日本初の五輪代表となりました。
その詳細は、関連記事の金栗四三や三島弥彦に掲載されておりますので、それぞれご覧いただければ幸いです。
日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~初の「箱根駅伝」も開催した92年の生涯
続きを見る
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦~大会本番での成績は?
続きを見る
文:小檜山青
【参考文献】
『熱血児 押川春浪―野球害毒論と新渡戸稲造』横田順彌(→amazon link)
『国史大辞典』