織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

織田家 信長公記

焼香投げつけた直後に政秀が自害|信長公記第9話

2019/02/12

『信長公記』首巻9節は、いよいよ信長が織田家の家督を継ぐことになったときのお話。

まだ41歳だった父・織田信秀が突然亡くなり、慌ただしくその日がやってきたのでした。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

病死説から暗殺説まで死因定まらず

まず父・信秀の死因について。

これがハッキリしておりません。

流行り病による病死説や暗殺説、はたまた腹上死や腎虚(じんきょ)など。

現代でもいろいろな仮説が立てられていますが、流行り病ならば、もっとそれらしい記録が残るはずです。

信秀一人が亡くなった程度では「流行」したうちに入らないでしょう。

織田信秀像

織田信秀像/wikipediaより引用

当時、最も栄養状態や体力が優れていたであろう武家の当主が亡くなるような病なら、一般人や城内の女子供などに、もっと被害が出ているはずです。

そういうときはだいたい何らかの記録が残されますし、地元で神仏や妖怪と結び付けられて、訓戒めいた伝説ができることもあります。

腹上死と腎虚の意味がわからない方は、検索でご確認ください。

ここで説明するのはちょっと^^;

 


常識的な弟と非常識無礼な兄

というわけで、この節では信秀の葬儀でのことが主に書かれています。

若い頃の織田信長を表す逸話として、一二を争うほどに有名なエピソードですね。

葬儀において。

信長と弟・織田信勝(信行)は、それぞれの家老にお供されて出席しました。

信長……林秀貞・平手政秀など

信勝……柴田勝家・佐久間盛重・佐久間信盛など

そこで信行が葬儀にふさわしい振る舞いでいたのに対し、信長は【父親の位牌に焼香を投げつけてさっさと出ていってしまった】とされます。

あまりに劇的な展開で、フィクションとかでも欠かせないシーン。

元ネタは信長公記だったワケです。

 

 

父への愛情の裏返しだとしても

果たしてその真意は何だったのか?

信長の身になって好意的に考えると、

『まだ尾張一国すらまとめられていないのにさっさと死にやがって、バカオヤジ、チクショー!』

と愛情の裏返し的な行為だったようにも取れますね。

イラスト・富永商太

しかし、家臣や参列者には信長の心中などわかりません。

もともと評判の良くない「うつけ」のすることですから、眉をひそめたり、陰口を叩いたり、弟・信勝への支持を強めるなどの反応をした人が多かったでしょう。

信長付きの家老である平手政秀あたりは、胃を痛めていたかもしれませんが……。

 

息子と信長の仲違いに心苦しめていた?

『信長公記』では、

「筑紫から来たとある旅の僧侶だけが、『あの方はただ者ではない』と信長を褒めた」

と書かれています。

古い時代の偉人伝ではよくありますね。

こういう「全くの他人が若い(幼い)頃の偉人に出会い、素質を見抜いた」みたいな話。

信長の素行に胸を痛めていた政秀が切腹してしまったのは、信秀の葬儀から1年近く経った後のことでした。

絵・小久ヒロ

現在では、こんな見方が強くなっています。

「かつて信長と政秀の息子・五郎右衛門が名馬を巡って言い争いになり、仲が悪くなってしまったことを悩んで自害した」

小説などの創作物では、美談として「命をかけて信長の奇行をやめさせるため」という諫死説を採ることが多かったので、そちらのイメージが強いですかね。

他にも、信行派との政争の末に……という説もありますが、これはやや少数派です。

 


沢彦を開基にして政秀寺を建立

平手政秀の死後も日常生活を改めなかった信長ですが、政秀のために、その名を冠した

「政秀寺(名古屋市中区)」

を建てています。

初代住職・開基は沢彦宗恩(たくげん そうおん)。

彼は政秀の依頼で信長の教育係を務めることになった僧侶ですので、適任だと考えられたのでしょう。

僧侶が教育していながら、信長は7節で触れたような行いをしていたのか?とか、そもそも宗恩はそのことについて何も言わなかったのか?なんて、いろいろツッコミたくなってきますね。

織田信長の肖像画
なぜ信長は美濃制圧後に「岐阜」と名付け「天下布武」の印文を用いたか

続きを見る

もしかすると、信長の奇行ぶりは宗恩の公認みたいなものだったかもしれません。

というのも、宗恩は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な僧・快川紹喜(かいせん じょうき)と親しい仲だったとも伝わるのです。

さらには紹喜の弟子が伊達政宗の生涯の師・虎哉宗乙(こさい そういつ)でした。

そこには独特の興味深い教えがありました。

 

自らの采配で尾張統一を!

虎哉宗乙は、政宗に「へそ曲がりの極意」とも呼べるような、ひねくれぶりを教授したといわれています。

暑いときには寒いといい、痛いときには痛くないといい、「人前で決して寝転がるようなだらしない男になるな」とも教えたとか。

政宗は生涯これを守り、死の直前には正室の愛姫にすら、

「横たわっただらしない姿を見せたくないから、見舞いに来るな」

とまで言っていたとされます。

へそ曲がりも、ここまで来るといっそ立派なものです。

そういう人の師匠の友達……となれば、宗恩も並大抵の僧侶ではなかったでしょう。

さすがに事細かな指示はしなかったでしょうが、信長の奇行に何らかの影響を与えていたはずです。

政秀が諫死だった場合、宗恩との教育方針の違いに思い悩んで……なんて理由もありそうですね。

先述の通り、信長と息子の板挟みに悩んでいたほうが可能性は高いのですが。

ともかく、こうして父親と「じいや」を失った信長は、いよいよ自分の采配で尾張を取るために動いていきます。

しかし、その途上には身内という名の難敵が数多く立ちふさがりました。

この後しばらくは、そのお話が続きます。

次の第10話👉️赤塚の戦い 家督継承後の初戦|信長公記第10話

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

織田信秀
織田信秀(信長の父)の生涯|軍事以上に経済も重視した手腕巧みな戦国大名

続きを見る

柴田勝家の肖像画
柴田勝家の生涯|織田家を支えた猛将「鬼柴田」はなぜ秀吉に敗れたか

続きを見る

丹羽長秀
丹羽長秀の生涯|織田家に欠かせない重臣は「米五郎左」と呼ばれ安土城も普請

続きを見る

参考文献

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-織田家, 信長公記

目次