イラスト・富永商太

織田家 信長公記

焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる信長公記9話

沢彦を開基にして政秀寺を建立

平手政秀の死後も日常生活を改めなかった信長ですが、政秀のために、その名を冠した
「政秀寺(名古屋市中区)」
を建てています。

初代住職・開基は沢彦宗恩(たくげん そうおん)
彼は政秀の依頼で信長の教育係を務めることになった僧侶ですので、適任だと考えられたのでしょう。

僧侶が教育していながら、信長は7節で触れたような行いをしていたのか?とか、そもそも宗恩はそのことについて何も言わなかったのか?なんて、いろいろツッコミたくなってきますね。

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もしかすると、信長の奇行ぶりは宗恩の公認みたいなものだったかもしれません。

というのも、宗恩は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な僧・快川紹喜(かいせん じょうき)と親しい仲だったとも伝わるのです。
さらには紹喜の弟子が伊達政宗の生涯の師・虎哉宗乙(こさい そういつ)でした。

そこには独特の興味深い教えがありました。

 

自らの采配で尾張統一を!

虎哉宗乙は、政宗に「へそ曲がりの極意」とも呼べるような、ひねくれぶりを教授したといわれています。
暑いときには寒いといい、痛いときには痛くないといい、「人前で決して寝転がるようなだらしない男になるな」とも教えたとか。

政宗は生涯これを守り、死の直前には正室の愛姫にすら、
「横たわっただらしない姿を見せたくないから、見舞いに来るな」
とまで言っていたとされます。

へそ曲がりも、ここまで来るといっそ立派なものです。

そういう人の師匠の友達……となれば、宗恩も並大抵の僧侶ではなかったでしょう。
さすがに事細かな指示はしなかったでしょうが、信長の奇行に何らかの影響を与えていたはずです。

政秀が諫死だった場合、宗恩との教育方針の違いに思い悩んで……なんて理由もありそうですね。
先述の通り、信長と息子の板挟みに悩んでいたほうが可能性は高いのですが。

ともかく、こうして父親と「じいや」を失った信長は、いよいよ自分の采配で尾張を取るために動いていきます。

しかし、その途上には身内という名の難敵が数多く立ちふさがりました。
この後しばらくは、そのお話が続きます。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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