イラスト・富永商太

織田家 信長公記

焼香投げつけた直後に政秀が自害|信長公記第9話

2019/02/12

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
焼香投げつけた直後に政秀が自害|信長公記第9話
をクリックお願いします。

 

沢彦を開基にして政秀寺を建立

平手政秀の死後も日常生活を改めなかった信長ですが、政秀のために、その名を冠した

「政秀寺(名古屋市中区)」

を建てています。

初代住職・開基は沢彦宗恩(たくげん そうおん)。

彼は政秀の依頼で信長の教育係を務めることになった僧侶ですので、適任だと考えられたのでしょう。

僧侶が教育していながら、信長は7節で触れたような行いをしていたのか?とか、そもそも宗恩はそのことについて何も言わなかったのか?なんて、いろいろツッコミたくなってきますね。

織田信長の肖像画/稲葉山城を攻略して美濃を制圧した信長が「井口」の地を「岐阜」と命名し、印文を「天下布武」に変えた理由
なぜ信長は美濃制圧後に「岐阜」と名付け「天下布武」の印文を用いたか

続きを見る

もしかすると、信長の奇行ぶりは宗恩の公認みたいなものだったかもしれません。

というのも、宗恩は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な僧・快川紹喜(かいせん じょうき)と親しい仲だったとも伝わるのです。

さらには紹喜の弟子が伊達政宗の生涯の師・虎哉宗乙(こさい そういつ)でした。

そこには独特の興味深い教えがありました。

 


自らの采配で尾張統一を!

虎哉宗乙は、政宗に「へそ曲がりの極意」とも呼べるような、ひねくれぶりを教授したといわれています。

暑いときには寒いといい、痛いときには痛くないといい、「人前で決して寝転がるようなだらしない男になるな」とも教えたとか。

政宗は生涯これを守り、死の直前には正室の愛姫にすら、

「横たわっただらしない姿を見せたくないから、見舞いに来るな」

とまで言っていたとされます。

へそ曲がりも、ここまで来るといっそ立派なものです。

そういう人の師匠の友達……となれば、宗恩も並大抵の僧侶ではなかったでしょう。

さすがに事細かな指示はしなかったでしょうが、信長の奇行に何らかの影響を与えていたはずです。

政秀が諫死だった場合、宗恩との教育方針の違いに思い悩んで……なんて理由もありそうですね。

先述の通り、信長と息子の板挟みに悩んでいたほうが可能性は高いのですが。

ともかく、こうして父親と「じいや」を失った信長は、いよいよ自分の采配で尾張を取るために動いていきます。

しかし、その途上には身内という名の難敵が数多く立ちふさがりました。

この後しばらくは、そのお話が続きます。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

織田信秀
織田信秀(信長の父)の生涯|軍事以上に経済も重視した手腕巧みな戦国大名

続きを見る

柴田勝家
柴田勝家の生涯|織田家を支えた猛将「鬼柴田」はなぜ秀吉に敗れたか

続きを見る

丹羽長秀
丹羽長秀の生涯|織田家に欠かせない重臣は「米五郎左」と呼ばれ安土城も普請

続きを見る

参考文献

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-織田家, 信長公記

目次